太鼓櫓(西本願寺)

太鼓櫓

新選組は最初、壬生にある八木家を屯所にしていましたが、池田屋事件で脚光を浴びたため、幕府からの支援もあり、新規隊員募集で200人を超える大所帯になります。手狭になったので慶応元年(1865年)に西本願寺へ移転します。新選組の隊士がいたのは北集会所で隣にあったのが太鼓櫓です。北集会所は姫路に移築されましたが、太鼓櫓は残っています。

北集会所は約200畳で、200人には狭く、一人一畳のスペースで、医者の松本良順が訪ねた時は隊士の約3分の1が病人というありさま。松本良順は病室を分け、「衛生と滋養」が何よりも大切とアドバイス。土方歳三はさっそく西本願寺にかけあって浴室の整備などを始めます。

西本願寺も困ってたようで新たな屯所を用意して、現在のリーガロイヤル京都がある場所へ移転してもらいました。しかし新しい屯所にいたのは、わずか6ケ月で伏見奉行所に移り、ここで鳥羽伏見の戦いが勃発します。

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