都市センターホテル

少し調べものをしていたら神楽坂にある旅館「和可菜」を発見。別名が「ホン書き旅館」ということで、作家や脚本家がこの旅館に籠って作品を作りあげました。円谷プロの金城哲夫も、ここでウルトラマンを書いていました。『エロ事師たち』などで有名な野坂昭如もよく「和可菜」を使っていて、他に平河町にある都市センターホテルも使っていたそうです。

■都市センターホテル
大学を出てSRAに就職した時、本社が平河町にあったので出張というと麹町のダイヤモンドホテルや都市センターホテルに泊まっていました。40年前なので建替え前の時代ですねえ。近くには平川天満宮があったなあ。

都市センターホテルはジャーナリストの梶山季之もよく使っていました。この人の「せどり男爵数奇譚」は面白かったな~あ。梶山季之が籠っていた頃、フロントにいたのが森村誠一で梶山季之から原稿を預かり編集者に渡していました。これに触発されて作家の道を歩みはじめます。

軽子坂

鮮魚列車
情報図書館RUKITの入っていた軽子坂MNビルの軽子坂って軽籠(かるこ)に由来しているんですね。飯田濠には神楽河岸があって船から陸揚げしたそうで、 船荷を軽籠に入れて運搬する人が住んでいたことから名付けられたそうです。
揚場町(あげばちょう)という名前も残っていて荷を揚げることからきているそうです。軽籠は縄で編んだモッコのことですが、早朝に近鉄・鶴橋駅に着くと竹で編んだ大きな籠を持った人がドヤドヤと降りていきます。魚などを仕入れに小売商や飲食店で鶴橋駅周辺の卸売市場へ行くのでしょう。
そうそう先日、久しぶりに名張駅で大阪から伊勢方面へ向かう3両編成の鮮魚列車を見ましたが、乗っているのは一人だけでした。全国を走っていた行商列車も今や近鉄だけになってしまいました。ドライバー不足などでトラックから電車へのモーダルシフトが行われていますが行商という形態では難しいですかねえ。

今日は太田道灌が暗殺された日

小机城
文明18年(1486年)7月26日、つまり本日亡くなったのが太田道灌。死因は暗殺でした。
太田道灌といえば江戸城を築城した人物で有名です。また突然のにわか雨で蓑を借りようと農家に立ち寄った時、娘から山吹の花を渡されますが、その意味が分かりませんでした。「七重八重 花は咲けども山吹の実の一つだになきぞ悲しき」という和歌があり、”貸し出す蓑がない”という実に奥ゆかしい断り方です。”そんなもの分かるか!”と凡人なら思いますが、さすがは太田道灌!気がつかなかったことを恥じて歌道に励み、歌人として有名となります。この逸話は「道灌」という落語にもなっています。
当時の坂東は鎌倉公方、関東管領に後北条氏などが加わってわけの分からない戦乱状態になっています。この頃の戦乱の物語がNHK人形劇で有名となる南総里見八犬伝になります。
太田道灌は扇谷上杉氏の家臣で、なかなかの戦略家でした。江戸城だけでなく川越城、岩槻城も作り江戸城と結ぶ防衛ラインを作りあげます。またいろいろな合戦を戦い抜き上杉家を支えます。ですが出来すぎた部下というのは主君にとっては目障りなこともあり、神奈川県伊勢原市にあった扇谷上杉の館で風呂に入って出てきたところを討ち取られます。
優秀な部下を排斥するような会社に先がないように扇谷上杉家は没落していきます。上杉の名跡は最終的には長尾景虎つまり上杉謙信が継ぐことになります。

三州屋(神田)

2月にRedBall(All Aboutのガイドの集まり)で東京へ行った時、飲んだのが神田にある三州屋というお店。玉子焼きを頼んだら出汁巻ではなく、甘くて、しっとりとした寿司屋さんに出てくるような玉子焼きが出てきたお店です。
一緒に飲んだのはパソコン通信Nifty-ServeにあったFchiken(知的生産の技術)フォーラム時代の知り合いで、参加者の浜田 信郎さんが居酒屋礼賛に、その時の様子をアップされています。
細かいところまでよく観察されていますね。パソコン通信時代は風早人というハンドル名で一緒にFchikenのフォーラムスタッフをしておりました。
→ なんといっても鳥豆腐 … 大衆割烹「三州屋(さんしゅうや)」(神田)

この浜田さん、TBSの「有吉ジャポン」にも登場していて、先日はモデルの滝沢カレンさんさんと酒場巡りをしていました。美女との酒場巡りなんて、うらやましいな~あ!
→ 京急もつ煮ライン (3/3) … やきとり「鳥佳(とりよし)」(上大岡)

溜池櫓台の石垣

溜池櫓台の石垣
先日、虎ノ門からアメリカ大使館へ向かう途中の外堀通りにあった石垣です。外堀通りとは名前通り、江戸城の外堀があったところです。
虎ノ門付近には名前の通り、虎御門がありました。この虎御門につながる溜池露台の石垣がビルの一角に残っていました。大坂城の総構の遺構はなくなってしまいましたが、江戸城は街のいろいろなところに石垣や見附(枡形の城門)などが残っていて楽しめますねえ。

