元正天皇陵

奈良ドリームランド跡地近くにあるのが元正天皇陵。

元正天皇陵
元正天皇陵

氷高皇女 (ひだかのひめみこ)が女帝で母親である元明天皇に続いて即位し、元正天皇となりました。2代、女帝が続くことになります。氷高皇女のお父さんは草壁皇子(天武天皇と持統天皇の子供)で皇位を継ぐ予定でしたが27歳で亡くなってしまいます。後を継いだのが草壁王子の長男である文武天皇ですが、これまた25歳で亡くなってしまいました。孫の首皇子(聖武天皇)が小さかったため草壁王子の妃だった元明天皇が即位します。

氷高皇女は元明天皇より譲位され天皇に即位します。長屋王の義姉にあたり長屋王と協力しながら政治を行い三世一身法などを制定します。藤原氏が力を持ち始めた時期で、「美貌の女帝」(永井路子)など小説などで、よく取り上げられています。養老律令や日本書紀ができたのも元正天皇の時代です。陵は母親の陵のすぐ隣に造られました。

奈良ドリームランド跡地

大仏鉄道にとって難所だったのが黒髪山越え。当時はトンネルでしたが今は切通しになっています。

奈良ドリームランド跡地
奈良ドリームランド跡地

久しぶりに通ったら奈良ドリームランド跡地にロートスタジアム奈良ができていました。時たま奈良ドリームランドに子供を連れて行っていました。最初はディズニーランドに協力してもらいながら造ったこともあり、園の真ん中にお城があり、外周を列車が巡り、ジャングルクルーズなどディズニーそっくり。ディズニーといろいろと交渉しましたがフランチャイズの話などはご破算になります。ウォルト・ディズニーは奈良ドリームランドの写真を見て激怒したと伝わっています。

オリエンタルランドが東京ディズニーランドを作る時に、この奈良ドリームランド問題が最初の難関になりました。奈良ドリームランドが最終的な親会社がダイエーということもあり20年ほど前に閉園します。

もっとも奈良ドリームランドよりも、あやめ池遊園地によく行っておりましたが、こちらも2004年に閉園になりました。奈良の知り合いの家が、あやめ池遊園地内の土産物店だったそうで、子どもの頃、遠足になると学校に集合して、あやめ池遊園地に行くので全然、楽しくなかったという話をしていました。

大仏鉄道2

2004年、知的生産の技術研究会・関西で大仏鉄道研究会に「なぜ大仏鉄道は消えたか?」というタイトルでセミナーをしてもらって以来、気になっていたので出かけてきました。加茂駅から大仏駅までを踏破するコースを歩いてきました。加茂駅から赤橋あたりまでは廃線跡が小道で残っていたり、レンガ造りの橋梁が残っていたり牧歌的な雰囲気です。ところが奈良に近づくと道路沿いを廃線跡をたどることになります。

大仏鉄道
大仏鉄道

大仏鉄道は山と谷が入り込んだコースで、奈良の手間に黒髪山越えという急勾配があり、当時の蒸気機関車には最大の難所でした。黒髪山から降りた所に大仏駅があったため、蒸気機関車にブレーキをかけて駅に止めるのが大変だったそうです。当時、真っ赤な蒸気機関車が走っていたそうで、大仏鉄道研究会でも探しているのですが、まだ写真が見つかっていません。

駅前に人力車がとまっていた大仏駅跡は大仏鉄道記念公園になっています。ここから佐保川を超えて奈良駅まで接続されました。

大仏鉄道

大仏鉄道って、ご存じですか?

大仏鉄道
大仏鉄道

100年以上前の明治時代の9年間、加茂駅から大仏駅まで、後に延伸して奈良駅まで走っていた路線です。目的は名古屋方面から奈良の大仏への観光客の誘致を図るためで大成功をおさめます。大仏鉄道が開通した朝日新聞のトップ記事は遼東半島の三国干渉という時代です。

この頃の西日本は私鉄が競争していた時代で、大仏鉄道の親会社である関西鉄道も奈良まで接続を目標にしましたが、大阪の湊町から奈良まで接続していた大阪鉄道との競争で奈良まで入れず、現在の奈良育英高校近くに大仏駅を作りました。一条通りから東大寺までは歩いて20分ほどです。大仏鉄道は現在の新幹線や近鉄と同じ広軌で作られていました。

大仏鉄道ですが急勾配の山を越える路線でコストがかかること、また平行して走る奈良鉄道(今のJR奈良線)の買収に成功したこともあり、わずか9年で廃線となってしまいました。時代は日清、日露戦争の頃で兵員や物資輸送に私鉄を乗り継いででは問題があるため鉄道国有化施策がスタートする、そんな時代でもありました。

伊丹探訪

ファイティング・コンサルタンツという中小企業診断士の集まり。発足から20年が経過したため当初の目的はなんのその、高齢化とともに歴史探訪&飲み会グループへと変貌しています。そのくせ飯森山城へ登れば、「しんどい!」など非難ごうごうで、山の辺の道は目的の1/3程度歩いたところでリタイアでした。

