髭茶屋追分

髭茶屋追分

「これやこの 行くも帰るも 別れては...」で有名な逢坂の関を超えて、山科に入ると髭茶屋追分があります。道が二手に分かれていて右に降りて行くと山科駅前を通って蹴上から三条大橋に至る京都への道です。左に坂を降りていくと京街道が始まり、大宅一里塚を通って、いわゆる東海道57次になります。

大津宿から、山科を越えて54次目の伏見となり、淀、枚方、守口の4宿で57次です。東海道が京街道へ延伸して57次として制定されたのは元和5年(1619年)ですので、豊臣家が滅んだ大坂の陣(1615年)から、わずか4年後になります。参勤交代の大名行列は、この髭茶屋追分から左に入るルートを通るように決められました。

スクールバス

山科

先日、山科へ行った時に懐かしい建物を見つけました。山科駅から南に歩いて外環三条の信号を渡って少し行ったところに郵便局がありました。今も建物はあるんですが、郵便局はなくなっていますね。1995年頃なんで、今から30年ほど前に、この郵便局前から橘女子大学へ向かうスクールバスが出ていました。この後に橘女子大工から京都橘女子大学になり、現在の京都橘大学となります。井上章一の「京都ぎらい」なら「山科は東山が西に見えるので京都やおへんで」と言われそうですが、京都という名前をつけたことで全国から学生が集まるようになりました(笑)。

このスクールバスですが最終は大宅甲ノ辻のバス停です。山の下でバス停から名神の高架下を超えて、坂をひたすら登らないと校門にたどりつけませんでした。その後、地下鉄の延伸と山科駅の再開発でバスロータリーができたために山科駅前から乗って大学の正門まで行けるようになり、便利になりました。梅雨時など雨が降ると郵便局前から住宅地まで学生の傘の列ができ、これが延々と続き、何台目のスクールバスに乗れるんだとヤキモキしていましたね。

府民税・市民税の納税

特別徴収

一人で会社をやっていると本業以外に経理も総務もやらなければなりません。慣れればなんてことはないのですが、やはり面倒ですね。

役員報酬から府民税・市民税を源泉徴収していますが、半年分をまとめて年2回支払います。地方税ポータルシステム(eLTAX)対応ソフトであるPCdeskを立ち上げて申告データを作成し、電子申告します。申告はすぐに受領されペイジーでの支払いができるのでネットバンキングから支払います。役所にいかなくても、ネットで完結するのでいいのですがelTAXの稼働時間が平日8:30-24:00までで、繁忙期をのぞいて土日は動いていません。

来月は所得税の特別徴収分を納税しなくてはならず、法人ですといろいろと細かな作業があります。

山科本願寺から石山本願寺へ

山科本願寺跡

イスラム教のスンニ派とシーア派との対立、またキリスト教でもカトリックとプロテスタントの対立があり世界中で宗教戦争があります。日本もかっては同様でした。特に一向宗と法華宗が争っており、政治的な話もからんでグチャグチャの状況です。

■大谷本願寺
本願寺が京都の大谷にあった頃、蓮如がやり手で、御文(おふみ)・御文章(ごぶんしょう)という、庶民が分かる書簡を使った教化を行い全国に信者を増やしていきます。近江に力をいれて布教しており、怖れをいだいた比叡山が京都に僧兵を送りこんで大谷本願寺を壊してしまいます。

■山科から大坂へ
そこで新しく造られたのが山科本願寺。寺と言いながら、二重の土塁と堀で囲まれた、ふつうの城です。ところが、ここも細川春元が率いる法華宗、近江守護六角氏の連合軍により焼き討ちにあいます。鉄壁の守りですが油断をついて攻め込まれました。次に移ったのが石山本願寺。いままでの経験をいかし徹底的に防備を固め、出城をいくつも作ったため、さしもの信長も攻めあぐね10年戦争(石山合戦)になりました。

最後は和睦して大阪を立ち退き紀州(鷺森本願寺)へ移ります。信長亡き後、秀吉と和睦して天満へ移り、その後に京都へ移ります。信長、秀吉、家康が宗教を非武装化したことにより、世界でも珍しく日本では宗教戦争がなくなっていきます。

山科本願寺公園

山科本願寺公園

先週のブラタモリを見ていたら山科が舞台で、山科本願寺の土塁跡が取り上げられていました。山科中央公園の一角に土塁跡が残っていて、そちらが紹介されていましたが、その後に出てきたのが本願寺跡にあった風呂設備の遺構です。

当時のお風呂は湯船タイプではなく、いわゆる蒸し風呂、つまりサウナです。そういえば先週の「どうする家康」でも蒸し風呂に入っている家康のシーンが出ていました。湯船タイプは江戸時代からになります。山科中央公園の土塁跡は昔、行ったのですが、風

