佐和山城

物生山城から尾根道をひたすら歩いて佐和山城へ。いくつもの尾根を越えるのでけっこうアップダウンがあります。

佐和山城
佐和山城

佐和山城は北国街道と東山道(中山道)が交差するところで昔から交通の要所でした。琵琶湖を使った水運の拠点でもあります。鎌倉時代は近江守護の佐々木氏が佐和山に砦を築き、六角氏が引継ぎ、やがて六角氏と敵対した浅井氏の城となります。浅井方の磯野員吉が城主となっていた時に織田信長が物生山城などの付城を造って戦い開城させました。織田方の丹羽長秀が新たな城主となります。本能寺の変の後は堀秀政、堀尾吉晴が入り、最後は石田三成の城となります。三成は大改修を行い「三成に過ぎたるものが二つあり 島の左近と佐和山の城」と言われることになります。

関ケ原の合戦後は井伊直政が入りましたが、新たに彦根城を造って、そちらに移りました。佐和山城は廃城となり郭跡や石垣に一部だけが残っています。主郭から前回、行けなかった法華丸に出て、彦根の街に降りてきました。

物生山城

大洞弁財天の一番奥にあるのが奥之院(宇賀神社)で、この裏手から佐和山城へのハイキングコースになっています。ハイキングコースを大洞山まで登ると佐和山城への案内版が出ています。この方向と反対方向に向かい尾根道をひたすら歩いていくと物生山があります。ここにあるのが物生山(むしやま)城です。

物生山への尾根道
物生山への尾根道

織田信長が裏切られた浅井長政を攻めていた時、佐和山城には浅井方の磯野員昌が城主として入っていました。織田信長は佐和山城を攻めるために東西南北に4つの付城を造ります。北に作られた付城が物生山城です。1571年(元亀2年)2月に磯野員昌は降伏し、開城。佐和山城には丹羽長秀が入ります。

物生山城が見つかったのが割と最近で、昭和61年(1986)に行われた滋賀県中世城郭分布調査で北の付城と判明します。城の虎口は土橋になっており、郭が構成されていましたが、それよりもすごいのは佐和山城と物生山城のちょうど間ぐらいにある大きな堀切です。織田方、磯野方のいずれが造ったのか分かりませんが、なかなか見事です。

大洞弁財天(彦根)

大洞弁財天(彦根)
大洞弁財天(彦根)

写真じゃ分かりませんが山門の先に彦根城の天守閣がちょうど真ん中に見え、山門の扉が額縁のようになっています。彦根城の鬼門の方角に作られたのが大洞弁財天で大洞山の中腹にあります。日光東照宮を改修する時に総奉行だったのが第4代藩主・井伊直興が、厄除けとして建立しました。

山の中腹にあるので、ひたすら階段を登らないといけませんが上まで登ると琵琶湖などが一望できます。

大和赤部城

馬見丘陵公園の南側にあるのが大和赤部城。現在は菅原神社になっています。まあまあの高台で見晴らしがいいですね。大和の国人に箸尾氏がいて近鉄・田原本線に箸尾駅があり、そこに箸尾城がありましたが、この一族の城だったようです。堀跡の一部が残っています。

大和赤部城
大和赤部城

箸尾氏は同じ国人だった筒井氏と戦っていましたが、後に和睦します。ただ、大和入りした松永久秀につくなど、つかず離れずの状況だったようです。筒井順慶が大和守護になると従いますが伊賀に国替えとなった時、新しく大和に入った豊臣秀長に従います。最後の当主が箸尾為春で関ケ原の合戦では西軍に属し、大坂の陣では筒井氏の旧臣を糾合して、大坂方につきます。大坂夏の陣で討ち死にしたと伝わっています。

三木鉄道 廃線跡

法界寺を降りて加古川三田線の道路へ出ると、すぐ隣に「別所ゆめ街道」という遊歩道があります。これって三木鉄道の廃線跡です。厄神駅(加古川線)と三木駅を結ぶ路線で、もともとは国鉄の路線だったんですね。第三セクターで存続していましたが、三木市から神戸市内へ向かう人は神戸電鉄粟生線を使うので乗客の減少が続いて2008年に廃線となりました。

三木鉄道 廃線跡
三木鉄道 廃線跡

三木市から加古川へ向かう時はショートカットになりますが、神戸のベッドタウンなので難しかったのでしょうね。もともとは三木駅から川を渡ったところにある別所駅が始発駅でした。ここに公園が作られて西這田駅跡まで「別所ゆめ街道」という遊歩道ができ、駅跡には碑などがあって楽しめます。

