
大阪府よろず支援拠点の相談業務が終わってから中央線で夢洲駅へ
各パビリオンの夜景もきれいなんですが、大屋根リングがけっこう映えますねえ。昨夜は雷雲が近づいてきたこともあり大屋根リングと静けさの森が閉鎖されてしまいました。大屋根リングからの夜景が見たかったのですが残念。
雨も降ってきたので、ほとんど並んでいないチェコ館に退避。螺旋状に登っていくパビリオンなんですが、何かよう分からん展示でした。外観にボヘミアン・クリスタルが使われ回廊状のパビリオン自体がテーマだったんですね。
大阪府よろず支援拠点の相談業務が終わってから中央線で夢洲駅へ
各パビリオンの夜景もきれいなんですが、大屋根リングがけっこう映えますねえ。昨夜は雷雲が近づいてきたこともあり大屋根リングと静けさの森が閉鎖されてしまいました。大屋根リングからの夜景が見たかったのですが残念。
雨も降ってきたので、ほとんど並んでいないチェコ館に退避。螺旋状に登っていくパビリオンなんですが、何かよう分からん展示でした。外観にボヘミアン・クリスタルが使われ回廊状のパビリオン自体がテーマだったんですね。
下ツ道を北上していくと笠縫駅に出ます。このあたりの地名が秦荘です。秦ときいて秦河勝(はたのかわかつ)を思い出したあなた!通ですねえ!
秦河勝は聖徳太子の国作りをサポートした秦氏(渡来人)の族長です。聖徳太子から譲り受けた木造弥勒菩薩半跏思惟像を本尊に広隆寺を建てました。能のもとになった大和猿楽四座は秦氏の子孫で、世阿弥の風姿花伝には猿楽の開祖が秦河勝と書かれています。
この秦河勝が創建したのが秦楽寺です。本堂前には大きな池があり、空海が梵字の「阿」の形の池を作ったとされ阿字池と呼ばれています。池の周りになぜか土塁があり秦楽寺城として松永久秀の大和攻めなどで使われてようです。
近鉄八木駅近くの踏切を超えて下ツ道を北上すると、東から寺川が近づいてきて下ツ道に沿ってまっすぐ北に並走します。道の横に不自然なほどまっすぐな川が続きますので、どう考えても人工的です。この寺川が斉明天皇が作った狂心溝(たぶれごころのみぞ)の一部とみられています。天理市の豊田山から飛鳥を結ぶ大運河で天理周辺の流路は往時と変わっているようです。
京都嵐山から和歌山港に至る約180kmの京奈和自転車道が整備され、この下ツ道がサイクリングロードになっています。とぼとぼ歩いている横を自転車が通り過ぎていきます。
札ノ辻から下ツ道を北上すると、すぐに近鉄大阪線の踏切があります。八木駅は1階が橿原線で大阪線は2階にあります。伊勢から八木駅に向かう時、下ツ道の踏切を過ぎると電車は上にあがり2階ホームに到着します。
近鉄大阪線は横大路と並行して走っていますので桜井駅を過ぎてすぐの戒重で上ツ道と交差、大福駅横の踏切で中ツ道と交差します。古代の古道と交差するのを車窓から楽しめます。
下ツ道とは藤原京の西四坊大路からまっすぐ北に進んで平城京の朱雀大路に至る古代の官道です。日本書紀の壬申の乱に名前がでてきますので飛鳥時代後半には整備されていたようです。下ツ道に平行して中ツ道、上ツ道がまっすぐ北に続いていました。
近鉄八木駅の近くに札ノ辻があり旧旅籠を改装した交流館があります。東西には横大路(伊勢街道)が走り、下ツ道と交差していました。江戸時代、伊勢参りや吉野・大峰山への参詣巡礼で賑わっていた辻で昔の交通ジャンクションですね。ここから下ツ道を北上していきます。
多神社のちかくを歩いていると太子道の案内がありました。
太子道とは、聖徳太子が斑鳩宮と飛鳥を行ききした古道で、筋違道とも呼ばれています。南北に対して斜めになった道が奈良盆地を通っていたんですが、市街地化でだいぶなくなりました。有名なのが田原本の宮古から近鉄田原本線・黒田駅の脇を通って伸びる道で、ほんまに斜めになっていろいろな道と交差しています。
