竜口城

竜口城

近鉄・赤目口駅から1時間ほど歩くと竜口という山間の集落に着きます。さらに坂を登っていくと切通しになっているところがあり、ここが竜口城(百地丹波城)入口です。ハシゴを登ると急斜面がまっていますが山道が整備されていてピークまで登ることができます。伊賀と大和の境に築かれています。

地元では伊賀忍者の開祖である百地三太夫の城と伝わっています。平時は竜口の屋敷に住み、何かあった時のための詰城でした。主郭は土塁と帯郭に囲まれ、きれいに整備されていてベンチまでおいてありました。山城には珍しく至れり尽くせりです。郭には白菊稲荷が祀られていて登山口にあった鳥居は参道でしょう。気軽にお参りというより、なかなか過酷な参詣道です。

糸車の幻想

糸車の幻想

大阪府よろず支援拠点へ行くと昼休みに、まず大阪国際ビル1階にある紀伊国屋書店をのぞくのですが、本屋の対面に大阪商工信用金庫・本店ビルがあって、ここに変なオブジェがあります。ビルができた時にオブジェがあるのは知っていたのですが、今日はすぐ近くまで見に行ってきました。外側からホールへ上がる階段を登ったところにあります。ガウディーみたいなモチーフで、なかなかでかいですねえ。

調べると「糸車の幻想」というオブジェで船場といえば繊維の街なんで糸車ということです。1961年に東洋紡本町ビルができた時に飾られていたそうで60年以上も前のものです。2017年にビルが建替えられて大阪商工信用金庫・本店ビルになった時に移設されて一般公開されています。デザインは日本のガウディと呼ばれた建築家の今井兼次という人物だそうです。堺筋本町の交差点にあります。

松平忠吉・井伊直政陣(関ケ原)

松平忠吉・井伊直政陣

関ケ原の戦いに参加した徳川家康の直属軍は井伊直政(3,600)、松平忠吉(3,000)、本田忠勝(500)だけで、徳川軍本隊は中山道を秀忠が率いていました。あとは家康の命令に従っている豊臣大名たちです。

東軍の先鋒は福島正則でしたが、井伊直政が松平忠吉(秀忠の弟で井伊直政の娘婿)が初陣ということもあり手柄をたてさせてやろうと福島隊の前へ出て宇喜田秀家隊に発砲し、これで開戦になったという話があります。いわゆる抜け駆けです。

戦に命をかけている戦国時代に軍律破りはご法度。なんぼ井伊直政でも許されません。井伊直政には家康から戦闘の指揮権が与えられていたので福島正則には話を通して井伊が先鋒となることになっていたのでしょう。

井伊直政は島津の退き口と言われる島津軍の敵中突破で、大怪我をすることになります。関ケ原の戦いの後、石田三成の旧領である近江国佐和山に転封となり、彦根城の建設途中に亡くなります。大河ドラマ「おんな城主 直虎」では菅田将暉が「どうする家康」では板垣李光人が演じていました。

大阪産業創造館の七福神

大阪産業創造館の七福神

堺筋本町駅近くに大阪産業創造館があります。入口壁面にカヌーが漕ぎ登りながら波紋が拡がるアート作品がありますが、あれって七福神だったんですねえ!知ってました?
大阪産業創造館がスタートしたのは2001年。2階には大阪府よろず支援拠点があり、週2回ほど通っていますが、あれが七福神って20年以上たって初めて知りました。

20年以上前、開業するとタダで創業パネルをもらえるサービスがあったので、昔あった「あきないえーど」に受け取りにいった覚えがあるし、「あきないえーど」の経営サポーターもやっていたので、入口のカヌーはよく見てましたが、あれが七福神とは!!

アート作品の名前は「宝の艀(はしけ)」だそうで、カヌーではなくハシケだったんですね。未来に漕ぎ出す大阪の企業家をイメージしたそうです。へ~え!

福島正則陣跡(関ケ原)

福島正則陣跡

東軍の最前線に布陣しています。大きな杉があり、月見の宮の大杉と呼ばれていました。月見の宮とは、春日神社の別名なんだそうです。この大杉は関ケ原合戦図屏風にも出てきます。ここから宇喜多秀家軍に攻めかかります。

福島正則の母親が秀吉の叔母だった関係から少年時代に秀吉の小姓となります。石田佐吉(三成)や加藤清正らと一緒に北政所が面倒をみました。やがて賤ヶ岳の七本槍として名をあげ武将としても有名でしたが、行政面の才能もありました。

福島正則は大酒飲みで酒癖が悪く、有名なのは「酒は呑め、呑め、呑むならば~」の逸話です。黒田長政の使者だった母里友信に酒を勧め断られたため、飲み干せたならば好きな褒美をとらすと言ってしまいます。また、黒田武士は酒に弱く、酔えば何の役にも立たないと罵倒したため、母里友信は、それならばと酒を見事に一気飲みし、褒美に家宝である名槍「日本号」を飲み取られることになります。

藤堂高虎・京極高知陣跡

藤堂高虎・京極高知陣跡

福島正則陣跡の後ろに布陣した第二陣にあたります。一緒の陣跡になっていますが、それぞれ3千ちかい兵を擁していたので隣同士で布陣していました。藤堂高虎は黒田長政とともに西軍の切り崩し工作を行い、家康の勝利に貢献します。七度、主君を変えたとよく言われますが、戦国時代、転職は当たり前。藤堂高虎は豊臣秀長(秀吉の弟)には心酔していたようで、よく仕え、亡くなってからも養子を支えました。身長が190cmほどだったとも言われています。

