司馬遼太郎記念館

司馬遼太郎記念館
司馬遼太郎記念館

東大阪税務署へ行くついでに久しぶりに司馬遼太郎記念館に行ってきました。

司馬遼太郎の各作品は22歳の自分に向けて書かれたことで有名です。学徒出陣で満州の戦車部隊に配属され、終戦は日本に戻ってアメリカ軍の上陸に備えていた時に迎えました。その時に思ったのが日本人はなんで、こんなにバカになったのか、どこで間違えたのかというテーマでした。ここから数々の歴史小説が生まれます。

そういえば最近、「それでも日本人は戦争を選んだ」(加藤陽子著、新潮文庫)を読みましたが、明治以降の日清戦争などからの歴史に焦点をあてています。

けっこう知られていない話が多く、例えば日本がもっと早くポツダム路線を受け入れていたら原爆投下はなかったという説がありますが、もともと既定路線あったことが史料から判明しています。

また国際連盟を脱退した松岡洋右はタカ派のイメージですが、実際は必死に連盟に残るよう調整していました。日本の内大臣に対して、満州に対してゼロか百ではなく8分目ぐらいで我慢し、日本人の潔癖症を発揮し連盟脱退なんてことはやめましょう。

日露戦争がギリギリの戦争だったなどの情報がきちんと政府から出ていたら戦争に至らなかったかもしれませんでしたが、国民もマスコミもイケイケで、皆すごく甘く考えていた背景があります。

岡山御坊

岡山御坊
岡山御坊

岸和田の高台にあるのが岡山御坊。建立されたのは1503年で本願寺実如によって創建されました。和泉から紀州にかけては真宗勢力が強く、石山本願寺から退去した顕如は和歌山の鷺森御坊に移っています。

天正8年(1580年)に顕如が石山本願寺を明け渡した時に織田信長の家臣で岸和田城代を務めていた寺田又衛門によって焼き討ちされてしまいます。織田信長によって和泉国や紀州の平定が行われましたが、本格的に行われたのは秀吉に根来、雑賀攻めで、この時は貝塚の積善寺城、千石堀城、和泉・高井城などに防衛線が作られ和泉が戦場となりました。

若江・八尾の戦い(常高寺)

常高寺
常高寺

八尾の商店街にあるのが常高寺。行基創建と伝わり河内音頭発祥の地ということで境内に碑が建っています。ここが若江・八尾の戦いの舞台です。

大坂冬の陣が終わった後、徳川との和睦の条件で、大坂城の堀を埋めてしまい防衛能力が低下。籠城はできず討ってでるしかありません。大坂城からは徳川家康、秀忠を狙って木村重成、長宗我部盛親、増田盛次が出陣し、徳川方の井伊直孝、藤堂高虎と戦います。

これが若江から八尾近辺が戦場となった若江・八尾の戦いです。若き木村重成は自ら槍を取って戦いましたが討死。結果は痛み分けとなりましたが藤堂勢、井伊勢も大きな被害をうけました。

八尾の戦いでは常高寺の門前が激戦地となり藤堂高虎側の将士71人が戦死しています。

物部の神様 八尾神社

八尾神社
八尾神社

近鉄八尾駅の近くにあるのが八尾神社。

祭神は宇麻志麻治命(ウマシマジ)で饒速日命(ニギハヤヒ)の子供になります。ニギハヤヒは神武東征より前に天磐船に乗って河内国(大阪府交野市)に降り立ち、大和に移った天津神で、最後は神武天皇を助け大和に迎え入れます。この神さまが、物部氏の祖となります。

八尾市、東大阪市から交野市にかけてが物部氏の本拠地で、蘇我馬子・聖徳太子連合軍が攻めた物部守屋の館は東大阪市と八尾市のほぼ間にある衣摺といわれています。戦勝したお礼に聖徳太子が建立したのが四天王寺になります。

東大阪や八尾の神社をまわると本当に物部の神様ばかりで楽しめますよ。

リノアス

リノアス
リノアス

昔、高安駅近くに住んでいた頃、西部八尾に時たま行っておりました。2017年2月に閉店となりましたが、その後にできたのが「リノアス」という商業施設。
昨日、八尾へ行く機会があったので中に入ってみましたが、けっこう賑わっていました。隣にあるアリオ八尾への渡り廊下も西部八尾時代と応用に健在でした。
リノアスは八尾しかなく、はハワイ語のリノ(輝く)と日本語の明日を組み合わせた造語なんだそうです。

