多田さんの故郷

多田神社

阪急宝塚線の川西能勢口駅で能勢電鉄で北に向かう途中に多田駅があります。駅から西に歩くと高台の上に多田神社があります。昔は摂津国川辺郡多田でした。平安時代、二度にわたって摂津の国司を務めた源満仲が土着し、この地で武士団を形成していきます。拠点となったのが川を堀とした多田神社がある場所です。地名をとって多田満仲と名乗るようになることで多田氏の祖となります。

満仲の長男が源頼光で、酒呑童子を討ち取ったことで有名で、摂津の地盤を継承したことから摂津源氏の祖となり、三男が源頼信で河内源氏の祖となり、頼朝へつながっていきます。多田神社は清和源氏発祥の地となり室町幕府や徳川幕府などが自分たちの祖廟として庇護します。

五色塚古墳

明石海峡大橋のすぐ近くにあるのが五色塚古墳。高台に築かれた前方後円墳で、今は明石海峡大橋がランドマークですが、古代はこの五色塚古墳がダントツのランドマークでした。航行していた船からよく見えたでしょうね。後円からの眺めは抜群で明石海峡や四国がよく見えます。

五色塚古墳
五色塚古墳

五色塚古墳は全長194mで兵庫県最大の前方後円墳になります。古墳時代中期の4世紀末~5世紀初頭に造られたようですが被葬者は分かっていません。明石海峡一帯を支配した豪族の首長でしょうが、大和政権の大王墓に匹敵する規模ですので、大和との関りがあった人物になります。五色塚古墳からは大和政権の領域になると明示する効果もあったようです。山陽電鉄・霞ヶ丘駅から歩いてすぐです。

大中遺跡

五重塔がある圓満寺のすぐ近くにあるのが大中遺跡。台地の上にある弥生末期から古墳時代初頭にかけての集落跡で、ちょうど邪馬台国の時代とかぶります。1962年、考古学に興味をもっていた近くの中学生3人が土器を掘り出したことから発見されました。

大中遺跡
大中遺跡

まだ全体の20%しか調査されていませんが、73軒の竪穴住居跡が見つかっています。遺跡内には少なくとも250軒くらいの住居が建てられていたようで、こうなると邪馬台国のクニの一つですね。竪穴住居跡は一部復元して公開されています。

■野添城
遺跡があるのは大中という地名で、あとで地図を見てみると、すぐ隣に野添城の地名が残っています。城東公園やら城の宮公園など気になる名前が多いのですが、現在は住宅地で城らしい痕跡は皆無。地名として残っているので城郭か何かあったんでしょうね。

播磨 五重塔

JRに乗って姫路訪問へ向かうと加古川駅手前で瀬戸内海側に五重塔が見えます。なかなか風情があり前から気になっていたので地図で調べて行ってきました。最寄り駅はJR土山駅です。

円満寺 五重塔
円満寺 五重塔

圓満寺という高野山真言宗のお寺で、お目当ての五重塔は木造ではなく、塔の外には階段がついていて各階に登れるようになっています。中にはエレベータもあるそうです。舎利宝塔という名前で平成5年に建てられ、高さは42メートルもあります。こういうものは変に調べず、遠くから眺めるのが一番ですなあ。

寺の歴史を見ると弘法大師の開祖といいながら昭和まで歴史が飛んでいて霊園の話が出てくるので、けっこう新しい寺のようです。

関西学院構内古墳

関西学院大学です。関西は「くわんせい」と読みますので「かんさいがくいん」と言うと怒られます。

関西学院構内古墳
関西学院構内古墳

関西学院大学は創立40周年の1929年(昭和4年)に神戸から甲東村(西宮市)へ移転。移転した上ケ原校地は東六甲石丁場など遺跡が多い所でした。社会学部の裏手には古墳もあり、関西学院構内古墳と呼ばれています。古墳時代後期に造られたもので、このあたりに古墳群がありましたが多くが消失しました。

上ケ原では江戸時代に用水を整備し新田が作られます。江戸時代に建てられた道標や、用水を分配する石の分水樋がそこかしこに残っています。

サンパルがいよいよ建て替え

神戸・三宮にあるサンパルが、いよいよ建替工事に入るということで、神戸に行ったついでに見てきました。ほとんどのテナントが撤去していました。

サンパル
サンパル

2013年~2016年の3年間、サンパル6Fにあった「ひょうご産業活性化センター」で経営相談をやっていましたので毎週、行っておりました。阪神電車で行くと東口からミントや地下スーパーを通って雨の日に濡れずに行くことができました。もっとも朝はスーパーが閉まっているので濡れないといけないのですが(笑)