呂設備についてははじめてで、さっそく山科本願寺公園へ出かけてきました。史跡公園として、できたのは2021年、つい最近なんですね。公園は山科本願寺の中枢である宗主空間があったところで、建物跡や堀跡が示されています。すぐ近くを新幹線が走っていますので、新幹線の窓からも見えます。山科の街を通り過ぎる北側になります。

日本ローマ字会 解散

京都にあった日本ローマ字会が3月に解散したんですね。昔ちょっとからんでいまして、理事をやっていた時もあります。日本ローマ字会はメチャクチャ古い会で100年以上の歴史があります。もともとは明治時代に地球物理学者である田中舘愛橘が始めた会で寺田寅彦なども会員でした。

紆余曲折があって京都に本部が移り、梅棹忠夫先生がローマ字論者でもあり知的生産の技術研究会の特別顧問でもあった関係で、私も日本ローマ字会に出入りしていました。ヘボン式でも訓令式でもない99式ローマ字を制定していた頃ですね。その後、また紆余曲折があって東京に本部が移る頃に離れました。

インバウンドや外国からの移民を真剣に考えるのなら漢字をどう扱うかがテーマですね。ある程度はローマ字で代用していかないといけない時代ですが、同音異義語をいかに減らしていくかが課題になります。

東海道57次

京街道

東海道53次と学校で習いましたが実際に整備されたのは57次でした。歌川広重が東海道五拾三次之内という浮世絵を発表し、これが大ヒットしたため、53次が世間の常識になってしまいました。

京都で大名が公家と接触しないよう大名行列の行先を変更します。大津宿から山科の手前の髭茶屋追分で分かれて伏見から大坂へ向かうルートになり京都を通りません。東海道の延長として道中奉行の管轄下となり、伏見宿、淀宿、枚方宿、守口宿の4つの宿場が設けられます。ゴールは高麗橋で京街道と呼ばれます。

ということで守口宿の文禄堤から高麗橋を目指して出発です。今市、千林を超えて関目に到達。関目神社を目指す予定がルートを間違えて南下することに。蒲生四丁目に着いてしまったのでリタイア。地下鉄で帰ってきました。

文禄堤

文禄堤

秀吉が朝鮮出兵したのが文禄・慶長の役です。文禄は1592年~1596年までの期間ですが、この時に淀川左岸の堤防道を造りました。これが文禄堤で守口に一部が残っています。枚方から長柄(大阪)まで続く全長27kmの大堤防で、秀吉が毛利(毛利輝元、小早川隆景、吉川広家)に命じて作らせました。また堤防の上には大阪ー京都を結ぶ京街道が整備されます。高い土地の一角が守口宿跡に残っていて京阪守口駅のすぐ近くに文禄堤の断面図を見ることができます。高台になった京街道を歩くのは、なかなか風情があります。

文禄3年に秀吉は伏見城を造っていて、伏見を物流基地にするため宇治川・淀川等の付け替えなど大規模な治水工事を行っています。巨椋池への流路などを大きく変えて、太閤堤と呼ばれました。秀吉といえば大々的な土木工事で戦をした人物でした。秀吉が行った都市の大改造が今も京都や大阪にそのまま残っています。

ダイエー創業地

ダイエー創業地

価格破壊で松下電器産業の松下幸之助と戦ったダイエーの中内功。ダイエー・松下戦争と呼ばれましたが、今では知らない人も多いでしょうね。ダイエーは1957年で神戸市に大栄薬品工業株式会社という名前で設立されます。同じ歳に千林商店街に1号店「主婦の店・大栄(ダイエー)薬局店」をオープンします。千林商店街に行ったついでに創業の地に寄ってきましたが今はドラッグストアになっています。ちゃんとGoogleマップに出てきます。

この千林からダイエーの快進撃が始まりますが、今はイオンの傘下になっています。ひょうご産業活性化センターが三宮のサンパルにあった時、隣にダイエーとジュンク堂があったので、よく昼休みに利用していました。ダイエーのマークだったのが途中でイオンフードスタイルのマークに変わってしまいました。

太鼓櫓(西本願寺)

太鼓櫓

新選組は最初、壬生にある八木家を屯所にしていましたが、池田屋事件で脚光を浴びたため、幕府からの支援もあり、新規隊員募集で200人を超える大所帯になります。手狭になったので慶応元年(1865年)に西本願寺へ移転します。新選組の隊士がいたのは北集会所で隣にあったのが太鼓櫓です。北集会所は姫路に移築されましたが、太鼓櫓は残っています。

北集会所は約200畳で、200人には狭く、一人一畳のスペースで、医者の松本良順が訪ねた時は隊士の約3分の1が病人というありさま。松本良順は病室を分け、「衛生と滋養」が何よりも大切とアドバイス。土方歳三はさっそく西本願寺にかけあって浴室の整備などを始めます。

西本願寺も困ってたようで新たな屯所を用意して、現在のリーガロイヤル京都がある場所へ移転してもらいました。しかし新しい屯所にいたのは、わずか6ケ月で伏見奉行所に移り、ここで鳥羽伏見の戦いが勃発します。