男はつらいよの舞台 石切参道商店街

石切神社
石切神社

「男はつらいよ」と言っても贋作の方です。

コテコテの大阪弁の寅さんが登場し、舞台は石切神社の石切参道商店街にある老舗の甘味処「くるまや」。お団子を出していますが、実際の商店街では一軒だけしか出していません。しかも「みたらし団子」です。

ドラマでは石切駅から参道のいろんな場所が映るので、なかなか楽しめます。石切参道商店街では本当の寅さんでもロケ地になっています。

散歩コースなんで今日も石切参道商店街を通ってきましたが、テレビの告知も何もなくあっさりとしたものでした。贋作「「男はつらいよ」は今日が最終回です。

降幡神社

降幡神社
降幡神社

令和の元となったのが大宰府長官である大伴旅人の梅花の宴。大伴氏とは古代の名族で大王の親衛隊的存在でした。摂津や河内の沿岸が本拠地ですが、富田林に大伴町という地名があり、大伴の支族が住んでいたのではないかと言われています。

■降幡神社
Googleマップで石川河原城のすぐ近くで見つけたのが降幡神社跡という小さな祠。案内に「大伴氏の祖神・天忍日命を祀る由緒ある神社であったが、明治の末、一須賀神社に合祀された。古代この地方に住んでいた大伴氏の支族が、その祖神を祀ったのであろう」と書かれています。

天忍日命(あまのおしひのみこと)とは天孫降臨の時に武装して天孫の先払いをした神様で大伴氏の祖です。天忍日命を祀っている神社は全国的に少ないので、降幡神社は大伴氏関係でしょう。

降幡神社は合祀されたため、跡地となっており朽ち果てた小さな祠が残っています。ただ石川といえば蘇我氏の土地で有名なのが乙巳の変に登場する蘇我倉山田石川麻呂です。中大兄皇子と中臣鎌足に協力しますが、最後は陰謀で山田寺で自害させられます。山田寺の東回廊が発掘調査でそのまま出てきて飛鳥資料館に展示されています。

石川は蘇我でもあり、大伴でもあり不思議な土地です。

十日戎

額田戎神社
額田戎神社

この時期、関西の電車に乗ると笹を持った人をよく見かけます。十日戎がスタートしました。

西宮戎、今宮戎はめちゃくちゃ混みますので、いつも家から歩いて5分のところにある額田戎神社へ行っております。額田戎は西宮のえべっさんを勧請していますので霊験は同じです(笑)。住宅街にあるんですが3日間、大音量で「商売繁盛、笹もってこい~」と流れています。

ビジネスマンを辞め独立してから18年間、額田戎神社へ行っていますねえ。お参りをして今宮戎は参拝後社殿の裏へ回ってドラを打ちますが、額田戎は木板を打ちます。最後に縁起物を買うと福引券をくれるので、神社入口で福引抽選器を回しますが、また末等のゴミ袋でした。

行基の久米田池

久米田池
久米田池

灌漑施設のインフラ整備を行ったのが行基で久米田池、狭山池、昆陽池を作りました。狭山池は日本最古のダム式ため池として有名で、昆陽池は伊丹空港から出た飛行機からミニ日本列島が見えることで有名です。

久米田池は大阪府内最大の面積を持つため池で、周りを歩くと大きさが実感できます。神亀2(725)年~天平10(738)年の14年をかけて造られました。池を管理するために隆池院(現在の久米田寺)が整備されます。敷葉工法で堤が造られ、1300年経った現在も現存しています。

■異端だった行基
民衆への仏教の布教活動が禁じられていた時代、禁を破って布教する行基とその集団は異端と思われており、続日本記には「平城京の東の丘陵で妖言を吐き数千人から多い時には1万人を集めて説教し民衆を惑わしている」と記載されています。橋をかけるなど社会事業を推進しており反政府運動でもないので政権側から接近し最終的には大仏建立のプロジェクトマネージャーに就任します。

近鉄の大阪線と奈良線が分岐する駅が布施駅で布施という地名は困窮者のための福祉施設である布施屋があったことに由来しています。

光明皇后のお墓が岸和田にある?

