銅鐸博物館

銅鐸博物館
銅鐸博物館

野洲にある銅鐸博物館(野洲市歴史民俗博物館)に立ち寄ると、3月末まで設備工事ということで休館していました、永原城の資料が見たかったのに、残念。ここは出雲の加茂岩倉遺跡でたくさんの銅鐸が出る前に24個もの大量の銅鐸が出たことで有名です。そのうちの一つは日本一の大型銅鐸です。付近には大岩山古墳群があり、博物館内の宮山2号墳では石室に入ることができした。また銅鐸の時代を実物大で学習することができる公園があり、高床倉庫、竪穴住居などが復元されています。

野洲付近は古代史で有名な土地で、銅鐸博物館から少し行った野洲と栗東の間にあるのが伊勢遺跡です。摩訶不思議な遺跡で中心部に方形に配列された大型建物がならび、その周り(直径220m)に等間隔で円周上に建物が並びます。この建物が大使館のようなもので、各地域の首長は中央に集まって会議したのではないかと色々な説があります。この後に登場するのが人工都市・纏向遺跡になります。

彦根の辻番所

彦根城やキャッスルロードへ行く観光客は多いのですが、もうちょい足を延ばすと足軽組屋敷があります。彦根城を整備する時、外堀と芹川との間に足軽を住まわせ700戸という大規模になりました。今も当時の町割りが残っています。

辻番所
辻番所

町の大辻通りと中辻通りが交差する辻には辻番所を設置して、辻の監視を行っていました。当時の屋敷がそのまま残っていて、辻に若干張り出た、監視窓から交代で監視できます。時代がすすむと足軽屋敷がどんどん普通の住居へ変わっていきましたが、市民によるトラスト運動が起きて保存が決定し、彦根辻番所の会が結成されボランティアで維持・管理をしています。土日などは公開されて説明をしています。

多賀大社

城巡りのついでに多賀大社へ。拝殿前にはずらっと参拝客が並んでいたので、ショートカットして脇から参拝してきました。

多賀大社
多賀大社

多賀大社の祭神は伊邪那岐命と伊邪那美命で、日本創成の神様です。天照大神の親にあたりますから「お伊勢参らばお多賀へ参れ。お伊勢お多賀の子でござる」と歌われました。近江国の一宮は建部大社で、二宮・日吉神社と続き、多賀大社は三宮になります。 

このあたりは犬上御田鍬(いぬかみのみたすき)で有名な犬上氏の土地です。犬上御田鍬は推古天皇の時代、最後の遣隋使で最初の遣唐使になった人物として日本史で習いましたね。もともと多賀大社はこの犬上氏の氏神を祭っていたという説もあります。

甲賀忍者

近江といえば飛び出し人形「とび太くん」が有名ですが、同じ近江でも甲賀となると忍者になります。

とび太くん
とび太くん

甲賀と伊賀は山を隔てた近接地ですが知名度からいくと伊賀ですね。赤影は伊賀忍者だし、忍者ハットリくんも伊賀です。ただライバルであるケムマキは甲賀です。甲賀もまけてなく真田十勇士に登場する猿飛佐助は甲賀です。とはいっても、忍者と聞くと伊賀のイメージが強いですね。

同じ忍者の里ですが甲賀と伊賀には因縁があり、甲賀は六角氏とともに信長と戦っていましたが六角氏が没落すると信長の支配下になります。信長が伊賀をせん滅するために起こした天正伊賀の乱では、織田信長軍の進軍道の一つが甲賀になってしまいました。相争っていた時期もありました。

大沙川隧道

大沙川隧道
大沙川隧道

JR三雲駅から旧東海道を歩き三雲城跡に登る手前にあるのが吉永のマンポ(大沙川隧道)。アーチ状の石が特徴です。

大沙川が天井川になっていて、このあたりは天井川が多くあります。氾濫防止のために堤防をつくると川底に土砂がたまって、川の高さが上がるので堤防を付け足してとやっていると天井川になります。神戸など昔から栄えていた所に多いですね。奈良時代に石山寺などの造営で、このあたりの山の木々はほとんど切り倒され、はげ山となったことから砂の堆積が進んだ面もあります。

