大安寺

南都七大寺、御存じですよね。東大寺・興福寺・元興寺・大安寺・薬師寺・西大寺・法隆寺の七寺です。

大安寺
大安寺

■引越ばかりの大安寺
大安寺はとっても古い寺で創建は聖徳太子です。仏教修行の道場として平群郡額田部に作られた後、最初の遣唐使を送った舒明天皇の時代に百済川の畔に移転して百済大寺となりました。これが発掘で見つかった吉備池廃寺と言われています。この後に高市郡にまた移転して高市大寺となりましたが場所は分かっていません。はたまた674年に飛鳥に移転して大官大寺となります。九重塔が建つ大伽藍でした。

710年、藤原京から平城京への遷都にあわせて、またまた移転して大安寺になります。よく引越をする寺ですが、ようやくこの地に落ち着きました。大安寺は大きな伽藍で南には七重の東塔と西塔がそびえていました。戦乱などで衰微し今は最盛期の約1/25の境内になっています。

■普照
大安寺は総合大学のようなものでしたので、たくさんの僧が学んでいました。その一人が普照(ふしょう)です。聖武天皇の命で授戒できる高僧を求め興福寺の栄叡(ようえい)と共に唐へ渡ります。栄叡は唐で亡くなってしまいましたが、普照は鑑真和上を無事に日本へ連れてくることができました。苦労話が、井上靖の「天平の甍」に描かれています。

クラウド会計導入の秘訣

大阪府よろず支援拠点のミニよろず塾「クラウド会計導入の秘訣」というタイトルでセミナーをしてきました。内容は半分がインボイス制度の話で、インボイスやペポル(電子インボイス)がはじまるのにあわせクラウド会計の検討をするとよいですよという内容。


セミナーはZoomによる配信で収録会場はマイドーム大阪の会議室(7階)でした。久しぶりにマイドーム大阪へ行くと1階~3階は全てワクチン接種会場として使われていました。

辰市城

辰市城
辰市城

西市や辰市神社などを巡り、最終目的地がココ、奈良市立辰市幼稚園です!!

今は幼稚園ですが、ここが大和最大の合戦である辰市城合戦の舞台となった所です。城跡は何も残っていませんが、この幼稚園のあたりに主郭がありました。

■辰市城合戦
辰市城合戦は筒井順慶と松永久秀が激突し筒井側の勝利となりました。大河ドラマ「麒麟がくる」でも反目しあっていましたね。大和には守護がおらず、筒井、箸尾、十市、越智などの国人が同盟したり反目したり勢力争いしていたところに割り込んできたのが松永久秀です。

武田信玄が家康を破ったこともあり松永久秀は信玄と組んで織田信長に謀反を起こします。筒井順慶は居城だった筒井城を松永久秀に奪われており劣勢で、松永久秀はこれを機に筒井を攻めようと平城だった辰市城を襲撃します。松永軍は優勢でしたが大和の国人が筒井方に味方して辰市城に援軍がかけつけ松永軍は劣勢となり撤退します。

筒井順慶は筒井城を奪回し、頼みの綱だった信玄が病没してしまったことから松永久秀は多聞山城を明け渡すことを条件に再度、織田信長に仕えることになります。

辰市神社

辰市神社のあたりに平城京の東市がありました。神社の少し東側に物資を運ぶための東堀川が流れていましたが、今は水田などになり影も形もありません。

辰市神社
辰市神社

辰市神社の祭神は武甕槌命(たけみかづち)、経津主命(ふつぬし)で、それぞれ鹿島神宮と香取神宮の神さんです。春日大社を造る時に関東から神様を勧請しますが、この時に神さんは白鹿に乗ってきました。ですので奈良の鹿は神鹿として大切に保護されています。

春日大社といえば藤原氏(中臣氏)の神さんですが、侍従の中臣氏が住居を神託によって占ったところ神木が西北の地に落ちたので、辰市周辺に住居をかまえ、祭ったのが今の辰市神社になるそうです。辰市神社の場所は奈良市杏町(からももちょう)で杏(あんず)は昔、「からもも(唐桃)」と呼ばれていました。もっとも「あんず」は宋の言葉のようです。

コーボックスへ

マンションが大規模修繕工事をしていることもあり、天満橋にあるコーボックスへ避難。

コーボックス
コーボックス

コーボックスから大学のオンライン講義をしておりました。コーボックスというのは全国でも珍しいファブラボの一つで、コワーキングスペース&ものづくりスペースになっています。3Dプリンター、レーザーカッター、UVプリンターなどが時間チャージで使えますので一人メーカーなどが活用しています。時たま知的生産の技術研究会・関西のセミナー会場としてもお借りしています。

久しぶりにコーボックスに行ったら3Dプリンターが4台に増え、スタジオセットが新たに増えていました。実はコーボックスのオーナーがパソコン通信時代からの知り合いで、当時はまだ20代と若かったですね。人のことは言えませんが(笑)。

そうそうコーボックスを根城にしている松本さんにもお会いしました。いろいろと発明されている方で最新作は「あしゆび洗浄専用タオル」です。なるほどお腹が出てくると足の指を洗うのは至難の業ですから目の付け所がいいですねえ。

富本銭

西市近くの九条公園で1969年(昭和44年)に出土したのが富本銭です。その後も5枚ほど出土しましたが、決定的になったのが飛鳥池工房遺跡での発掘で、飛鳥で富本銭が鋳造していたことが分かりました。

