言志四録

言志四録

一灯を掲げて暗夜を行く 暗夜を憂うことなかれ ただ一灯を頼め

ご存知、言志四録の一節です。

角館の武家屋敷にいくつかの書籍が展示されていて論語や大学などと並んで言志四録がありました。言志四録は美濃国岩村藩出身の儒学者・佐藤一斎が後半生の四十余年にわたって書いた語録です。冒頭以外にもたくさんの言葉を残しリーダーのためのバイブルとして注目を集めました。現在でいうとドラッカーのようなものでしょうか。

言志録、言志後録、言志晩録、言志耋(てつ)録の四冊から構成されているため言志四録と呼ばれています。佐藤一斎の門下生には山田方谷、佐久間象山、渡辺崋山、横井小楠らがおり幕末に活躍した人物ばかり、”西郷どん”も生涯、この言志四録を愛読していました。今は言志四録を講談社学術文庫で読むことができます。

秋田蘭画(角館)

小田野家

小田野直武って角館出身だったんだあ!

武家屋敷なら角館より松坂城の御城番屋敷の方が風情あるなと思いながら、三千坪の敷地があるという青柳家に入ると邸内に小田野直武の銅像が!!小田野直武は秋田藩士なんで、てっきり秋田出身と思っていたら角館出身だったんですね。観光バスでは小田野直武や秋田蘭画の説明が一切なかったぞ(笑)。

小田野直武って、とっても変わった人で天才・平賀源内が東北地域で鉱山開発の山師のようなことをしていた時に出会い、遠近法、陰影法などの西洋絵画の技法を教えてもらいます。その後、江戸に出てさらに平賀源内に学び、日本画と西洋画を融合した独特の秋田蘭画を作り上げます。作り上げただけではなく単なる藩士が藩主にも手ほどきするという江戸時代には考えられないこととなり秋田蘭画を大成させることになります。

平賀源内の友達だったのが前野良沢や杉田玄白で、その縁で小田野直武は解体新書(ターヘル・アナトミア)の図版を担当しています。昔、日本史で習いましたね~え。

秋田蘭画の名品は美術館にありますが、ここ角館にもいくつか展示されていました。そうか小田野直武って角館出身だったんだあ!と思い、角館を歩いていたら端の方に小田野家がありました。残念ながら火事で再建された建物だそうです。

角館に山城があったんだあ!

角館

東北旅行最終日は田沢湖から武家屋敷で有名な角館を巡るコースでした。

角館へ着く直前、観光バスの窓から見ると川が湾曲している山が見えます。川を堀にするには最適な山だなと思って、頂上を見ると削平地が見えて、どうみても郭跡。しかも2つの郭を確認できます。あとで角館の地図をもらったら古城山と書かれていました。

あらまあ、角館に山城があったんだあ!

調べると、もともと戸沢氏の居城で戸沢氏が関ケ原合戦の功で転封した後に佐竹氏の家臣である葦名盛重が入り城主となりました。元和6年(1620年)の一国一城令によって廃城となったようです。その後、麓に陣屋が構えられ、この陣屋を中心に武家屋敷を整備し、今の「みちのくの小京都」となります。“小京都”なんていうと井上章一さんに”京都にすっかり毒されていますな~あ”と、どやされそうです。

古城山は低い山なんで簡単に登れそうですが、さすがに武家屋敷巡りにつきあわず一人、山城登りをするわけにいきません。紅葉にそまった秋の角館を楽しんでおりました(泣)。

あさ開

十和田湖

秋田→青森→岩手という、あいかわずの強行軍。

お昼はなんか乙女の像とかいうものを見に行って、それよりも柱状節理が見事でした。十和田湖湖畔でお昼でしたので、次の場所へ行くまでの時間に仕事をしようとしたら、UQ-Wimaxがつながらない!見事に圏外でした。

午後は盛岡へ、それが盛岡城も志波城にも寄らず、すぐ横をバスは素通りしてしまいます。向かったは「あさ開」という造り酒屋さんで、個人的にはそれでもいいのですが(笑)。造りを見学でき、見事にコンピュータ制御していました。とりあえず新酒をゲットしてきました。

東北へ

松島

なぜか東北へ

奥さんが阪急交通社の「はじめての東北何やら」というツアーを申し込んでいて、付き添いできております。どこへ行くのかいまいち把握をしておらず、とりあえず仙台空港に着いて観光バスで松島と中尊寺へ。

中尊寺って月見坂からひたすら登るものだと思っていたら、観光バスは金色堂の坂の下あたりまで行って降ろし、あとは200メートルほどなだらかな坂を登るだけでいいんですね。こりゃ楽だ~あ!