紫香楽宮

何もない農地なんですが、ここが紫香楽宮の中枢施設となる宮殿や長さ100mを超える朝堂などがあったところです。

紫香楽宮
紫香楽宮

聖武天皇が天平12(740)年に恭仁京を作り始めた時、離宮として紫香楽宮の造営をすすめます。2つも宮を造るとなると国家財政がもたないので、難波京を都にすると宣言。ところが紫香楽宮の建設はすすめられていて甲賀寺で大仏造顕の詔を出して大仏を作りはじめます。結局は情勢が悪くなり平城京へ戻ります。なんで、そんなに遷都したのか昔からようわかっていません。

わずか数年で遷都されたため長く幻の都となっていました。どこに宮があったのか諸説ありましたが2000年に宮町遺跡で朝堂西脇殿を発見されました。

紫香楽宮 朱雀大路

甲賀寺跡は高台にあり北に向かって下っていくと新宮神社遺跡があります。発掘調査が行われ幅12mの道路や掘立柱建物跡が確認されました。これが紫香楽宮の朱雀大路になります。調査場所は高速道路の下に眠っていますが、山には切通しを作って大路を通していました。

朱雀大路
朱雀大路

聖武天皇は平城京から北側にある恭仁宮へ移りますが、北、東、西の三方が山に囲まれ南は木津川が流れる要害の地です。とは言いながら大路も基本的に平らです。恭仁京からさらに奥深い紫香楽宮へ移りますが、紫香楽宮は標高が高く北、東、西の三方は完全に山で遮断されて南しか入口がありません。狭い範囲に宮を造ることになったので朱雀大路も山を切り通す必要がありました。昔から大いなる謎になっていますが、なんで聖武天皇は紫香楽宮を造ったんですかね。

甲賀寺

河内にある智識寺(有力氏族ではなく民衆が持ち寄って建てた寺)にあった盧舎那仏に感激した聖武天皇は大仏建設に邁進します。作り始めた場所は紫香楽宮にあった甲賀寺で
す。ところが周辺で地震や山火事などが頻発し(反対運動?)たため平城京に戻って現在の東大寺の場所で大仏を作ります。

甲賀寺
甲賀寺

甲賀寺は紫香楽宮が廃都になった時に、近江国分寺になったようで近江国分寺は塔や金堂などが並ぶ伽藍でした。甲賀寺の建造物が流用されたと思われますが、その割に金堂の大きさが大仏が入るような大きさではなく甲賀寺が本当にこの場所なのか、今も分かっていません。

十三仏

小脇山城へは瓦屋寺から箕作山経由か十三仏経由で行くことができます。十三仏コースを選びましたが、これがなかなかきつい。麓から岩戸山頂上まで延々と石仏が並ぶ石段が続きます。あとで調べたら約800段なんだそうです。

十三仏
十三仏

十三仏というのは聖徳太子がこの山の南裏に瓦屋寺を建てた時、岩戸山に金色の光りを発する不思議な岩を見つけたそう。太子は仏のお導きということで、岩にたどりつき仏像を彫ろうとしたが道具がなかったので自らの爪で十三体の仏を刻んだということです。

岩戸山頂上には巨大な岩が何本かそそりたち、お堂がありました。古代から磐座として信仰されていた場所なんですね。眺めはよく、柴田勝家の瓶割山城がすぐ前に見えます。お堂を通り過ぎた奥から磐座に登る道があって、そこから小脇山城に到達できます。

釣狐 発祥の地

釣狐 発祥の地

釣狐 発祥の地
釣狐 発祥の地

勝楽寺城へえっちらおっちら登る途中に琵琶湖が一望できる眺めのよい場所があり、ここが狐塚。稲荷大明神が祀られています。ここが狂言の「釣狐」発祥の地なんだそうです。

「昔、この寺に白蔵主という和尚がいて、その弟に狩猟好きの金右衛門という男がおった。和尚はいつも殺生を戒めていたが、ある日、白蔵主は外出して山道にさしかかった時、金右衛門に見つかり、白狐とまちがえられて殺され、はじめて金右衛門は白狐が兄とわかり、平素の殺生の戒めに気づいた」と云い伝えられています。この話を元に狂言の「釣狐」が生まれたそうです。

へ~え。
ということで勝楽寺本堂では茂山家による「釣狐」が演じられているそうです。