別所長治の墓

法界寺裏山に法界寺山ノ上付城があります。麓の三木城を攻める付城でしたが、麓の法界寺には三木城城主・別所長治の墓所があります。

別所長治の墓
別所長治の墓

別所長治は長篠の戦が行われた天正3年(1575年)には信長に謁見して、天正5年の紀州征伐にも兵を出しています。信長との関係がよかったのですが、天正5年10月に秀吉が播磨平定で送り込まれてくると、最初は協力していましたが、天正6年(1578年)2月に離反して三木城に立て籠ります。離反した理由はよく分かっておらず、秀吉の上目線に嫌気がさした、毛利氏経由で足利義昭から工作を受けたなど、いろいろと説がありますが別所氏以外の播磨衆が反信長だったので連携したのでしょう。

織田軍は三木城の周りに付城と城間をつなぐ土塁を築き上げ、兵糧攻めを行います。「三木の干殺し」と呼ばれ、三木城は2年間、持ちこたえましたが最後は城を受け渡し、別所長治は自害します。享年は23歳と26歳説があり、いずれにしても若武者でした。

法界寺山ノ上付城

這田村法界寺山ノ上付城法界寺の背後の山上にある付城です。天正7年(1579)4月に織田信忠が築いた6箇所の付城の1つで三木城を見通すことができます。城主は、羽柴秀吉の重臣・宮部継潤と伝わっています。

法界寺山ノ上付城
法界寺山ノ上付城

■宮部継潤
宮部継潤の出身は近江・国友近くの宮部です。秀吉の中国攻めでは山陽を秀長が山陰を宮部継潤が指揮していました。やがて鳥取城主となり、秀吉が山崎の戦い、賤ヶ岳の戦いと東に転進するなか西を守ります。秀吉の信頼が厚かったんですね。晩年は秀吉の御伽衆になります。

這田村法界寺山ノ上付城は大規模な付城で主郭、副郭と兵の駐屯地である段状の平坦地群が残っています。毛利方が明石から三木城へ兵糧を搬入するのを防ぐための最前線でした。また6条からなる土塁(朝日ヶ丘土塁)が残っていて、なかなか見ごたえがあります。

高木大塚城

ホースランドパークを北上すると高台に作られた朝日ヶ丘団地に出ます。この団地の一角に高木大塚城があります。ここも天正7年(1579)に織田信忠が築いた6箇所の付城の1つです。この辺りは高台で見晴らしもよかったため高木古墳群がありました。城の真ん中にある高木1号墳を櫓台にしています。周りにだいぶ低くなっていますが土塁が巡っています。

高木大塚城
高木大塚城

高木大塚城は団地の中にありながら、保存状態がよく、土塁や虎口がいまも残っています。城からは高木大山付城に向かって2本の土塁が伸びており、一部が残っています。三木城をぐるっと土塁で囲み、籠城攻めをしていたことがよく分かります。

茶臼山 丸馬出し

天王寺へ行ったついでに天王寺公園内にある茶臼山へ。大坂冬の陣では徳川家康の本陣となり、翌年の大坂夏の陣では真田信繁の本陣となりました。目的は馬出しを見に行くためです。馬出しとは城の出入り口である虎口を守る小さな曲輪で堀などで守りながら横から出撃できるようになっています。

茶臼山 丸馬出し
茶臼山 丸馬出し

■茶臼山 丸馬出し
2014年、松江歴史館で保存されている「極秘諸国城図」に真田丸などの縄張り図などが含まれていることが分かり大きなニュースになりました。他にも大坂夏の陣における天王寺・岡山の戦いの舞台である茶臼山などの縄張り図がありました。真田信繁が守る茶臼山には西側に丸馬出しが築かれ、毛利勝永が守る岡山には東側に丸馬出しが築かれ、茶臼山と岡山の間には和気清麻呂が掘った古代の運河跡がありましたが、これをさらに掘って堀にしました。

写真が現在も残る丸馬出し跡です。完全に公園になっていてベンチなどでくつろいでいる人が多いのですが、ちゃんと丸馬出しの形になっています。ちなみに現地へ行ってもどこにも説明はありませんので

石山合戦の堀跡

信長方の天王寺砦から石山本願寺まで上町台地がそのままつながっています。石山本願寺にとっては防衛上、とってもまずいので、どっかに堀などをあったはずです。天王寺砦から北に向かうと「いくたまさん(生國魂神社)」があります。もともとは石山本願寺のすぐ近くにあったのですが、秀吉が大坂城を造る時に現在地に移されました。この生國魂神社の北側に千日前通りが通っているのですが少し下がっています。近くに大坂七坂の一つである真言坂があり、千日前通りから生國魂神社があがる坂なんですが、現在はスロープのようになっています。

千日前通り
千日前通り

江戸時代の名所案内などを見ると、急な石段だったので千日前通りは、けっこうな窪地だったようです。これが石山合戦で使われていた堀跡なんですかねえ。ちょうど谷九のあたりです。さらに北側の谷六まで上がると空堀商店街や真田丸で有名な大坂城の外堀があり、反対に南側の天王寺には和気清麻呂が掘った運河跡が残っています。