富本銭
富本銭

それ以前は表面に文様がない無文銀銭が使われていましたが天武天皇が貨幣経済を目指すために銀銭ではなく銅銭を使うよう683年に詔が出します。そこで、和同開珎など皇朝十二銭と呼ばれる12種類の貨幣を鋳造されましたが、新しい貨幣が発行するたびに政権はデノミ政策を実施します。せっかくお金を貯めても価値が1/10になるので貨幣の信用がなくなり、やがて貨幣そのものが造られなくなります。

■キャッシュフローをまわしていたのは渡来銭
そこで中国から銭が輸入されます。推し進めたのが平清盛で宋で作られた銭の1割ほどが日本に入ってきたようです。江戸時代に慶長通宝や寛永通宝が国内でできるまでの400年間は宋銭のような渡来銭でキャッシュフローが回ります。

貨幣経済に着目していたのが織田信長で旗印は永楽通宝(永楽帝の時代に造られた銭)。戦後時代の武将は金勘定が分かっていないと戦ができませんでしたが江戸時代となり朱子学などの影響で「武士は食わねど高楊枝」となります。「晴天を衝け」で金勘定がわかる渋沢栄一が活躍するはずです。幕府にも人物がいて勘定奉行である小栗忠順が積極通商を推し進め明治の礎となった横須賀造船所を造ります。小栗忠順はあまりにもキレる人物だったため逼塞していたのに新政府軍が殺してしまいます。

西市船着場

江戸の城下町造りのために掘られた小名木川、江戸時代に付け替えられた大和川など人の手にかかって整備された川は直線的になります。平城京造営にあわせて掘られたのが西堀川で現在の秋篠川になります。

西市船着場
西市船着場

物資を運ぶには船が最適でしたので平城京や薬師寺などの造営や西市に物資を運ぶ水路として使われました。西市船着場から物資を荷揚げして西市に運んでいました。薬師寺の塔や三笠山も見え風光明媚です。

豊臣秀吉の家臣だった増田長盛(五奉行の一人)が大和郡山城を整備することになり、秋篠川の流路やため池などを外堀に使うため秋篠川の流れを奈良口で東に90度曲げて佐保川につなげました。奈良口は九条公園の所で地図で見ると見事に曲がっています。

古代の西堀川(秋篠川)沿いには京奈和自転車道が走っており、2021年4月に京都嵐山~奈良~和歌山港まで180kmがつながりました。

ワクチン接種日は禁酒

東大阪市の集団接種会場の一つが大阪商業大学。お昼に1回目のワクチンを受けてきました。

大阪商業大学
大阪商業大学

懐かしいですね。中小企業診断士試験会場といえば大阪商業大学が定番でしたので、夏になると河内小阪駅で降りてよく通ったものです。つまりそれだけ通らなかったということです(笑)。試験が終わったら受験生仲間と河内小阪駅で待ち合わせて打ち上げするのが定番でした。

大阪商業大学のワクチン接種はTKPが運営しているようでスムーズに案内していました。それはよいのですが接種日は禁酒なんですねえ。テレビで副作用などは散々、報道しているくせに禁酒の話なんて初めて知りました。接種が終わった後、「今日は飲めないんですよね」と聞いたら「飲めません」とキッパリ。そんな大切な情報はもっと事前に報道してよ!

平城京 西市

710年、藤原京から平城京に都が移されます。都には政府直営の東市と西市が作られます。

西市
西市

平安京では米、麦、油、塩、海藻、魚といった食料品。他にも繊維製品、衣類、食器、文房具、薬なども売られていました。太刀や弓などの武器も売られていて平城京でも同様だったのでしょう。

■長屋王商店ではホカ弁を売っていた
藤原四兄弟の陰謀で自刃させられた長屋王も市に店を出していて、弁当と酒を出品していたようです。お米がたくさんあったので付加価値があがるように邸宅内で酒や飯に加工していました。お米は笥に入れて売っていたようで、今でいうホカ弁ですね。荷物が多いと運搬もしていたようです。

練兵場跡

大阪府よろず支援拠点からの帰り道、運動不足を解消するため大阪城の外堀を見ながら森ノ宮駅まで歩いています。

大河ドラマ「青天を衝け」では大政奉還が行われ、いよいよ鳥羽伏見の戦いに突入します。徳川軍の総司令部があったのが大阪城ですが、敗戦後、徳川慶喜は大阪城を抜け出し江戸へと向かいます。朝敵として天皇と戦うのを避けたなど、いろいろな説がありますが尊皇という点では松平容保と徳川慶喜が一番、真摯に取り組んでいたでしょう。玉(天皇)を握ればよいと割り切っていた薩長とは大いに違っていました。

大阪城の南外堀あたりに慶喜は練兵場を作りフランス式の訓練で兵を鍛えていました。「晴天を衝け」では渋沢喜作(高良健吾)が訓練しているシーンが出てきます。明治時代に陸軍が接収し射撃訓練などに使っていたため城南射撃場跡の碑が残っています。

幕府が訓練のために招へいしたフランスの軍事顧問団ですが、戊辰戦争に巻き込まれ騎士道精神なのか一部は脱走して榎本武揚や土方歳三と共に五稜郭の戦いまで戦っていました。その一人がブリュネ大尉で「ラストサムライ」(トム・クルーズ主演)のモデルとなります。