疋壇城

疋壇城(ひきだじょう)

疋田にある丘城で越前・朝倉氏の城で近江・越前国境を守備する城でした。交通の要衝でこの近くに三関のひとつである愛発関があったのではと言われています。

疋壇城
疋壇城

朝倉義景は浅井長政の救援に向かい小谷城近くに陣をはりますが、信長が朝倉方の大嶽城・丁野城を攻め落としたため形勢不利と判断して退却を開始。この動きをよんでいた信長は追撃をし、疋壇城手前の刀根越えで追い付き、朝倉方の多くの将兵が討たれます。この時、疋壇城も攻め落とされ、そのまま敦賀から一乗谷に攻めこまれ朝倉氏は滅ぶことになります。

疋壇城はきれいに整備され石垣跡や堀跡も明瞭に残っています。

大谷吉継の敦賀城

敦賀港のすぐ近くにあったのが敦賀城という水城。

敦賀城
敦賀城

城跡は残っておらず碑が建っているだけ、堀跡が川として残っていて海まで続いています。敦賀城の城主で有名だったのが大谷吉継。大河ドラマ「真田丸」では片岡愛之助が演じていました。

大谷吉継は家康の上杉討伐に参加するため敦賀をたち、途中で逼塞していた佐和山城の石田三成を訪ねます。これが転機となり三成と一緒に挙兵して関ケ原の戦いになだれこみます。石田三成から挙兵を打ち明けられ、大谷吉継は「無謀であり、三成に勝機なし」と言いながら、最後は友情をとって挙兵したと言われていますが、実際はどうですかねえ。

十分に勝機はあり、豊臣側の了解をとりつけ家康を反逆軍にすることに成功。また関ケ原の周辺に3つの山城(1つが松尾山城)を整備し、万全の体制を整えていました。大津城攻めに参加していた立花宗茂を関ケ原に早めに呼び出し、総大将の毛利輝元が領地を増やそうと九州で画策などしなければ十分に西軍有利だったのですが...。関ケ原の後、敦賀城は廃城となりました。

手筒山城

金ヶ崎城から尾根筋を進むと手筒山城(天筒山城)があります。ハイキングコースになっていてアップダウンはきついですが標高174.3mの手筒山山頂に登れます。山頂にあった主郭などの郭群は公園になっていますが、途中に竪堀や土塁や郭跡などが残存しています。ハイカーにとっては単なる藪ですが(笑)。

手筒山城
手筒山城

写真は手筒山城から見た金ヶ崎城で、尾根の先端に金ヶ崎城は築かれていました。新田義貞の時は金ヶ崎城を攻撃する足利軍の陣城として使われていたようです。戦国時代は越前の西を守る第一防御線として運用され、金ヶ崎城を朝倉景恒が守り、手筒山城は寺田采女丞が守っていました。

織田軍は手筒山城の北側背後から攻撃し落城させます。金ケ崎城の朝倉景恒は開城して城を明け渡し退却します。この後に浅井長政の離反が判明し金ヶ崎の退き口へとなります。

太平記の舞台「金崎宮」

「金ヶ崎の退き口」以外で有名なのが金ケ崎城の麓にある金崎宮で「恋の宮」です。

金崎宮
金崎宮

恒良親王と尊良親王を祭神として明治になって作られたのが金崎宮。この時代、男女の出会いの場となる「花換まつり」が始まります。「花換えましょう」と声を掛け合い、金崎宮で受け取った桜の小枝を交換するお祭りで、まあ合コンですなあ。というわけで金崎宮は縁結びの「恋の宮」になっています。

さて祭神となっている親王ですが室町時代初期の話です。

■金ケ崎城で戦った親王と新田勢
楠木正成らと足利尊氏と戦った新田義貞は湊川の戦いで破れ、楠木正成は討死します。新田義貞はなんとか近江の坂本へ逃れ反転攻勢をかけようと思っていました。ところが京都に入った足利尊氏は後醍醐帝と手を組むことになり、この一件は新田義貞には知らされていませんでした。御醍醐帝もさすがにまずいと思ったのか新田義貞に恒良親王、尊良親王をつけて北陸へと向かわせます。この後、御醍醐帝は足利尊氏と決裂して吉野に南朝をたてますので南北朝以外に北陸が第三極となり、天下三分の計ができたかもしれません。

新田義貞や親王らが入ったのが金ケ崎城。足利軍に何回も攻められその度に撃退しますが、最後は兵糧攻めにあいます。尊良親王は義貞の息子と共に懸命に防戦しましたが、遂に力尽きて自害、恒良親王は捕らえられましたが翌年に急死します。尊良親王が自刃した地が城内に残っています。ということで金崎宮が造られました。

金崎宮は縁結びの「恋の宮」となっていますが、もともとは戦場なんですがねえ(笑)。