ランチはサンパル1Fにあった金魚で日替わりランチを食べていました。古書店もあったし、隣のダイエーにはジュンク堂(ダイエーはなくなりました今もジュンク堂はあります)もあり、めちゃくちゃ環境がよかったですね。1Fには大きくて安い事務用品専門店もありました。そうかサンパルがなくなるのかと、しみじみ。

尼崎

阪神尼崎駅すぐ近くにある商店街は日本一早いマジック点灯で有名です。もちろん阪神タイガースの優勝マジックで、商店街は阪神タイガースカラーになっています。

尼崎
尼崎

尼崎の略称はアマで、かっては、ひったくり件数・兵庫ナンバーワンと散々な街だったんですが、近年は関西住みやすい街、第1位になったりしています。ほんまかいな~あ。尼崎は大阪から淀川を渡ればすぐですし、市外局番は大阪と同じ「06」。三宮へ行くより梅田へ行く方が近く兵庫県という意識が希薄です。

尼崎は北から阪急、JR、阪神と並行して走っていて阪急沿線といえば塚口、武庫之荘と高級イメージですが、南になればなるほど庶民的ですね。阪急、阪神は経営統合しましたが、やっぱり阪神の雰囲気は阪急のマリンブルーとは全然ちゃいますなあ。

廣徳寺(尼崎)

城下町には大概、寺町があります。

廣徳寺
廣徳寺

京都の寺町通りは秀吉が京都の大改造をした時に80以上の寺院を集めた名残です。寺院は兵が駐屯できる土地と塀があるので寺をずらっと並べると防備するのに最適でした。伊賀上野の寺町通りなど各地にあります。大坂では江戸時代に上町台地に四天王寺にかけて寺町が作られました。

尼崎にも戸田氏鉄が尼崎城築城時に寺院ばかりを集めて作った寺町があり阪神・尼崎駅を電車が出ると南側にずらっと並んだ寺を見ることができます。この寺町にあるのが廣徳寺、もともとは大物にありましたが寺町を作る時に移されました。

廣徳寺が大物にあった時、大物崩れで負けた管領・細川高国は敵対した細川晴元と三好元長にこの寺で自害に追い込まれます。秀吉が中国大返しで山崎に行く途中に立ち寄って休息した寺とも言われています。

船弁慶

大物を舞台にしたのが能の船弁慶。源義経、武蔵坊弁慶、静御前、平知盛が登場する能です。この能を題材にした上方落語もあります。今では埋め立てられて信じられませんが大物浦は西国への船の表玄関でした。

義経・弁慶
義経・弁慶

■船弁慶
頼朝と不和になり義経は都落ちを決意して弁慶以下十余人で摂津の大物浦に着きます。ここで静御前を都に返すことになり、静御前は同行をあきらめて離れます。さて大物浦から船出すると、外海は大荒れに。そこへ平知盛の幽霊があらわれますが弁慶が数珠で祈ることで鎮めます。

■実際は
実際のところは頼朝と敵対した義経は九州で再起しようと大物浦から船出しましたが、途中暴風のために摂津に押し戻されてしまいます。これで再起は無理となり、吉野に逃げ込みますが静御前が捕らえられ、最後は奥州・平泉を目指します。当時の大物浦は大物主神社のすぐ近くまでが海になっていて義経主従は神社横にあった宿屋に逗留していたと伝わっています。。

大物崩れ

阪神尼崎駅の一つ手前にあるのが大物。「だいもつ」とよみます。戦国時代、ここで起きたのが大物崩れ。

大物
大物

赤松政祐・細川晴元・三好元長の連合軍が、細川高国・浦上村宗の連合軍を破った戦です。大河ドラマ「軍師官兵衛」で浦上氏に嫁いだおたつ(南沢奈央)が、婚礼の夜に赤松氏に襲われるシーンが出てきますが、もともとは守護代だった浦上村宗が守護の赤松氏を凌ぐ力を持ち、播磨国で争いになっていたことが原因です。

また細川家も分裂していて細川晴元と細川高国が争っていました。三好元長は細川晴元に仕えており従っていましたが、大物崩れの後に主君と対立することになります。ちなみに信長の前に天下人となる三好長慶のお父さんです。

戦いは膠着状態でしたが戦局が崩れ、浦上村宗は討死、細川高国は尼崎で自害させられます。