中尊寺の後、2時間ほど走って宿へ向かいますという案内があり東北自動車道をひたすら北へ。盛岡を過ぎてさらに北上して秋田へ。これって大館へ仕事で行った時とまったく同じルート(盛岡からJRがないので大館まで高速バスが便利)じゃないか~あ!と思っていたら鹿角市にある湯瀬温泉に到着。大館へ行く途中に「いいな~あ、あんな温泉でのんびり泊まりたいな~あ」と高速バスの車窓から見ていた温泉でした(笑)。今日は十和田まで行くそうで、なかなかの弾丸ツアーです。

白山社山王社

白山社山王社
奥州藤原氏時代の平泉復元図を見ると壮麗な毛越寺などが描かれているのですが、気になるのが伽羅御所、無量光院の近くにある池に浮かんだ小島の社。周囲を池が囲み、一本の土橋が延びています。ところが、あまり皆さん、気にならないのか平泉の史跡マップなどには掲載されていません。
■平泉の鎮守社だった
調べると白山社山王社という社で、せっかく平泉へ行ったので探して行ってきました。平泉駅から伽羅御所の方へ向かいますが線路を渡らずに線路沿いを行くと住宅地の近くに細い路地があり、白山妙理権現への道と小さく書いてありました。進むと湿地帯みたいなところへ出て、ここがかっての「鈴沢の池」跡。畑をしている人に聞いたら、まっすぐ行くと社へ出られるということで向かうと、今は白山妙理権現という社になっていました。
藤原秀衡の時代から明治はじめまでは白山社山王社で、平泉の鎮守社の一つだったそうです。1570年頃ですので姉川の戦いの頃に消失し、現在の社殿は1763年に建立されたものです。本居宣長が伊勢へ行く途中の賀茂真淵と出会い、古事記研究にすすむことになった松阪の一夜の年ですねえ。

源頼義が戦勝祈願した中尊寺・八幡堂

八幡堂
陸奥守に任じられた源頼義は奥州を目指します。
衣川柵の手前、月見坂(平泉)の脇に八幡堂がありました。月見坂は中尊寺の本堂へ至る上り坂になっていて、八幡宮は月見坂のすぐ脇にありますが、皆さん素通りするところになっていて誰もお参りしている人はいません(笑)。
現在のような中尊寺の伽藍が整備されたのは藤原清衡の時代ですが、当時すでに中尊寺は開山し、いくつかのお堂があり、その一つが八幡堂でした。
■八幡宮で戦勝祈願
源頼義は、進軍中に戦勝祈願をあちこちで行っています。陸奥国守に任命される前、源頼義は相模国守でしたので、奥州へ出かける前に相模国にある鎌倉の鶴岡若宮(鶴岡八幡宮の前身)に戦勝祈願をしています。また杉並区の大宮八幡宮もこの時の進軍がゆかりでできた八幡宮です。八幡といえば武運の神様なんで、戦勝祈願には最適でしょう。
織田信長も桶狭間へ向かう途中、榎白山神社、日置神社、熱田神宮で戦勝祈願をしていました。尾張にも若宮八幡社などがあるんですが通り道じゃなかったんですかねえ。
■安倍首相は安倍氏の末裔
月見坂の八幡堂ですが、中尊寺を超えれば、すぐに衣川柵での戦いが待っていますから、源頼義は、かなり熱心に安倍氏追討を祈願したことでしょう。前九年の役で滅ぼされた安倍氏ですが、末裔が安倍晋三(内閣総理大臣)となります。と本人が講演で言っています。