上京の堀

応仁の乱で京都は焼け野原となり、戦国時代は現在のような整然とした街ではありませんでした。なんせ自力救済の世界なので上京と下京で、それぞれの街が防衛することになります。街の外周を土塁や堀で囲み、惣構えとしました。上京と下京をつないだ道が室町通です。

上京の堀
上京の堀

京都府警本部の新築工事の際に幅5m、深さ3.5mの堀が検出され上京を守る惣構えの一つでした。戦国時代が終わり、天下統一をはたした秀吉が京都の町を囲む御土居や寺を集中させた寺町通りなど都市改造を行って京都は発展していくことになります。

足利義昭が織田信長に対して挙兵した時に信長は和平交渉しながら幕府や幕臣を支持する商人などが多く住居する、上京を焼き払っています。義昭に圧力をかける狙いでしたが、せっかく復興して街づくりをしたのに、ふんだりけったりです。そうそう当時の本能寺は下京の北西にあり、総構えの外側でした。

二条城 その5

二条城シリーズの第5弾です

二条城
二条城

関ヶ原の戦いで勝利した家康は西国の諸大名に二条城造営費用と労務の割り当てを行います。いわゆる天下普請です。

京都は碁盤の目になっていますが、家康が造った二条城はこの碁盤の目から東に3度傾いています。当時、西洋から入ってきたコンパスを使って縄張りを決めています。方位磁石の指す北は地球の自転の影響で動き続けています。家康の時代の京都では真北から東に3度傾いていたようです。当時の技術者も二条城から堀川までの距離が北と南で違っていると認識していましたので、分かっていてやっていました。朝廷に対して徳川は最新技術をもっているというアピールでもありました。

二条城 その4

二条城シリーズの第4弾です。

二条城
二条城

関ケ原の戦いの後、家康が造った二条城ですが、信長の二条新御所、秀吉の妙顕寺城のすぐ西側で武家政権のトップとして二条にこだわりました。足利将軍の二条御所(武衛陣)からの流れを組んでいます。

二条城で家康と豊臣秀頼の会見が開かれ、立派に育った秀頼を見て豊臣家をつぶす決意をしたとも言われています。家光の時代まで二条城は使われていましたが幕末まで、あまり修理されることなく放置されていました。徳川家茂の上洛にあわせて改修が行われ、教科書で有名な徳川慶喜による大政奉還が行われた場所でもあります。

二条城 その3

二条城シリーズの第3弾、妙顕寺城です。

妙顕寺城
妙顕寺城

秀吉は本拠地を大坂にしましたが、朝廷との交渉で京都に来ざるをえません。宿泊地が問題となり、信長が造った二条城新御所の西側にあった妙顕寺を移転させ、1583年(天正11年)に城を造りました。今も古城町という地名が残っています。信長が本能寺の変で亡くなったことを教訓に堀や天守閣を備えた強固な城としました。通常は朝廷との交渉役だった京都所司代・前田玄以が在城していました。後の五奉行の一人です。

この妙顕寺城が3つ目の二条城です。足利義昭の二条城など二条という土地は、武家政権にとって聖地となっていました。秀吉が公家の最高位である関白となったことで気にしなくてもよくなり、平安時代の大内裏の跡地に聚楽第を作り、この妙顕寺城より移りました。

二条城 その2 二条新御所

二条新御所跡です。場所は烏丸御池駅近くで京都国際マンガミュージアムがあり、二条殿町という町名が残っています。信長が足利義昭のために造った二条城ですが、武田信玄が挙兵すると、信長が負けると、まずいと思った足利義昭が挙兵し槇島城の戦いで敗れます。足利義昭は京都を追放され若江城へ退きますが、二条城を守備した三淵藤英(「麒麟がくる」では谷原章介が演じていました)は切腹、二條城は廃城となります。

二条新御所跡
二条新御所跡

信長は上洛した時に妙覚寺を使っていましたが、二条晴良から二条邸を譲り受けたため新しく二条城を造ります。主殿は松永久秀の多聞山城から移築しました。信長は新しい二条城を宿泊地に使っていましたが、正親町天皇の皇太子・誠仁親王に献上し、二条城は親王家の御所となります。これで二条新御所となります。

■本能寺の変の舞台
本能寺の変が起きた時、妙覚寺に宿泊していた織田信忠は本能寺が既に落ちたことを知り、防御能力に優れた二条新御所へ移ります。誠仁親王には内裏に移ってもらい、ここで明智軍と戦い、亡くなります。織田信忠と一緒に戦っていたのが弥助です。モザンビーク出身で南蛮人が連れてきたのを信長が譲り受けて侍にした黒人です。弥助は捕縛されましたが明智光秀は日本人ではないからと許し、南蛮寺へ行くことになります。本能寺の変の詳細がイエズス会からヨーロッパに報告されます。

この二条新御所には大きな庭園があり龍躍池(りゅうやくち)と呼ばれる池がありました。これが御池通りの由来となります。

二条城 その1

大政奉還の舞台となった現在の二条城ができる前に、いろいろと二条城がありました。まずは足利義昭の二条城です。織田信長が足利義昭を奉じて上洛。義昭は将軍に就任し仮の御所である本圀寺に入ります。信長が岐阜に帰ったすきをついて三好三人衆らが将軍を襲撃します(本圀寺の変)。

