暗越奈良街道(矢田丘陵)

大阪と奈良を最短距離で結ぶ街道が暗越奈良街道(くらがりごえならかいどう)です。玉造駅近くの二軒茶屋からずっと東に向かい生駒山地の暗峠を超えて奈良側へ下っていくと近鉄・南生駒駅周辺に出ます。

生駒山地
Digital Camera

ここから奈良へ向かおうとすると、たちはだかるのが矢田丘陵です。生駒市から斑鳩町の法隆寺にかけて南北につらなる丘陵で、長さは約13キロメートル、標高は200m~300mと暗峠(標高455.8m)よりは低いのですが、登るのは、しんどいですね。途中で振り返ると生駒山がよく見えていて矢印部分が暗峠になります。

法隆寺付近を通る龍田道だと、もっと平坦なんですが距離が長くなります。コスパ重視なのか、昔の人は高低差があっても最短距離を選んだんですね。そうそう奈良へきた観光客が西に連なる山を見て「生駒山だ!」と言っている、ほとんどは矢田丘陵の間違いです。

ちはやふる竜田川

南生駒駅のすぐ横を流れているのが竜田川。

竜田川

実は竜田川は相撲取りの名前です(笑)。在原業平の「ちはやぶる 神代も聞かず 竜田川 からくれないに 水くぐるとは」の意味を聞かれた、ご隠居が知ったかぶりで話を作り始め、結局、大関まで昇進した竜田川が吉原に遊びに行ったところ千早太夫にふられてしまい(「ちはやぶる」)、いやになって大関をやめ豆腐屋になってしまい、おからの話へとなっていく落語がありました。

「ちはやぶる」とは次の「神」にかかる枕詞で、「いち(激い勢い)」「はや(敏捷に)」「ぶる(ふるまう)」という言葉が縮まったものです。鎌倉時代以降になると「ちはやふる」と濁らなくなります。百人一首の競技カルタの世界が「ちはやふる」というコミックとなり映画化もされました。

遠くに見えるのが生駒山です。南生駒あたりで見る竜田川には何の風情もないですね。

AI

ChatGPTの登場によって、人間の脳と同等のAIが誕生する「シンギュラリティ」がはやまったとも言われています。アマゾンではアレクサにも生成AIを導入するそうで、これでAIとのおしゃべりが当たり前になりそうです。チューリングテストは見事にパスですねえ。

AI

思い出すのが「アンドロイドは電気羊の夢を見るか?」というSF小説です。映画化されハリソン・フォードが主演の「ブレードランナー」になりました。これって舞台は2019年のロサンゼルスなんですねえ。映画のように空飛ぶ車が縦横無尽に行きかうことは現実化していませんが、酸性雨ではなく異常気象が起きているのはあっていますね。そういえば「2001年宇宙の旅」では2001年には宇宙ステーションができていて、今は無きパンナムのシャトル便が飛んでいました。もっと昔になると「謎の円盤UFO」では1980年に宇宙人の侵略を防ぐシャドーができていましたね(笑)。

Googleマップ、Instagram活用勉強会

四日市商工会議所で2週間ごとに3回開催した「Googleマップ、Instagram活用勉強会」が終了。

Googleマップ、Instagram活用勉強会

最終日はGoogleマップのパフォーマンスの見方とインスタのインサイトの見方について解説。ネットは正解がない世界で、また時代とともに変化が激しいのでPDCAサイクルが大切です。コンビニでは仮説をたてて棚割りを考え商品を置き、結果はPOSレジで確認して改善しています。インスタなどでも同様で、まずは仮説をたててテーマに沿った投稿を行い、結果はインサイトで確認して改善する必要があります。

また実店舗があり来客があるのならSNSパネルなどを用意して拡散する仕組みも重要です。発見タブにのるような投稿の意識づけも大切です。

筒井さんの故郷

筒井城

近鉄電車・橿原線で西大寺から八木に向かう途中に高架駅があり、これが筒井駅。近くにはパナソニックの奈良工場があります。このあたりが筒井という土地で、ここを本貫にしたのが筒井氏です。有名なのが筒井順慶で大河ドラマ「「麒麟がくる」では駿河太郎が演じていました。大和の覇権を争う松永久秀(吉田鋼太郎)とバチバチやっていました。

■元の木阿弥
筒井順慶のお父さんが筒井順昭で大和の有力国人でした。ところが28歳で亡くなることになり、わずか2歳の筒井順慶が引き継ぐことになります。死を悟ったった順昭は重臣などを集め、まだまだ大和が安定していないので死んだことを秘し、その間自分に似ている盲目の法師・黙阿弥を身代わりにするよう命じます。一周忌を終え、順昭の死が公表されると黙阿弥は恩賞を受け取って元の法師に戻ります。これが「元の木阿弥」の語源となっています。

筒井順慶の後は従弟の筒井定次が継ぎます。秀吉政権となり伊賀へ改易となったことから伊賀上野城には筒井時代の天守閣跡が残っています。

柳生さんの故郷

柳生

柳生さんの故郷といえば柳生十兵衛などで有名な柳生の里です。大河ドラマ「春の坂道」では家康・秀忠・家光に仕えた柳生但馬守宗矩が描かれていました。「柳生一族の陰謀」も有名ですね。

