山科本願寺から石山本願寺へ

山科本願寺跡

イスラム教のスンニ派とシーア派との対立、またキリスト教でもカトリックとプロテスタントの対立があり世界中で宗教戦争があります。日本もかっては同様でした。特に一向宗と法華宗が争っており、政治的な話もからんでグチャグチャの状況です。

■大谷本願寺
本願寺が京都の大谷にあった頃、蓮如がやり手で、御文(おふみ)・御文章(ごぶんしょう)という、庶民が分かる書簡を使った教化を行い全国に信者を増やしていきます。近江に力をいれて布教しており、怖れをいだいた比叡山が京都に僧兵を送りこんで大谷本願寺を壊してしまいます。

■山科から大坂へ
そこで新しく造られたのが山科本願寺。寺と言いながら、二重の土塁と堀で囲まれた、ふつうの城です。ところが、ここも細川春元が率いる法華宗、近江守護六角氏の連合軍により焼き討ちにあいます。鉄壁の守りですが油断をついて攻め込まれました。次に移ったのが石山本願寺。いままでの経験をいかし徹底的に防備を固め、出城をいくつも作ったため、さしもの信長も攻めあぐね10年戦争(石山合戦)になりました。

最後は和睦して大阪を立ち退き紀州(鷺森本願寺)へ移ります。信長亡き後、秀吉と和睦して天満へ移り、その後に京都へ移ります。信長、秀吉、家康が宗教を非武装化したことにより、世界でも珍しく日本では宗教戦争がなくなっていきます。

山科本願寺公園

山科本願寺公園

先週のブラタモリを見ていたら山科が舞台で、山科本願寺の土塁跡が取り上げられていました。山科中央公園の一角に土塁跡が残っていて、そちらが紹介されていましたが、その後に出てきたのが本願寺跡にあった風呂設備の遺構です。

当時のお風呂は湯船タイプではなく、いわゆる蒸し風呂、つまりサウナです。そういえば先週の「どうする家康」でも蒸し風呂に入っている家康のシーンが出ていました。湯船タイプは江戸時代からになります。山科中央公園の土塁跡は昔、行ったのですが、風

呂設備についてははじめてで、さっそく山科本願寺公園へ出かけてきました。史跡公園として、できたのは2021年、つい最近なんですね。公園は山科本願寺の中枢である宗主空間があったところで、建物跡や堀跡が示されています。すぐ近くを新幹線が走っていますので、新幹線の窓からも見えます。山科の街を通り過ぎる北側になります。

京都新城から移された飛雲閣

そうだ 京都、行こう。

飛雲閣

ゴールデンウィークの最終日だし、おまけに朝から雨が降っている。飛雲閣なんてインバウンドの観光客は絶対に知らないはずだ!
そうだ 京都、行こう。というわけで京都へ。西本願寺で特別公開している飛雲閣を見てきました。雨の中、人は、ほとんどおらず、ゆっくり見てきました。

飛雲閣は三層柿葺(こけらぶき)の楼閣建築で、秀吉の聚楽第から移されたと伝わっています。1595年に豊臣秀次事件が起きて、聚楽第は破却されました。当時、西本願寺の前身が出来ていたので、辻褄はあいます。ところが1617年に西本願寺の伽藍が全焼したという記録が見つかって、移転説はほんまかいなということになっています。

■飛雲閣は京都新城から移転?
と思っていたら幻だった京都新城が発見されます。京都新城には秀吉没後に北政所が住み続けていました。北政所が亡くなり、寛永4年(1626年)に後水尾天皇の譲位にあわせて、仙洞御所を作ることになり、京都新城が破却されることになります。この頃に西本願寺へ移した可能性があります。知らんけど。

周山西城

周山西城 堀切

周山城の西側にも山城があり、周山城の小姓丸と呼ばれる一番西の郭から尾根を600mほど行くと周山西城があります。途中の尾根筋を、でかい堀切2つで遮断していて、これがなかなか見事です。周山城は基本、石垣の城ですが周山西城は土の城になっています。5つほどの郭で構成されていて、周山城ができる前からあった城のようです。ただ虎口などが改修されたようで、周山城を造る時に詰の城として整備しなおし、この時に巨大な堀切を造ったのかもしれません。

周山城から周山西城へが京都一周トレイル・京北コースになっていて、こんな過酷な山道を走るんですね。堀切は迂回するようになっています。

上京の堀

応仁の乱で京都は焼け野原となり、戦国時代は現在のような整然とした街ではありませんでした。なんせ自力救済の世界なので上京と下京で、それぞれの街が防衛することになります。街の外周を土塁や堀で囲み、惣構えとしました。上京と下京をつないだ道が室町通です。

上京の堀
上京の堀

京都府警本部の新築工事の際に幅5m、深さ3.5mの堀が検出され上京を守る惣構えの一つでした。戦国時代が終わり、天下統一をはたした秀吉が京都の町を囲む御土居や寺を集中させた寺町通りなど都市改造を行って京都は発展していくことになります。

足利義昭が織田信長に対して挙兵した時に信長は和平交渉しながら幕府や幕臣を支持する商人などが多く住居する、上京を焼き払っています。義昭に圧力をかける狙いでしたが、せっかく復興して街づくりをしたのに、ふんだりけったりです。そうそう当時の本能寺は下京の北西にあり、総構えの外側でした。

