丸ノ内商店街

丸ノ内商店街
丸ノ内商店街

津の丸ノ内商店街(津城の城域にあったので丸ノ内です)は国道23号線に沿って南北になっているので、暑い夏の朝は東側の日陰を歩きます。これでだいぶ温度が違いますね。

神田神保町の古書店はほとんどが北向きになっていて、これは日で本が焼けるのを防ぐためです。インバウンドで賑わう奈良の東向商店街は東側がすぐ興福寺の境内になっていて西側にしか店ができなかったので東向という名前となりました。ところが興福寺の力が弱くなり東側にも店が作られるようになって、ふつうの商店街となって名前だけが残っています。

赤太郎の天気予報

伊勢新聞
伊勢新聞

東海地域では「伊勢の名物~赤福餅はえぇじゃないか」というCMソングがよくテレビで流れ、赤太郎という名前の漫画の侍が登場します。赤福のキャラクターになっています。

三重には伊勢新聞という地域紙があり、地域の細かな話まで掲載されています。創業は明治11年。同一題字では日本最古の日刊新聞なんだそうです。

この伊勢新聞の題字下に長年赤福が提供する「まんが天気予報」というコーナーがあります。県内を北・中部、南部、伊賀の3地域に分けて、それぞれに赤福のCMキャラクターである「赤太郎」のイラストを挿入した天気が掲載されています。時たま伊勢新聞を読んでいるんですが、天気予報が赤太郎になっていることに始めて気がつきました(笑)。

江戸橋

江戸橋
江戸橋

近鉄・江戸橋駅から三重大学へ行く途中にある江戸橋。津藩主である藤堂家が参勤交代時に江戸へ向かう時、橋の傍まで見送りに来たことに由来しています。
けっこう古い橋でしたので工事が行われていましたが、ようやく開通したようです。歩行者は先に渡れるようになっていましたが、車もOKになっていました。

桑名三重信用金庫

桑名三重信用金庫
桑名三重信用金庫

三重信用金庫の看板が桑名三重信用金庫に変わっていました。桑名信用金庫と松阪を地盤とする三重信用金庫が2/25に合併しています。以前、北伊勢信用金庫と上野信用金庫が合併して北伊勢上野信用金庫が誕生しており、これで三重県内の信用金庫は・桑名三重信用金庫・北伊勢上野信用金庫・津信用金庫・紀北信用金庫(尾鷲)になっています。


地銀は百五銀行とこれまた三重銀行と第三銀行が合併してできた三十三フィナンシャルグループの二行体制で、北からは大垣共立銀行が西からは南都銀行が県境をまたいで攻め込んでいます。

宝塚古墳の被葬者は誰?

宝塚古墳

船型埴輪が見つかったのが宝塚古墳の1号墳で、伊勢国では最大の前方後円墳です。宝塚古墳は松阪郊外の丘陵上にあり伊勢湾が一望できるところで、航行中の船からはランドマークになっていたでしょう。宝塚古墳は国の史跡として整備され船形埴輪が見つかった造り出し部分に埴輪が再現されています。

【伊勢にもあった国譲り神話】
1号墳の被葬者は分かっていませんが、地域をおさめた飯高氏の先祖である乙加豆知命(オトカズチノミコト)ではないかともいわれています。乙加豆知命は斎王である倭姫命を伊勢で出迎えたと伝わっていますので、大和朝廷と関係があり、東の守りをまかされた人物でしょう。日本武尊(ヤマトタケル)が東征に出向く前、伊勢へ寄って倭姫命より草薙剣を受け取っています。

伊勢にはもともと伊勢津彦という出雲神がいて、神武天皇に逆らっていました。ところが攻められて東海に逃げたという、出雲と同じような国譲り神話が残っています。伊勢という国名はこの伊勢津彦からとられたという説があり、古代にはいろいろとあったようです。

1号墳のすぐ横に2号墳があり、こちらは帆立貝形古墳になっています。1号墳との位置関係から1号墳の後を引き継いだ首長のようです。宝塚古墳には88基以上の古墳があり、王家の谷のようになっていましたが、宅地開発などでほとんどが消滅してしまいました。

船形埴輪

船形埴輪

松阪に宝塚古墳群があり、ここで見つかったのが船形埴輪。前方後円墳の造り出し部分(祭が行われた場所)でほぼ完全な形で発掘されました。古墳の石室に描かれた壁画や円筒埴輪の線画で装飾用の船があったことは知られていましたが、立体的な形で確認されたのは日本で初めてです。船には王がいることを示す太刀や蓋、杖がそびえていました。古代にこんな船があったんですね。

中世の伊勢には桑名、白子、安濃津、的潟(まとかた)、大湊の港があり、的潟は櫛田川の支流である「中の川」の河口にあったといわれる港の名前です。的の形に似ているのでマトカタと呼ばれるようになったようですが現在は地形が変わってしまって正確な場所は分かっていません。。万葉集には702年に持統上皇が三河へ行幸する時の出発地として「マトカタの浦」という地名が出てきますので古代から中世には港で栄えていたようです。

ヤマト政権が東方経営の拠点としていたようですので宝塚古墳群に葬られたのはヤマト政権に協力していた地元の王だったのでしょう。

織田信孝のお墓(関宿)

織田信孝のお墓(関宿)

伊勢・神戸家をM&A戦略で乗っ取った織田信孝(信長の息子)は、やがて遊軍として活躍することになります。信長の命令で越前一向一揆討伐戦や雑賀攻め、播磨へも伊勢勢を率いて出陣しています。