二条城
二条城

「麒麟がくる」では十兵衛(明智光秀)が米蔵の地下にある部屋に義昭を匿っていました。義昭の側近らが必死に奮戦し撃退します。信長もかけつけ足利義昭の無事を確認。城が必要だと認識した信長が造ったのが二条城です。武衛陣の跡地を中心に堀などをもうけた本格的な城を造ります。信長自身が普請総奉行として現地で陣頭指揮をとります。

ポルトガルの宣教師、ルイス・フロイスが初めて織田信長とあったのが、この二条城の工事現場。信長は堀の橋の上で待っていたと著書「日本史」に書いています。よくドラマや映画などで描かれるシーンです。二条城には二重の堀があったとも記載されており、2012年に内堀跡が発見されフロイスの記載通りでした。

武衛陣

「鎌倉殿の13人」で上総広常(佐藤浩市)が源頼朝を「武衛ぶえい)」と呼ぶシーンがあり、頼朝が喜んでいますが、武衛とは天子を守る武官を唐名で呼んだ時の言葉で「佐殿(すけどの)」より尊称になります。ちなみに中納言の唐名は黄門で、中納言の官職をえていた水戸光圀は水戸黄門と呼ばれていました。鎌倉時代の後、室町時代に御所警衛や京内巡視などを担当していた斯波氏が武衛と呼ばれていました。

武衛陣
武衛陣

この斯波氏の邸宅が現在の京都御所のすぐ近くにあり武衛陣と呼ばれていました。今も武衛陣町という地名が残っています。応仁の乱の頃になると武衛陣は数多くの櫓を備え、堀を巡らした城となります。戦国期になると斯波氏は守護だった尾張へと移り、跡地は将軍御所として使われました。「麒麟がくる」では剣豪でもあった将軍・足利義輝を向井理が演じ、三好軍の襲撃を受けて最後を遂げますが、その場所になります。

開田城

勝龍寺城のあった西岡の地にはたくさんの城がありました。革嶋城、上羽城、石見城、物集女城、上植野城、今里城、開田城、神足城。京都・桂川の西にこんなにたくさんの城があったんですね。

開田城
開田城

阪急長岡天神駅のすぐ近くに開田(かいでん)城があり国人の中小路氏の居城です。といってもバス停近くに土塁の一部だけが残り開田城土塁公園となっています。マンション建設に伴って発掘調査が行われ、一辺約70mの方形居館が堀と土塁に囲まれていたことが分かりました。マンション1階には開田城の復元模型があります。文献に文明2年(1470年)、山名弾正と丹波勢が開田城と勝龍寺城を攻めた記録が残されています。

勝竜寺城の城跡(神足城)

現在の勝竜寺城跡は本丸跡で、勝竜寺城自体の城域はかなり拡がっていました。神足(こうたり)神社の境内に外郭の堀跡が残っています。かなり深い堀で真ん中には土橋がかかっています。土塁も見事ですね。土塁と空堀の比高が約六メートありました。

勝竜寺城の城跡
勝竜寺城の城跡

もともとは国人の城郭があったのを細川藤孝が勝竜寺城に組み込んだようです。昔、整備された頃に見に行った時はきれいな堀跡でしたが、いまは草が生い茂っていました。せっかくの遺構なのに、もったいないなあ。でも整備にはお金がいりますし自治体には金がないし、悩ましいですね。

勝竜寺城

長岡京市でお仕事だったので終わってから勝竜寺城へ

勝竜寺城
勝竜寺城

戦国時代、三好三人衆が拠点にしており足利義昭を奉じて織田信長が上洛した時、勝竜寺城を攻めて落城させ、三好勢を追い払います。織田信長の命で細川藤孝が勝竜寺城を大幅に造り変え、西岡一帯を支配することになります。大河ドラマ「麒麟がくる」では眞島秀和が演じていました。

■古今伝授
細川藤孝は土地の名をとって長岡藤孝と名乗ります。息子の細川忠興と明智光秀の娘であるお玉(細川ガラシャ)が結婚した城でもあります。そうそう古今和歌集の奥義を伝えるため細川藤孝が智仁親王へ古今伝授を行いますが、最初のレッスンはこの勝竜寺城から始まりました。いろいろと中断があり関ヶ原合戦まで続きますが、東軍側として舞鶴の田辺城に籠城した細川藤孝に対し、天皇が古今伝授が途絶えるのは残念と包囲していた西軍と和睦するよう勧告します。まさに芸は身をたすけるですね。

■山崎の合戦
本能寺の変の後、中国大返しで戻ってきた秀吉と激突した光秀が拠点にしたのが勝竜寺城です。山崎の合戦で敗れたので勝竜寺城に立てこもりますが明智軍の士気は低く、また秀吉軍が夜の間も鉄砲を撃ち続けたため逃亡者も多く、光秀も体制を立て直すため城を出て近江へ向かう途中、落ち武者狩りにあって亡くなります。