阿保神社

阿保神社
阿保神社

河内松原にあるのが阿保神社。

阿保は「アホ」ではなく「アオ」と読みます。平城天皇(桓武天皇の息子)の皇子が阿保親王で、プレイボーイで有名な在原業平のお父さんです。この周辺に別荘があったため阿保という地名となりました。

阿保親王ですが日本史で習った”薬子の変”に連座して大宰権帥として左遷されましたが、後に許されてこのあたりに別荘を作りました。別荘の場所は阿保から田井城のあたりにあったようです。菅原道真が阿保親王と同じように大宰府に左遷される時、ここで休憩したことから阿保神社が作られたそうです。祭神は菅原道真で神社の紋は梅鉢でした。

河内松原に阿保親王の別荘があるのは、お母さんが百済系渡来氏族の葛井氏出身で、このあたりが葛井氏の本拠地だったからです。葛井氏の氏寺が葛井寺(フジイデラ)で、今の藤井寺となります。

■伊賀の阿保
伊賀にも阿保という土地があります。大阪と三重の真ん中あたりに近鉄・青山町という駅がありますが、もともとの名前は阿保(あお)駅でした。こちらは垂仁天皇(実在した?)の後裔氏族である阿保氏という豪族が住んでいたあたりで伊賀国造の一族でもありました。阿保宿には阿保親王墓がありますが、垂仁天皇皇子(息速別命)の墓で河内松原の阿保親王とは別人です。

田井城

田井城
田井城

河内松原にある松原商工会議所でお仕事でしたが、近くにあったのが「田井城」という地名!

「城がある!」と行ってみると何も残っていませんが、水路が周りを囲み、しかも出入口が4ケ所しかなく虎口のような道になっていました。

どう見ても環濠集落跡だ~あ!

ところがネットで調べても条里制跡の話は出てきますが、城跡の話は出てこない。ウ~ン、どうなんだろうなあ。じっくり調べよう。

枚岡神社 太鼓台の練習

この時期、夜になると枚岡の街にドーン、ドーンという太鼓の音が響きます。枚岡神社の秋郷祭が14日、15日と開催されるために各町で太鼓台をたたく練習がはじまっています。たたくのは子供たちでウチの子供も小さい頃は毎年、太鼓台をたたいておりました。

枚岡地域、秋の風物詩ですねえ。今年は14日が祝日にあたるので宵宮はけっこうな人出になりそうです。

クジラ橋

クジラ橋
クジラ橋

阪急・上新庄駅から少し行ったところに瑞光寺があります。ここの池にかかる橋がクジラ橋。正式には雪鯨橋といいますが欄干が鯨の骨でできている橋は世界でここだけでしょう。

時代は第9代将軍・徳川家重の頃で、田沼意次が活躍するちょっと前になります。木曽三川では幕府に命じられた薩摩が多大な犠牲を払って輪中の治水工事をしていた頃です。

瑞光寺の住職が修行の旅をしており捕鯨で有名な太地町を訪れたところ、不漁で食べ物にも困っている状態でした。村の代表が和尚に豊漁祈願を頼まれましたが、殺生は仏の道にそむくと断りましたが、困窮する生活を見かねて豊漁祈願をしたところ、豊漁となり困窮生活を脱することができました。

後日、太地町の村人が瑞光寺のお礼として寄進したなかに鯨の骨がありました。そこで和尚が鯨の供養のために造ったのが雪鯨橋です。以来、風雨で劣化する橋の欄干は50年前後の間隔で付け替えられています。

阪急・上新庄

上新庄駅
上新庄駅

大阪府よろず支援拠点の出張相談で大阪シティ信用金庫・東淀川支店へ。最寄駅は阪急・上新庄駅になります。

昔懐かしい駅でして、大学を出て大阪のITベンダーに就職した時、友人の家が大阪経済大学近くで学生向けの下宿屋をしていたので、そこへ転がり込んでいました。通勤は上新庄駅から阪急です。梅田から十三、南方、崇禅寺、淡路、上新庄と5駅と便利でしたが朝の通勤電車に乗ると淡路駅前のカーブでいつも信号待ち。上新庄駅から乗るとカーブで傾いている方なので乗客の体重が全部かかってきて、なかなかにしんどかったですね。

さて下宿先は、すぐ裏に銭湯があり学生街で食堂なども安く便利だったんですがプロジェクトが忙しくなると終電で帰ることもシバシバ。当然、銭湯はしまっています。

”風呂に入る生活をしたい!”ということから同じ上新庄のマンションに引越。この場所が銀行のすぐ近くで、朝見てきたらマンションは健在でした。