太子道は20度傾いていて、発掘された法隆寺の若草伽藍も20度傾いており、蘇我馬子の嶋宮から、聖徳太子の斑鳩までがまっすぐ結ばれている仮説もあります。大陸からの使者が難波から大和川を遡って、まず出迎えるところが斑鳩宮でした。
多神社、正式名称は多坐弥志理都比古神社(おおにいますみしりつひこじんじゃ)と言いますが、こんな長い名前は覚えられないので、もっぱら通称の多神社で呼ばれています。
近鉄・笠縫駅のすぐ近くに一の鳥居があり、ここからけっこう歩いたところにあります。豪族だった多氏の氏神さんで祖は神武天皇の皇子ですので、神武天皇などを祀っています。発掘調査され境内からは縄文時代からの遺跡が見つかっていますから一等地だったんですね。
一族には古事記を編纂した太安万侶がいます。古事記は偽書で太安万侶など実在しないのではと言われた時代もありましたが、奈良の山奥にあった茶畑の開墾中に墓と太安萬侶と書かれた墓誌が見つかり実在した人物だと確認されました。
奈良盆地のまんなかに百済という地名があります。
舒明天皇が639年に百済川のほとりに百済大宮(宮殿)と百済大寺の造営を開始します。日本書紀には西の民は都を造り、東の民は寺を造るとの記載があり、百済大寺が子部神社の近くだと想定すると百済大宮は西側にあるはずです。子部神社の西を流れる曽我川が百済川の可能性があります。百済川の西にあるのが百済という地名、集落には百済寺があり三重塔が建っています。
この百済寺が百済大寺の故地という説もありますが、子部神社からちょっと離れているのでどうでしょうねえ。ただ舒明天皇の他の宮が飛鳥にあるのに百済大宮だけが遠く離れているのも不自然です。つまりよう分からんということです(笑)舒明天皇は翌年(640年)に百済大宮ができ遷りますが、その翌年(641年)には亡くなってしまいます。
百済寺の三重塔は鎌倉時代に建てられたようです。観光客はまずいないので、鄙びていて、おすすめですよ。
推古天皇の後を継いだのが舒明天皇です。この舒明天皇が建てたのが百済大寺でしたが建設途中で落雷による火災にあいました。
桜井市吉備池のほとりで見つかった吉備池廃寺が九重塔もある壮大な寺で、この百済大寺であると見られています。吉備春日神社からしか池に入る道はなく観光客は絶対に来ない場所にあります(笑)。
この百済大寺は舒明天皇が子部神社の木を伐払って九重塔を建てたため子部大神が恨んで堂塔を焼失させたという記録があります。ということで子部神社へ行ってきましたが吉備池廃寺から遠くにあります。日本書紀に西の民は都を造り、東の民は寺を造るとの記載があり、百済大寺の西側には百済大宮があった模様です。
子部神社の西に百済という地名が残っているので、舒明天皇が建てた百済大寺は子部神社の近くにあったようです。火災で燃えてしまったので、皇極天皇が夫の遺志を引き継いで場所を変えて再建します。これが吉備池廃寺の百済大寺になったという説があります。
IT・ビジネス関連書籍を手がけていた秀和システムが法的整理になるんですね。船井電機の破産時に一時期、秀和システムが親会社だったという報道があって、なんで出版社がと驚いた記憶があります。
今から28年前、1997年に知り合いに誘われて秀和システムから共著で出した本が「インターネット情報収集術」。書き出したのはいいのですが、知り合いが忙しくなってしまって原稿の2/3を担当することになってしまいました。
まだまだ普及していなかったインターネットを活用した情報収集術です。飯田橋駅近くの軽子坂MNビルにあった情報図書館RUKITなども紹介していました。当時は出版業界も元気で確か初版が6000部でした。東京の研修会社からセミナー依頼があって、謝金以外に豪勢な食事付でした。