風の森

風の森
風の森

御所に1719年(享保4)創業の油長酒造株式会社という造り酒屋があります。「風の森」というお酒を造っており、通常の日本酒は、しぼった火入れして加熱殺菌しますが、風の森は生酒をそのまま販売しています。

実現するにはタンクや微生物管理など大変ですが、味わいがよくファンが多いお酒です。油長酒造さん、昔は一升瓶も出していましたが、今は720mlだけの販売になっています。720mlだと、すぐに空けてしまうので、あまり買っていません(笑)。

さてお酒の名前になっている「風の森」は同じ葛城・鴨神にある地名です。名前の通りに森を風が吹き抜け、揺らします。峠にあるのが風の森神社で、祭神は「志那都比古神」という風の神様。風の森は大和と和歌山を結ぶ途中にあり、古代の道路跡も見つかっています。

降幡神社

降幡神社
降幡神社

令和の元となったのが大宰府長官である大伴旅人の梅花の宴。大伴氏とは古代の名族で大王の親衛隊的存在でした。摂津や河内の沿岸が本拠地ですが、富田林に大伴町という地名があり、大伴の支族が住んでいたのではないかと言われています。

■降幡神社
Googleマップで石川河原城のすぐ近くで見つけたのが降幡神社跡という小さな祠。案内に「大伴氏の祖神・天忍日命を祀る由緒ある神社であったが、明治の末、一須賀神社に合祀された。古代この地方に住んでいた大伴氏の支族が、その祖神を祀ったのであろう」と書かれています。

天忍日命(あまのおしひのみこと)とは天孫降臨の時に武装して天孫の先払いをした神様で大伴氏の祖です。天忍日命を祀っている神社は全国的に少ないので、降幡神社は大伴氏関係でしょう。

降幡神社は合祀されたため、跡地となっており朽ち果てた小さな祠が残っています。ただ石川といえば蘇我氏の土地で有名なのが乙巳の変に登場する蘇我倉山田石川麻呂です。中大兄皇子と中臣鎌足に協力しますが、最後は陰謀で山田寺で自害させられます。山田寺の東回廊が発掘調査でそのまま出てきて飛鳥資料館に展示されています。

石川は蘇我でもあり、大伴でもあり不思議な土地です。

被災者生活再建支援法

小田実
小田実

あれから25年。

当時、京都の専門学校で教員をしており地震の時はトイレに入っていて、「地震だ~あ!」と叫ぶだけでした。だって出るに出られないし。

阪神大震災で家を失った人達などへの公的支援がなかったことから小田実さんらが中心になってできたのが被災者生活再建支援法です。私有財産に公費を投じることはできないという風潮を変える動きとなりました。

しかし江戸時代には再建の仕組みがあったんですね。江戸は火事が多く、幕府から町屋の間口の間数に応じて下賜金が出て、これが再建資金となりました。オランダの商館長が泊まった長崎屋の場合、3500匁(700万円ほど)が出たようです。ただし町屋の大家が対象で借りていた庶民は対象外になります。藩ごとに政策が違っていますから江戸以外に同様の制度があったかは不明です。

知的生産の技術研究会・関西では阪神淡路大震災があった1995年の5月,小田実さんに「被災の思想」というタイトルで講演してもらいました。まだ被災者生活再建支援法などの草案前で公的支援などの必要性などを訴えておられました。

石川河原城

石川河原城
石川河原城

Googleマップを見ると城跡の地図がよく出るようになりました。もっとも場所が間違っていることもあります。白木陣屋から富田林駅までの帰り道を調べていた時に見つけたのが石川河原城です。行ってみたら城の遺構は残っていませんが川沿いの台地の上で道路からは5mほどの高さがあり城を造るには適地でした。

太平記には石川城として登場しています。「越後守師泰(高師泰のこと)は、楠退治の為に河内国に下て、石川々原に向城を構て居たりけるを...」ということで楠木勢を攻めるための付城(向城)を造っていたんですね。

白木陣屋

白木陣屋
白木陣屋

持尾城から富田林駅に行く途中にある白木陣屋跡へ寄ってきました。

■伊勢神戸
鈴鹿に桓武平氏の流れをくむ神戸氏がいました。鈴鹿商工会議所近くにある澤城を本拠地にしていましたが新たに伊勢神戸城を造って本拠地を移します。やがて織田信長の伊勢攻めが始まり、滝川一益が侵攻したため、織田方と和睦。養子にうけいれたのが織田信長の3男神戸信孝です。本能寺の変の後、神戸信孝は秀吉と対立し柴田勝家が滅んだ後、秀吉によって自刃させられます。

関ケ原の合戦の後、伊勢神戸には一柳氏が入り、その後、天領になった後に入ったのが石川総長です。

■河内へ
伊勢神戸藩の石川総長は万治3年(1658)大坂城番となって役知料1万石を河内石川・古市郡内で加増され、それまでの伊勢神戸の1万石とあわせて2万石となりました。飛地となった河内の所領を管理する為に築いたのが河南町にある白木陣屋です。3代目の石川総茂の時、常陸国下館に転封となりましたが、河内領と白木陣屋はその後も維持され、明治まで続くことになります。