光明塚古墳
光明塚古墳

久保田寺の境内にあるのが光明塚古墳。昔は光明皇后塚と呼ばれていたそうですが、光明皇后のお墓は奈良の佐保山東陵にあるので何とも不思議な話です。もともとは直径25メートルから30メートル程度の円墳だったようで、もちろん光明皇后の奈良時代よりも古い時代の古墳です。

久米田寺の近くにある光明池は光明皇后生誕伝説から名づけられましたので、まんざら縁がないわけではなさそうです。光明池というと光明池自動車教習所のCMを思い出しますなあ。

また聖武天皇を補佐したのが橘諸兄、吉備真備、玄昉ですが、橘諸兄は光明皇后と異父兄妹で灌漑用のため池である久米田池を作ったのは行基&橘諸兄コンビです。久米田寺近くの貝吹山古墳は橘諸兄の墓と伝えられていましたが、これも時代があいませんし本来の墓は井手町にあります。

聖武天皇の命のもと橘諸兄や行基が中心になってインフラ整備を行ったことから、そういった伝説が地元で広がっていったようです。

行基が開祖した久米田寺

久米田寺
久米田寺

楢原氏の菩提寺である九品寺は行基が開祖と伝わるお寺ですが、青森県から宮崎県まで行基が開基したとの伝承がある寺がなんと約600!。まあ聖徳太子伝説と同様にあやかってということでしょう。

岸和田にある久米田寺は正真正銘、行基が開祖となっています。行基が開祖した49院というのがあり、その中にある隆池院(久米多)が現在の久米田寺です。創建は738年と伝わっています。久米田寺の隣に久米田池という人工池(ため池)があり、聖武天皇の命をうけて行基が開削し、この久米田池を維持管理するために作られたのが久米田寺です。

戦国時代は三好実休と畠山高政が戦った久米田の戦いや織田信長による高屋城の戦いの兵火等により、寺はほぼ焼失しますが江戸時代に本堂などが再建されました。

おやぢの会2019

ふぐ久
ふぐ久

冬はふぐ久。
空揚げは言ふべきにもあらず、白子のいと白きも、またさらでもいと寒きに、火など急ぎおこして、フグ鍋持て渡るも、いとつきづきし。

ということで雨降る中、鶴橋の「ふぐ久」で恒例の「おやぢの会」。とっても平均年齢が高い会で、しかも会話の半分以上が下ネタという会です。フグ雑炊、おいしかった!

司馬遼太郎記念館

司馬遼太郎記念館
司馬遼太郎記念館

東大阪税務署へ行くついでに久しぶりに司馬遼太郎記念館に行ってきました。

司馬遼太郎の各作品は22歳の自分に向けて書かれたことで有名です。学徒出陣で満州の戦車部隊に配属され、終戦は日本に戻ってアメリカ軍の上陸に備えていた時に迎えました。その時に思ったのが日本人はなんで、こんなにバカになったのか、どこで間違えたのかというテーマでした。ここから数々の歴史小説が生まれます。

そういえば最近、「それでも日本人は戦争を選んだ」(加藤陽子著、新潮文庫)を読みましたが、明治以降の日清戦争などからの歴史に焦点をあてています。

けっこう知られていない話が多く、例えば日本がもっと早くポツダム路線を受け入れていたら原爆投下はなかったという説がありますが、もともと既定路線あったことが史料から判明しています。

また国際連盟を脱退した松岡洋右はタカ派のイメージですが、実際は必死に連盟に残るよう調整していました。日本の内大臣に対して、満州に対してゼロか百ではなく8分目ぐらいで我慢し、日本人の潔癖症を発揮し連盟脱退なんてことはやめましょう。

日露戦争がギリギリの戦争だったなどの情報がきちんと政府から出ていたら戦争に至らなかったかもしれませんでしたが、国民もマスコミもイケイケで、皆すごく甘く考えていた背景があります。

岡山御坊

岡山御坊
岡山御坊

岸和田の高台にあるのが岡山御坊。建立されたのは1503年で本願寺実如によって創建されました。和泉から紀州にかけては真宗勢力が強く、石山本願寺から退去した顕如は和歌山の鷺森御坊に移っています。

天正8年(1580年)に顕如が石山本願寺を明け渡した時に織田信長の家臣で岸和田城代を務めていた寺田又衛門によって焼き討ちされてしまいます。織田信長によって和泉国や紀州の平定が行われましたが、本格的に行われたのは秀吉に根来、雑賀攻めで、この時は貝塚の積善寺城、千石堀城、和泉・高井城などに防衛線が作られ和泉が戦場となりました。

若江・八尾の戦い(常高寺)

常高寺
常高寺

八尾の商店街にあるのが常高寺。行基創建と伝わり河内音頭発祥の地ということで境内に碑が建っています。ここが若江・八尾の戦いの舞台です。

大坂冬の陣が終わった後、徳川との和睦の条件で、大坂城の堀を埋めてしまい防衛能力が低下。籠城はできず討ってでるしかありません。大坂城からは徳川家康、秀忠を狙って木村重成、長宗我部盛親、増田盛次が出陣し、徳川方の井伊直孝、藤堂高虎と戦います。

これが若江から八尾近辺が戦場となった若江・八尾の戦いです。若き木村重成は自ら槍を取って戦いましたが討死。結果は痛み分けとなりましたが藤堂勢、井伊勢も大きな被害をうけました。

八尾の戦いでは常高寺の門前が激戦地となり藤堂高虎側の将士71人が戦死しています。