織田信孝が丹羽長秀と共に大坂から四国の長宗我部を攻めようとしていた時に発生したのが本能寺の変。明智光秀を討つのに一番近い所にいながら本能寺の変が伝わると兵が逃亡してしまい、なすすべがありません。そこへ備中高松城より中国大返しで軍を引き連れてきたのが秀吉で織田信孝は名目上、弔い合戦の総大将に祭り上げられます。

■山崎の合戦
天王山との戦いとも言い、明智光秀の敗因は天王山をおさえられなかったという説がありますが、どうも違うようで明智光秀が考えていたのが長篠の合戦の再現だったようです。光秀は山崎の小泉川(円明寺川)沿いに長大な柵をもうけ、秀吉を武田勝頼に見立てて得意の鉄砲戦術で破る予定でした。ですが秀吉も見抜いていたようで、翌日に総攻撃をするという情報を流しながら、雨の日の夕刻に攻め込み、雨で鉄砲を使えなくして勝利をおさめたようです。

■織田信孝の墓
清須会議の後、織田信孝は美濃国一国と岐阜城を支配することになりますが、やがて秀吉と対立。連携を組んでいた柴田勝家が北庄城で滅び、自身は尾張で切腹することとなります。享年26歳でした。

信孝の首を家臣が神戸に葬ろうとして持ち帰りましたが、戦乱の末に果たせず、関に葬ったといわれています。それが関宿の街道筋にある福蔵寺で、もともと織田信孝が信長の供養のために設立した寺でした。

会津屋(関の小万)

会津屋

東海道五十三次、47番目の宿場が関宿。京都に向かうには次の坂下宿から難所といわれた鈴鹿峠を超えて近江の土山宿に入ります。

関宿には町屋が今も200棟以上が現存し、国の重要伝統的建造物群保存地区になっています。関宿を歩くと、まるで時代劇のセットを歩いているようでインスタ映えは間違いなし。木曽路の馬籠、妻籠ではなく、落ち着いた雰囲気の奈良井宿にちかい感じです。

■会津屋 関の小万
この関宿の地蔵院前にあるのが「会津屋」さん。手作りおこわと、おそばの店です。大正時代のかまどに薪をくべ、地下水を使って蒸す山菜おこわが名物になっています。山菜おこわは「おひつ」で出てきて絶品!

会津屋さんは元は旅籠山田屋で、江戸時代には仇討ちで有名な「関の小万」の生家となります。

身重ながら夫の敵討ちのために関宿までたどりつき、ここで女の子(小万)を出産しますが、小万のお母さんはまもなく亡くなります。そのまま山田屋の主人と女将に育てられたのが小万。亡き両親のことを養父母から聞いた小万は武芸に励み、見事に本懐を遂げます。仇討はあっと云う間に全国に拡がり、浄瑠璃・歌舞伎・小説などの題材となります。鈴鹿馬子唄にも”昔恋しい鈴鹿を越えりゃ 関の小万の声がする”など小万のことが出てきます。

赤坂頓宮跡

赤坂頓宮跡

亀山でお仕事でしたので加茂駅から久しぶりに関西本線に乗って亀山駅を目指します。ちょっと時間があったので、一つ手前の関駅で下車。前から行きたかった赤坂頓宮跡に寄ってきました。関宿は東海道の宿場町で有名ですが、少し離れたところ赤坂頓宮跡があります。

■赤坂頓宮とは
藤原広嗣の乱が起きると聖武天皇は乱の最中に、突然、関東(伊勢、美濃)への謎の行幸を始めます。壬申の乱で大海人王子(天武天皇)がたどった道をなぞっていることが定説になっていますが理由がよく分かっていません。最終的に平城京に戻らないまま恭仁京へ遷都し大仏建立に動きます。

この鈴鹿関を抜けて関東に入ったところに仮宮を建て、これが赤坂頓宮になっています。丘の上で裏側には郭と土塁跡がありますので砦としても使えそうです。

■鈴鹿頓宮跡?
姫御前という地名があたりに残っていて都から伊勢の斎宮へ向かう斎王が泊まった鈴鹿頓宮跡があったのではとも言われています。

離宮院跡

離宮院跡

伊勢神宮の入口にあるのが宮川の渡し。この宮川の手前にあったのが斎宮(さいくう)の離宮院です。斎宮とは古代から南北朝時代にかけて、伊勢神宮に奉仕した斎王の御所で、現在も発掘が続いています。

■斎王
斎王は天皇の皇女などが任命され、天照大神の御杖代となりました。初代が豊鍬入姫命で、現在の伊勢神宮を創建したのが2代目の倭姫命になります。有名なのが大来皇女で、謀反を起こしたと殺された大津皇子を偲んだ「うつそみの人にあるわれや明日よりは 二上山を弟背(いろせ)とわが見む」が万葉集に残っています。

■離宮院
斎王が斎宮から伊勢神宮へ向かう途中に立ち寄ったのが離宮院で、離宮院ができたのは延暦16年(797年)。坂上田村麻呂が征夷大将軍に任命された年になります。斎宮と同様に離宮院も広かったようで、たくさんの役所が並んでいました。839年に火災で燃えましたが、すぐに再建されたようで、当時の土塁跡が今も残っています。北側が5メートルほどの高低差がある丘になっていて防御力は高そうです。