隠岐支城Ⅱ

隠岐支城Ⅱ

甲賀の隠岐城塞群もいよいよ最後です。隠岐支城Ⅱは隠岐支城Ⅰの目の前の丘上にあり、砂坂城の東側にあります。隠岐支城という名前がついていますが本当に隠岐氏の郎党の城かどうかは分かっていません。ただ隣接した形で密集していますから同族なのでしょう。隠岐城塞群は隠岐城、隠岐支城Ⅰ、隠岐支城Ⅱ、隠岐支城Ⅲ、隠岐支城Ⅳ、砂坂城、打越城からなっています。あとで調べるとすぐ近くに大佐治北城、神保城がありましたが、こちらは行けていません。

■隠岐支城Ⅱ
城の北側から切岸(早い話が崖)をよじ登っていきます。郭まで到達すると郭と郭の間には見事な堀切になっていました。ようやく主郭まで登ると、なんと畑になっていました。後で南側にまわると分かったのですが城跡には小道が整備され住宅がいくつか建っていました。なんだ、苦労せずに城に到達できたんだあ。

隠岐支城Ⅰ

隠岐支城Ⅱ

砂坂城の東側に隣接してあるのが隠岐支城Ⅰです。砂坂城を降りて東側にある丘を登っていくと、切岸がありました。直登して郭に入れましたが竹藪で全体は見通せません。いったん降りて山道を進んでいくと農道があり、ここから郭に簡単に登れました。郭に入って進んでいくろ土塁があり、先ほど登った郭の段が見えました。

打越城

打越城

打越城は隠岐城館群の一つです。隠岐支城Ⅲの近くにある農道を進み、高台に登っていくと香蓮寺があります。このお寺の背後に打越城があります。城の北側を佐治川が流れ、尾根状の地形となった段丘上に城はあります。適当に竹藪が伐採されていて中は明瞭に見ることができます。郭の周りを土塁と空堀が巡っており、角の部分は90度にきれいに曲がっています。途中、二重堀になっているようなところもあり楽しめます。打越城からは隠岐城や隠岐城館群を見渡すことができます。

隠岐城

隠岐城

小高い丘の上に浄土宗・龍生山大岡寺があり、ここが隠岐城跡です。本堂へ続く階段の両側に土塁が残り、本堂の周りにも土塁がところどころ残っていました。本堂の一帯が郭になっていました。隠岐氏の本拠になります。

隠岐氏は甲賀五十三家の一つで、一説に鎌倉時代、出雲源氏の祖となる佐々木義清が一帯を支配し、佐々木義清が隠岐国を領していたので甲賀に隠岐という地名がつけられたようです。隠岐氏はこの佐々木氏の流れと言われていますが、よく分かっていません。ただ出雲・隠岐というと尼子ですが、同じ近江の尼子が本貫なので関係がありそうです。

佐々木義清は鎌倉幕府の御家人で、大庭景親の娘と結婚して相模国大庭に住んでいました。以前、藤沢に泊まった時に訪れた大庭城にいたんですねえ。父親が近江守護に任命されており、伊勢で発生した三日平氏の乱に佐々木義清が甲賀の軍勢を引き連れて攻めています。

隠岐支城Ⅲ

隠岐支城Ⅲ

隠岐支城Ⅲは案内も何もない山城なんで事前に調べると、春日神社の裏から登場するための山道があるという情報を発見。さっそく春日神社の階段を登って小さな祠にお参りし裏側に行っても特に道はありません。とりあえず頂上を目指して登りましたがGoogleマップで調べると城は隣のピークにあるようです。「しょうがない」と、もう一回麓に降りて、隣のピークを目指して登っていくと隠岐支城Ⅲにようやく到達。到達した郭は藪だらけで、ちょっと入ってみましたが早々に退散です。

郭の隣に一段と大きな郭があり、ここは一部が畑で使われているために十分に眺めることができます。ここが主郭だったようです。歩いていくと虎口のようなところがあり、ここを降りていくと池があり水源と確保したのかもしれませんが後世の溜池の可能性もあります。さらに降りていくと紅葉が美しい広場のようなところへ出て、ここから農道に出ることができました。ウーン、崖の直登などせずに楽に登れる道があったんだあ!まあ、訪れる人間は限られていますので、情報が少ないですから、基本的に行き当たりばったりですね。

砂坂城

砂坂城入口

隠岐字砂坂にあるお城で隠岐支城の一つです。砂坂城はローマ数字ではなく地名がつけられています。グランド南側の丘陵上が城跡になっています。事前に調べた情報によるとグラウンド横に小道があり、その近くに登城道があるということでしたが、探せども、どこにもありません。仕方ないのでグランド横の小道を少し進んで、崖にとりついて直登すると小さな山道を発見。この山道を登っていくと郭と郭の間のようなところに出ます。先の郭は藪だらけでさすがに断念。