二条城 その5

二条城シリーズの第5弾です

二条城
二条城

関ヶ原の戦いで勝利した家康は西国の諸大名に二条城造営費用と労務の割り当てを行います。いわゆる天下普請です。

京都は碁盤の目になっていますが、家康が造った二条城はこの碁盤の目から東に3度傾いています。当時、西洋から入ってきたコンパスを使って縄張りを決めています。方位磁石の指す北は地球の自転の影響で動き続けています。家康の時代の京都では真北から東に3度傾いていたようです。当時の技術者も二条城から堀川までの距離が北と南で違っていると認識していましたので、分かっていてやっていました。朝廷に対して徳川は最新技術をもっているというアピールでもありました。

二条城 その4

二条城シリーズの第4弾です。

二条城
二条城

関ケ原の戦いの後、家康が造った二条城ですが、信長の二条新御所、秀吉の妙顕寺城のすぐ西側で武家政権のトップとして二条にこだわりました。足利将軍の二条御所(武衛陣)からの流れを組んでいます。

二条城で家康と豊臣秀頼の会見が開かれ、立派に育った秀頼を見て豊臣家をつぶす決意をしたとも言われています。家光の時代まで二条城は使われていましたが幕末まで、あまり修理されることなく放置されていました。徳川家茂の上洛にあわせて改修が行われ、教科書で有名な徳川慶喜による大政奉還が行われた場所でもあります。

二条城 その3

二条城シリーズの第3弾、妙顕寺城です。

妙顕寺城
妙顕寺城

秀吉は本拠地を大坂にしましたが、朝廷との交渉で京都に来ざるをえません。宿泊地が問題となり、信長が造った二条城新御所の西側にあった妙顕寺を移転させ、1583年(天正11年)に城を造りました。今も古城町という地名が残っています。信長が本能寺の変で亡くなったことを教訓に堀や天守閣を備えた強固な城としました。通常は朝廷との交渉役だった京都所司代・前田玄以が在城していました。後の五奉行の一人です。

この妙顕寺城が3つ目の二条城です。足利義昭の二条城など二条という土地は、武家政権にとって聖地となっていました。秀吉が公家の最高位である関白となったことで気にしなくてもよくなり、平安時代の大内裏の跡地に聚楽第を作り、この妙顕寺城より移りました。

二条城 その2 二条新御所

二条新御所跡です。場所は烏丸御池駅近くで京都国際マンガミュージアムがあり、二条殿町という町名が残っています。信長が足利義昭のために造った二条城ですが、武田信玄が挙兵すると、信長が負けると、まずいと思った足利義昭が挙兵し槇島城の戦いで敗れます。足利義昭は京都を追放され若江城へ退きますが、二条城を守備した三淵藤英(「麒麟がくる」では谷原章介が演じていました)は切腹、二條城は廃城となります。

二条新御所跡
二条新御所跡

信長は上洛した時に妙覚寺を使っていましたが、二条晴良から二条邸を譲り受けたため新しく二条城を造ります。主殿は松永久秀の多聞山城から移築しました。信長は新しい二条城を宿泊地に使っていましたが、正親町天皇の皇太子・誠仁親王に献上し、二条城は親王家の御所となります。これで二条新御所となります。

■本能寺の変の舞台
本能寺の変が起きた時、妙覚寺に宿泊していた織田信忠は本能寺が既に落ちたことを知り、防御能力に優れた二条新御所へ移ります。誠仁親王には内裏に移ってもらい、ここで明智軍と戦い、亡くなります。織田信忠と一緒に戦っていたのが弥助です。モザンビーク出身で南蛮人が連れてきたのを信長が譲り受けて侍にした黒人です。弥助は捕縛されましたが明智光秀は日本人ではないからと許し、南蛮寺へ行くことになります。本能寺の変の詳細がイエズス会からヨーロッパに報告されます。

この二条新御所には大きな庭園があり龍躍池(りゅうやくち)と呼ばれる池がありました。これが御池通りの由来となります。

二条城 その1

大政奉還の舞台となった現在の二条城ができる前に、いろいろと二条城がありました。まずは足利義昭の二条城です。織田信長が足利義昭を奉じて上洛。義昭は将軍に就任し仮の御所である本圀寺に入ります。信長が岐阜に帰ったすきをついて三好三人衆らが将軍を襲撃します(本圀寺の変)。

二条城
二条城

「麒麟がくる」では十兵衛(明智光秀)が米蔵の地下にある部屋に義昭を匿っていました。義昭の側近らが必死に奮戦し撃退します。信長もかけつけ足利義昭の無事を確認。城が必要だと認識した信長が造ったのが二条城です。武衛陣の跡地を中心に堀などをもうけた本格的な城を造ります。信長自身が普請総奉行として現地で陣頭指揮をとります。

ポルトガルの宣教師、ルイス・フロイスが初めて織田信長とあったのが、この二条城の工事現場。信長は堀の橋の上で待っていたと著書「日本史」に書いています。よくドラマや映画などで描かれるシーンです。二条城には二重の堀があったとも記載されており、2012年に内堀跡が発見されフロイスの記載通りでした。