芝浜の舞台

芝浜
田町にある「西郷南洲・勝海舟会見の地という碑」のすぐそばにあったのが御穂鹿嶋神社という小さな神社。御穂神社と鹿嶋神社を合祀して御穂鹿嶋神社となったそうです。境内入口に橘右近という名前が入った碑がありました。碑をよく見ると「芝浜囃子の碑」とあります。
芝浜って、まさか古典落語の芝浜?
■芝浜とは
古典落語の芝浜は人情話で有名です。浜で大金を拾った亭主が儲かったといって帰ってきました。女房は大金で身を持ち崩したらダメだと、いい気になって酒を飲んで寝込んでいる間に大金は夢の話にしてしまいます。亭主は心をいれかえて熱心に働き、店をもつまでになります。そして女房が薄情するのですが、これが泣かせます。先代円楽の芝浜もよかったですね。
当時は、田町駅のあたりまで海だったんですねえ。そうか芝浜はここだったんだあ。

おまわりさんの語源となった新徴組

薩摩藩邸
先日、打合せで田町へ行った時、田町駅のすぐ見つけたのが西郷南洲・勝海舟会見の地という碑。
田町駅のすぐ近くに薩摩藩邸の蔵屋敷があったんですね。すぐ近くにあったのが上屋敷で、徳川幕府滅亡の原因となった薩摩藩邸焼き討ち事件が起きたところです。上屋敷は焼けてしまったので会見は蔵屋敷で行われたんですね。
■テロを起こした薩摩藩
徳川慶喜についてはいろいろと評価がありますが、なかなかの戦略家で薩長の先手先手をうつので、西郷隆盛などは困りはてます。そこで起こしたのが浪士による放火、掠奪、暴行。つまりテロで、これで江戸の治安を陥れます。逃げこむ先は薩摩藩邸で、つまり挑発です。
治安維持にあたっていたのが江戸市中取締にあたっていた庄内藩預かりの新徴組。新選組は京都に残った近藤勇や土方歳三が作りましたが、京都から江戸にもどって作ったのが新徴組。あまり知られていませんが先日、NHKが新徴組をテーマにした「花嵐の剣士 ~幕末を生きた女剣士・中澤琴~」というドラマをやっていました。
■おまわりさんの語源は新徴組
警察官のことを”おまわりさん”と言いますが、新徴組が江戸市中を見回ることから”御回りさん”と庶民に呼ばれるようになります。薩摩には手を出すなとお達しがありましたが、治安維持にあたっていた新徴組はついにキレテ、薩摩藩焼き討ちとなります。これが薩摩の思惑通りに戊辰戦争への道筋をつけることになります。そうか、薩摩藩邸は田町にあったんだあ。

東京の通勤は大変

新幹線
よろず支援拠点 全国研修会の2日目
研修は9時半スタートなので虎ノ門までゆっくり行けばよいと9時前後に銀座線に乗ったら、御堂筋線なみの混雑。9時といえばふつうの会社の始業時間なので大阪の地下鉄ならけっこうすく時間帯なんですが東京は大変ですね。
虎ノ門駅の1つ前の新橋駅のホームでは入場制限をやっていました。ホームが狭いせいもあるのでしょうが、9時前後でこの状態ならラッシュ時はどんなんだろう。
研修会場は虎ノ門ツインビルという虎ノ門病院横のビルでしたが、周辺にあまり食べる所はなく地下の食堂か1階で販売している弁当を買う人で列ができていました。通勤は大変だし、ランチ難民にもなるし東京は大変そうですね。
2日間の研修は無事終了。帰り、新橋駅の駅前広場で古本市をやっていて、知っていたら寄ったのに!京浜東北線の電車に乗った瞬間に古本市を発見、さすがに戻る元気はなかったですね

北斗七星になる将門の首塚

将門の首塚
箱根駅伝の像がある読売新聞本社前と江戸城との間にあるのが「将門の首塚」。
討ち取られた平将門の首が京都でさらされ、怨念で大手町のこの地まで飛んできたそうです。塚を取り壊そうとした大蔵省では、急死するものが相次ぎなど怨念めいた話も残っています。
きわめつけは敷地にあった長期信用銀行が倒産したのも、将門の怨念と言われていますが、さすがにね~え。阪神が優勝できないのはカーネルサンダースの呪いのせいとよく似ています。

家康の腹心だった天海は将門の怨霊の力を使って江戸の守護神にしようとしたとのことで、将門を祀るところが都内に7つあります。それが首塚、神田明神、築土神社、兜神社、鳥越神社、水稲荷神社、鎧神社。この7つを結ぶと北斗七星の形になるそうです。

麹町の平河天満宮は三芳野神社から

三芳野神社
川越城内の本丸御殿のすぐ近くに三芳野神社(みよしのじんじゃ)があります。
川越城ができる以前から神社があったため、城内の天神曲輪に移設されることになり「お城の天神さま」と呼ばれました。三芳野というのは川越の旧地名です。「とおりゃんせ、とおりゃんせ、ここはどこの細道だ」という歌がありますが、この三芳野神社が発祥の地と言われています。(別の説もあります)
城内に神社ができたので一般の参詣ができなくなりましたが、領民などの要望があり時間を区切って参詣することが認められます。当時の参道はかなり複雑でしたが、参詣客に紛れて密偵などが城内に入り込むことをさけるため、帰りの参詣客じゃ厳しく調べられました。そこで「行きはよいよい、帰りは怖い」という歌になったそうです。
■麹町・平河天満宮は三芳野神社から
大学を出た後、入社したSRAの本社が麹町にあり、時たま本社近くにあった平河天満宮にお参りにいっていました。平河天満宮の社伝によれば太田道潅が菅原道真の夢を見たことに感銘を受け、川越の三芳野天神を江戸城内に勧請して祀ったことが平河天満宮の始まりなんだそうです。
太田道灌はやはり川越城、江戸城の防衛ラインを考えていたんですね。