手前の郭はまだそれほどでもないので進んでいくろ一段と高くなった土塁がありましたが、ただ郭に入って虎口などを探すには藪がひどすぎましたので、こちらも断念。帰りは小さな山道を下っていくと街路灯のすぐ横に出ました。ただ入口は植物に覆われていますので、こりゃ、気づくのは無理ですね。

隠岐支城Ⅳ

隠岐支城Ⅳ

甲賀に隠岐というところがあり山城が密集しています。中心が隠岐城で、支城が取り囲んでいて、近くにある和田城と同じような構造になっています。

まずは取り囲んでいる支城の一つ隠岐支城Ⅳへ。横を流れる川を堀代わりにしています。城域に入ったと思ったら小さな郭と土橋みたいなのがあり、城にしては小さすぎるなと思ったら、後の時代の改変のようでした。さらに空堀を超えて進んでいくと土塁に囲まれた郭跡がありました。この支城は大きな城ではなく主な郭も一つだけの、こじんまりとした城した。一番、外側にある支城なので出城のような扱いだったようです。

田屋氏館跡

田屋氏館跡

海津衆・田屋氏の山城が田屋城ですが、こちらは詰めの城で平時は平地に城を構えていました。1652年に田屋氏の館跡に長法寺が建立されたと寺伝にあるそうです。当時は土塁や堀が残っていたそうですが、今は何も残っていません。ただ、奥に土塁の一部が残っていると案内に書いてあったので、見てみましたが、まあ土塁といえるかどうか微妙です。

田屋氏は浅井氏と縁戚で、信長の浅井攻めでは浅井方についたため浅井家とともに没落したようです。秀吉と柴田勝家の賤ケ岳の戦いでは海津を丹羽長秀が抑えていました。田屋城の主郭がけっこう技巧的なのは丹羽長秀が改修した可能性があります。

■大坂の陣では田屋氏の娘が活躍
「どうする家康」で、大坂の陣をやっていますが、田屋氏の娘2人は茶々の侍女となり、長女(海津局)は大坂の陣では千姫とともに逃れ、後に江(秀忠の奥さんで茶々の妹)に仕えます。次女(饗庭局)は方広寺鐘銘事件の際には、大蔵卿局とともに家康のいる駿府へ赴いています。大坂夏の陣で茶々や秀頼とともに亡くなっています。

田屋城

田屋城

海津衆・田屋氏の山城です。田屋氏は浅井方でしたので小谷城落城とともに田屋城も廃城となった模様です。麓に案内札や説明版があり、山城には珍しく、よく整備されています。麓にある獣除けの塀を超えるとずっと山道が続いており、標高310mの頂上を目指して登っていきます。頂上まで登ると山城では珍しく眺望が開けていて湖北の琵琶湖が一望でき、竹生島も見られます。晴れていたら一望でしょうが、あいにく雨まじりの天気でした。

田屋城は同じ高さの土塁で囲まれた郭が5つあり、一段高くなっている奥の丸が主郭です。堀切も見事ですね。郭はチョコモナカのような形で連続しており、奈良の葛城にある佐味城跡を少しコンパクトな形になっていて、ちょっと珍しい形になっています。四日市にある保々西城にも似ています。奥の丸は虎口が内桝形状になっていて高い土塁で囲まれています。けっこう技巧的で浅井氏が滅んでから織田方が整備して、しばらく使っていたのかもしれません。

新保館跡

新保館跡

近江中庄駅を降りてマキノ駅の方へ歩いていくと途中に天満宮があり、ここが新保館跡。土塁でもないかと神社の周りを探しましたが遺構はありませんでした。

足利尊氏の側近が饗庭の地をもらって饗庭氏と名乗りました。一帯には新保氏、田屋氏が地侍として勢力をもっており、この三氏が海津衆と呼ばれています。マキノ町新保は平安時代に新しく荘園として切り開かれた土地で新保には「新しく開墾した土地」という意味があります。新保氏はこのマキノ町新保を本貫としたようです。このあたりは湖西線から琵琶湖にむかって田んぼが規則正しく並んでいます。

■光秀が海から攻撃

海津は琵琶湖の北にあり、ここで船から荷をあげて疋田経由で日本海と結んでいました。古代から物流の拠点になっていたこともあり、戦国時代は六角氏、京極氏、浅井氏が取り合い、最終的に海津衆は浅井氏の支配下になります。信長が浅井氏と対立した時、浅井氏の経済基盤を壊すために明智光秀に命じて船から焼き討ち攻撃をしています。