白木陣屋は高台の上に造られ北、東、南に石垣がめぐらされた要害です。ただ草が生繁っていて石垣がよく見えない点が残念。白木陣屋跡は集落になっています。

持尾城

持尾城
持尾城

平石城の後は持尾城へ。

南河内グリーンロードを通ると持尾へ行けますが、行ってみたら500メートルにわたってれが8パーミルの勾配になっています。レンターサイクルで登れない(泣)。ひたすら自転車を押してあがりました。途中に持尾展望台があってPLの塔や富田林の街が一望できます。

持尾集落に入って持尾山頂上を目指します。ここにあったのが持尾城で主郭が残っています。元弘2年(1332)に楠木正成が築き平岩氏が拠って戦ったといわれています。眺めがよいので関東軍の動きを烽火で知らせたのではないかと言われています。千早城も見えますので、十分に伝わったでしょう。

平石城

平石城
平石城

平石城は河南町の平石という所にあります。河南町には鉄道もなければバス路線もほとんどないので最寄り駅は、かなり離れた富田林駅になります。駅前でレンターサイクルを借りてひたすら金剛山脈を目指しますが、かなりの登り坂で大変。

平石集落まで、なんとかたどり着くと平石城への案内が出ていました。案内通りに山道を登っていくと堀切と土橋があり、登ると主郭があり二上山などもよく見えます。

平石城は豪族・平岩茂直が、楠木正成の赤坂挙兵に応じて築いた城です。元弘元年(1331)に平石峠を越えて河内に侵入してきた北条軍に寄って攻められ、平岩茂直は戦死しました。太平記にも登場するお城です。

河南町教育委員会説によると正14四年(1359)に足利勢が河内に攻め入った時、楠木正儀が17の城を整備して防ぎましたが、そのうちの一つが平石城です。

楢原平城

楢原平城
楢原平城

大和の有力国人だったのが楢原氏で鎌倉末期には吐田氏とともに春日若宮の祭礼に流鏑馬を奉納したと記録されています。南北朝時代は南朝方として、越智氏とともに活動していました。

応仁の乱時に越智党から筒井党に転じて、お隣の吐田氏(越智党)と争うようになります。筒井氏とともに転戦していてたところ争っていた吐田氏が越智氏・古市氏の後援を得て攻めてきたため、城を追われて福住まで退却します。筒井氏が越智氏を破ったのにともなって在所へ復帰しました。

楢原氏の詰城が壮大な山城である楢原城ですが、ふだんは麓の平城を使っていました。堀などは埋められたようで、現在は畑になっています。

十日戎

額田戎神社
額田戎神社

この時期、関西の電車に乗ると笹を持った人をよく見かけます。十日戎がスタートしました。

西宮戎、今宮戎はめちゃくちゃ混みますので、いつも家から歩いて5分のところにある額田戎神社へ行っております。額田戎は西宮のえべっさんを勧請していますので霊験は同じです(笑)。住宅街にあるんですが3日間、大音量で「商売繁盛、笹もってこい~」と流れています。

ビジネスマンを辞め独立してから18年間、額田戎神社へ行っていますねえ。お参りをして今宮戎は参拝後社殿の裏へ回ってドラを打ちますが、額田戎は木板を打ちます。最後に縁起物を買うと福引券をくれるので、神社入口で福引抽選器を回しますが、また末等のゴミ袋でした。

吐田館跡

吐田館跡
吐田館跡

吐田氏の詰城が吐田城(山城)で平時は麓に館があり、こちらを使っていました。吐田館は単郭式で跡地は水田になっていますが東西南に水堀が残っています。

守護というと武家が勤めるものですが大和だけは興福寺が守護を勤めていました。応仁の乱では筒井氏は西軍に、越智氏は東軍に与して大和の国衆も両陣営に分かれて戦っています。

筒井一門(十市・楢原・布施・布施高田・秋篠・宝来・木津・立野・箸尾・片岡・超昇寺・佐川)
越智一門(吐田・曽我高田・小泉・高山・万歳・岡・古市・山田・山陵)
に分かれていました。

■吐田氏の滅亡
吐田氏の拠点北側には敵対する楢原氏がいて、お隣と戦っていました。戦国時代も後半になると松永久秀が大和へ侵攻してきて、ややこしいことになったうえに、織田信長によって筒井順慶が守護に任じられ、またまたややこしいことになります。最終的に吐田氏は筒井順慶に騙されて本能寺の変の前年に滅亡させられます。

吐田氏の所領は島左近が支配することになります。島左近はこの頃、筒井順慶を支えていましたが筒井順慶が亡くなってから石田三成の家臣として招かれ、最後は関ケ原の戦いで討死します。