■京極高知
京極高知は近江佐々木家につながる名門です。兄が京極高次で大津城に籠り、立花宗茂ら西軍を釘付けにして関ケ原の戦いで兵力を減らす貢献します。京極高知は藤堂高虎と大谷隊と激突して功をあげ、宮津藩の初代藩主となります。京極氏の紋は平四つ目結で、目結紋系を持つのは佐々木氏の末裔になります。

■白餅
藤堂高虎の紋は「城持ち」をかけた3つの白餅です。若く金がない時に三河・吉田宿の茶屋で餅を無銭飲食し、事情を聞いた店主から路銀までもらって助けてもらいました。この恩を忘れず餅を旗印にしてがんばり、大名になった時に茶屋を訪れ餅代を返却しました。講談「藤堂高虎、出世の白餅」などで有名な話ですが、あながち創作でもなく、津藩の参勤交代では藩祖にあやかって吉田宿で餅が献上されていたようです。

本田忠勝陣跡

本田忠勝陣跡

「家康に過ぎたるものが二つあり、唐の頭に本多平八」と言われた本田忠勝です。蜻蛉切という大きな槍を振り回し、数々の戦いに出陣しましたが、かすり傷一つ負わなかったと言われています。大河ドラマ「どうする家康」では山田裕貴さんが演じていました。

関ケ原に向かって徳川主力軍は秀忠が率い中山道を進み、真田にてこづっていました。福島正則など外人部隊が主力になってしまったため、本田忠勝軍は家康本陣の前に布陣したと言われていますが、本当のところはどうか分かりません。関ヶ原駅の近くの住宅街に陣跡があります。関ヶ原の戦いが終わった戦後処理では真田昌幸・信繁親子の助命を娘婿の真田信之とともに家康に嘆願します。真田に煮え湯を飲まされた秀忠などは猛反対でしたが、嘆願が認められて真田親子は九度山に流されることになります。

2023年度決算

消費税

2017年3月3日に設立した合同会社エムアイティエスも無事に8期目を迎えました。パチパチパチ!!

ひな祭りの日が設立記念日ですが、法務局へ登記をしに行った日がたまたま、ひな祭りだっただけです。登記した日が設立記念日になるとは全部事項証明書を取得するまで知りませんでした(笑)。期末は2月末にしましたので、3月になったので、さっそく決算です。といっても会計ソフトが勝手にやってくれるだけなんで、ほとんど確認だけです。申告は財務諸表に法人事業概況説明書や別表をつけて、そのまま電子申告です。

今年度はインボイス登録をしたので法人の消費税支払いがあります。申告freeeに消費税があるので、これを選んで2割特例を使って申告。そのままE-Taxで納付書を発行し、インターネットバンキングで振込をして終了。申告から納税まで家からできるので便利な世の中ですね。

インボイスが始まって、個人事業と法人の2つで消費税支払いになるので、そろそろ法人をどうするか検討しなくっちゃあ。

不破の関

不破の関

672年、大海人皇子軍が関ケ原で大友皇子側の近江軍を破った壬申の乱の後、不破の関が整備されました。中山道、北国街道、伊勢街道の分岐点が関ケ原で交通の要衝でした。東海道の鈴鹿関、北陸道の愛発関とともに古代三関の1つです。関所というと都への侵入者を防ぐ目的よりも、謀反者が東国に逃れるのを防ぐのが中心のようでした。壬申の乱で大海人皇子が関東の美濃・尾張で兵力を募ったことが背景にあるようです。

天皇崩御など非常事態が発生すると、朝廷は三関に固関使(こげんし)を派遣し関所を占めました。これが三関固関です。天平宝字8年(764年)、恵美押勝(藤原仲麻呂)のクーデターが失敗した時、吉備真備は愛発関を閉じて仲麻呂の息子がいる越前国への逃亡を防いでいます。

不破の関は藤古川の段丘崖に築かれ、広大な敷地でした。藤古川を超えて坂を登ると不破関西城門が旅人を待ち構えていました。不破の関は789年(延暦8年)に廃止されましたが土塁などは残っていたようで関ケ原の戦いでは宇喜田秀家らが関所の土塁を利用して陣所を築いていました。土塁の一部は低くなりましたが今も残っています。

決戦はいつも岐阜

決戦はいつも岐阜

関ケ原に「決戦はいつも岐阜」という旗がありました。

関ケ原は関東と関西のはざまで東西の勢力がぶつかる点でもありました。有名なのが石田三成と徳川家康が激突した関ケ原の戦いですが、大海人皇子と大友皇子が戦った壬申の乱でも決戦の舞台となります。ちなみに壬申の乱の翌年に不破の関が設けられます。

承久の乱は後鳥羽上皇が北条義時の追討を命じますが、鎌倉軍と激突し摩免戸の戦い、杭瀬川の戦いで敗れます。大河ドラマ「鎌倉殿の13人」でも描かれていました。杭瀬川は関ケ原の戦いでも島左近が前哨戦として戦い、徳川軍に一泡吹かせました。

旗には青野原の戦いはのっていないんですね。少年ジャンプで「逃げ上手の若君」が連載していますが、ちょうど青野原(関ケ原)の戦いが描かれています。奥州から北畠顕家が率いる南朝方が土岐頼遠ら北朝方の軍勢と激突し、最終的には勝利しますが、最後は堺で行われた石津の戦いで戦死します。北畠顕家は20歳の若さでした。