柳生さんは元々は菅原氏で平安時代に柳生庄を管理したことから柳生と名乗るようになります。途中、没落しますが後醍醐天皇から再び柳生の地を賜り、戦国時代を生きぬくことになります。柳生宗厳(石舟斎)は大和を支配した松永久秀の配下となります。台頭してきた筒井順慶と松永久秀が辰市城で戦い、この時、柳生は松永側で戦いますが松永側が破れます。筒井とは後に和睦しますが柳生の里に逼塞します。この時、新陰流の祖、上泉伊勢守秀綱と出あい、新陰流の奥意を極めることになります。これが運命の分岐点になります。自身も鍛錬していた徳川家康との縁ができ、柳生家は将軍指南役になっていきます。

■意外な松下嘉兵衛との縁
秀吉が信長の前に仕えていたのが松下嘉兵衛で親戚が井伊家でした。松下嘉兵衛の娘が柳生宗矩に嫁ぎ、つまり柳生十兵衛の母になります。井伊直虎も武田に井伊谷を奪われた時、親戚だった松下家に身を寄せていた可能性があります。秀吉は松下嘉兵衛時代に浜松で下積み生活をしてたので、小牧長久手の合戦では、秀吉を皮肉って「茂るとも羽柴は松の木の下かな」という句が歌われていました。秀吉は旧恩を忘れず松下嘉兵衛を引き立てています。

菅原さんの故郷

喜光寺

近鉄・尼辻駅を北西に、もしくは大和西大寺駅から南西に行くと菅原町があります。暗超奈良街道のすぐ北で古代は人が集まる場所でした。菅原町に観光客はほとんどいませんが菅原天満宮と喜光寺があります。

■行基の喜光寺
喜光寺はもともと行基が建てたお寺です。当時の僧は寺で経典を勉強するのが当たり前でしたが、行基は貧しい人には宿泊と食糧を提供するための布施屋(近鉄奈良線と大阪線が分岐する布施駅はこの布施屋からきています)を作り、橋や道路整備なども行い、民衆に布教していました。政権にとっては危ない非公認集団でした。ところが聖武天皇が河内の知識寺に行った時に知識(ボランティアのような協力のこと)に感激し、行基の活動を認めて協力を要請。大仏建立に貢献することになります。行基が亡くなったのも喜光寺です。

■菅原氏誕生の地
さて菅原という地名はかなり古く、推古天皇以前からの地名で、ここに住んでいたのが土師氏です。天応元年(781年)に土師氏が住んでいる菅原の地名をとって菅原姓への改称を申請し、認められ菅原氏が誕生します。新刊で出たばかりの「桓武天皇」(岩波書店)を読むと、論功行賞の意味もあり桓武天皇の方から改称せよと命じたようですね。さて菅原氏と言えば有名なのが菅原道真です。実家が菅原だったので、ここで生まれたと言われています。大宰府に左遷され怨霊になったことで菅原天満宮が建立されました。

尼子さんの故郷

尼子

滋賀県甲良町に尼子という土地があります。昔は近江国甲良荘尼子郷でした。ガチャコン(近江鉄道)の尼子駅があります。すぐ隣が豊郷町で「けいおん」の舞台となった豊郷小学校があります。宇多源氏である佐々木氏に婆娑羅大名で有名な佐々木道誉がいて佐々木氏は近江をおさめていました。孫の高久で尼子に住んだことから名字を尼子にして尼子氏がはじまります。

尼子氏の一部が出雲の守護代となり月山富田城を中心に戦国大名となり毛利氏、大内氏と戦います。一度は滅びますが、「願わくば、我に七難八苦を与えたまえ」と三日月に祈った山中鹿之助が尼子氏復興をはかります。尼子氏は秀吉側について戦いますが、結局、お家再興はなりませんでした。山中鹿之助の息子が武士を辞めて摂津の鴻池村で酒造業をはじめ、これが鴻池財閥になっていきます。

多田さんの故郷

多田神社

阪急宝塚線の川西能勢口駅で能勢電鉄で北に向かう途中に多田駅があります。駅から西に歩くと高台の上に多田神社があります。昔は摂津国川辺郡多田でした。平安時代、二度にわたって摂津の国司を務めた源満仲が土着し、この地で武士団を形成していきます。拠点となったのが川を堀とした多田神社がある場所です。地名をとって多田満仲と名乗るようになることで多田氏の祖となります。

満仲の長男が源頼光で、酒呑童子を討ち取ったことで有名で、摂津の地盤を継承したことから摂津源氏の祖となり、三男が源頼信で河内源氏の祖となり、頼朝へつながっていきます。多田神社は清和源氏発祥の地となり室町幕府や徳川幕府などが自分たちの祖廟として庇護します。

渡辺さんの故郷

渡辺津

天満橋駅近くの大川に渡辺津の碑が建っています。ここが全国の渡辺さんや渡部さんの故郷となる渡辺津があったところです。渡辺津とは大川にあった古代の港で、熊野古道もこの渡辺津が起点でした。

■源綱が渡辺さんのルーツ
平安時代後期には源綱がこの地に住んで渡辺を名字とし、渡辺氏を起こします。大江山の酒呑童子退治で知られる源頼光に仕えた四天王です。渡辺綱の子孫は渡辺党と呼ばれる武士団となり、港を背景に水軍として日本全国に散らばります。これが全国に拡がる渡辺さんのルーツとなります。北九州にわたった一族は松浦党となります。

■秀吉が移転させる
この渡辺津にあったのが坐摩(いかすり)神社。秀吉が大坂城を築城する時に坐摩神社および渡辺党に退去を命じます。坐摩神社は本町駅の南にある現在の久太郎町に移転しました。坐摩神社の境内は渡辺町と呼ばれていましたが久太郎町に統合されようとした時に待ったがかかり、久太郎町渡辺という珍しい番地となります。