ファイティング・コンサルタンツ
ファイティング・コンサルタンツ

今回は伊丹探訪ということでJR伊丹駅に14時集合。駅すぐそばに有岡城の本丸跡を見学。荒木村重が織田信長に反旗をひるがえし有岡城の戦いが行われたところです。仲介に動いた黒田官兵衛が1年ちかく幽閉されました。次に岸の砦跡(猪名野神社)と総構えを見学という超お手軽コースです。わずか30分で終了ですので、これなら文句ないでしょう。

ということで16時前から老松酒造で一杯やってから長寿蔵へ、ここは白雪の酒蔵跡をレストランに改造したところで飲んでおりました。伊丹は清酒発祥の地で、山中鹿之助の子孫が伊丹で酒造りをはじめ濁り酒から清酒へのイノベーションが行いました。ここから江戸にお酒が送られ「下りもの」と珍重されました。やがて江戸でも酒造りを行い、これが「下らない」の語源になっています。

C57

JR加茂駅の近くに保存展示されていたのがC57。懐かしいですね。Cなので動輪が3つあります。ちなみにD51はDなので動輪が4つになります。中学校への通学でディーゼル機関車が引っ張る客車に乗っていましたが、時たま蒸気機関車の時があり迫力がありました。

C57
C57

紀勢本線は単線なので駅と駅の間は閉塞区間になります。閉塞区間に入る時は必ず通票がはいった輪っか(タブレット)が必要でした。急行や特急が駅を通過する時はホーム入口あたりで、そこまでの閉塞区間の輪っかを立っている棒にひっかけて、ホームの端あたりで駅員が高く、次の閉塞区間の輪っかをあげ、車掌が通り過ぎながら腕で掴む職人技を見ることができました。今は信号にすべて変わってしまいましたね。

蒸気機関車では機関助士がこの輪っかを渡したり受け取ったりしていて迫力ありました。

紫香楽宮跡駅

紫香楽宮の最寄り駅は信楽高原鉄道の紫香楽宮跡駅。JR草津駅の貴生川駅から二両編成の列車に乗り込みます。車内はほぼ満員ですが、紫香楽宮跡駅で降りたのは私一人だけ。ローカル線アルアルで一番前のドアしか開かないので前の方にはいたのですが、さすがに誰も降りないのには驚きました。

紫香楽宮跡駅
紫香楽宮跡駅

紫香楽宮や甲賀寺巡りをする人はいないようで、巡ってみても車で来ている人もいませんでした。そんなに信楽のタヌキがいいんですかねえ。帰り紫香楽宮跡駅から乗り込んだのも私一人だけ。車内は信楽観光した乗客で満員でした。

紫香楽宮

何もない農地なんですが、ここが紫香楽宮の中枢施設となる宮殿や長さ100mを超える朝堂などがあったところです。

紫香楽宮
紫香楽宮

聖武天皇が天平12(740)年に恭仁京を作り始めた時、離宮として紫香楽宮の造営をすすめます。2つも宮を造るとなると国家財政がもたないので、難波京を都にすると宣言。ところが紫香楽宮の建設はすすめられていて甲賀寺で大仏造顕の詔を出して大仏を作りはじめます。結局は情勢が悪くなり平城京へ戻ります。なんで、そんなに遷都したのか昔からようわかっていません。

わずか数年で遷都されたため長く幻の都となっていました。どこに宮があったのか諸説ありましたが2000年に宮町遺跡で朝堂西脇殿を発見されました。

紫香楽宮 朱雀大路

甲賀寺跡は高台にあり北に向かって下っていくと新宮神社遺跡があります。発掘調査が行われ幅12mの道路や掘立柱建物跡が確認されました。これが紫香楽宮の朱雀大路になります。調査場所は高速道路の下に眠っていますが、山には切通しを作って大路を通していました。

朱雀大路
朱雀大路

聖武天皇は平城京から北側にある恭仁宮へ移りますが、北、東、西の三方が山に囲まれ南は木津川が流れる要害の地です。とは言いながら大路も基本的に平らです。恭仁京からさらに奥深い紫香楽宮へ移りますが、紫香楽宮は標高が高く北、東、西の三方は完全に山で遮断されて南しか入口がありません。狭い範囲に宮を造ることになったので朱雀大路も山を切り通す必要がありました。昔から大いなる謎になっていますが、なんで聖武天皇は紫香楽宮を造ったんですかね。

甲賀寺

河内にある智識寺(有力氏族ではなく民衆が持ち寄って建てた寺)にあった盧舎那仏に感激した聖武天皇は大仏建設に邁進します。作り始めた場所は紫香楽宮にあった甲賀寺で
す。ところが周辺で地震や山火事などが頻発し(反対運動?)たため平城京に戻って現在の東大寺の場所で大仏を作ります。

甲賀寺
甲賀寺

甲賀寺は紫香楽宮が廃都になった時に、近江国分寺になったようで近江国分寺は塔や金堂などが並ぶ伽藍でした。甲賀寺の建造物が流用されたと思われますが、その割に金堂の大きさが大仏が入るような大きさではなく甲賀寺が本当にこの場所なのか、今も分かっていません。