ミシガン

ミシガン

琵琶湖を就航する遊覧船「ミシガン」。有名なんですが乗ったことなかったので先日、ファイティング・コンサルタンツの面々と乗ってきました。大津は「成瀬は天下を取りにいく」で盛り上がっていて難読地名だった膳所もいまや全国区です。

15時の就航にまにあわせて14時頃に60分クルーズのチケット(2,400円)を買います。近くでビールを飲もうとお店に入るとアルコールはなし(笑)。仕方ないので就航までベンチでだべっておりました。14:50分にミシガンに乗ると3階にあるミシガンバーを目指します。ここビールを売っているのですが船が出てから販売ということで15時まで待って列に並んでビールをゲット。あとは展望デッキで船旅を楽しみます。

ミシガンって1982年(昭和57年)就航で、40年以上の歴史があるんですね。新入社員でプログラマをやっていた頃ですなあ。

ちはやふる 近江神宮

近江神宮

「ちはやふる」の舞台である近江神宮。創建はかなり新しく1940年(昭和15年)です。皇紀2600年を記念し天智天皇を祀る神社としてできました。

■百人一首の聖地
正月に坊主めくりで遊び、蝉丸をひいてしまったと叫んだ人も多かったでしょうが、古式ゆかしい、かるた取りの遊びです。百人一首とは藤原定家が選んだ秀歌集で大河ドラマ「光る君へ」の登場人物である赤染衛門、清少納言、紫式部、藤原公任の歌も採用されています。

この百人一首の第1歌が「秋の田のかりほの庵の苫を荒みわが衣手は露にぬれつつ」という天智天皇の歌で、このために近江神宮で全国高等学校かるた選手権大会や競技かるた名人位・クイーン位決定戦などが行われるようになります。「ちはやふる」の聖地となりましたが、「けいおん」豊郷小学校のような賑わいはないですね。

大津宮

大津宮

「白村江(はくすきのえ、はくそんこう)の戦い」を覚えていますか?
倭の同盟国だった百済を支援していましたが新羅・唐に攻められ滅んだため、中大兄皇子は百済復興のために海外派兵を決定、倭に滞在していた百済の太子を帰国させ戦わせます。結局は白村江の戦いで倭軍は敗北。

実は孝徳天皇や大海人皇子が唐派で中大兄皇子と対立していたのではという説もあり、こうなると朝鮮情勢で対立した物部vs蘇我と同じですね。中大兄皇子は唐・新羅に対抗するため北部九州から瀬戸内海沿岸にかけて多数の朝鮮式山城を築きます。岡山の鬼ケ城や大阪の高安城はこの時にできました。大宰府では水城など羅城で囲みます。

■なんで大津に遷都?
中大兄皇子は都を飛鳥から大津に移し、天智天皇として即位しますが、なんで大津に遷都したのかが不明です。防御説もありますが敦賀に上陸されて琵琶湖を南下されたら大津はすぐやられます。

天智天皇が亡くなった後に壬申の乱が起き、最後の戦いが瀬田の唐橋で行われ、大友皇子は敗れます。結局、大津宮は5年半だけ使われた幻の都となりました。錦織地域の住宅建築などによる発掘調査で幻の都だった大津宮が見つかりました。住宅地に宮跡が残っています。

アニメ「ケイオン」豊郷町

アニメ「ケイオン」豊郷町

山城登りがシーズンオフになり、最近は平城巡りをしております。今回は豊郷町周辺の平城を狙います。以前、JR河瀬駅でレンターサイクルを借りて山崎山城や荒神山城を巡ったので再度、レンターサイクルを借りようと行ってみたら3月末でがなくなっていました。ガビーン、それなら豊郷町により近い一つ手前の稲枝駅で降りたのに!

路線バスもないし、しょうがないので豊郷町を目指して歩きます。せっかく豊郷町に行ったついでに豊郷小学校旧校舎に寄ってきました。ここはアニメ『けいおん!』の聖地になっていて、アニメファンがそこかしこに。建築はヴォーリズで、オシャレですねえ。レトロな階段などがあり、手すりには「ウサギとカメ」の像があったりします。3階は軽音楽部・部室のモデルになった部屋があり、皆さん写真撮影をしておりました。

草津 追分

草津 追分

草津川跡地公園のすぐ近くにあるのが追分の道標。ここで東海道と中山道に分岐し、東海道は江戸の日本橋と京都の三条大橋を結ぶ53次でした。のちに大坂の高麗橋まで延びて57次になります。中山道も東海道と同じで日本橋と三条大橋を結びますが内陸を通り69次ありました。東海道は大井川の渡しなどが雨で通れなくなるので、道は険しいですが時間がよめる中山道がよく使われました。皇女和宮の江戸下向でも中山道が使われます。

■草津をおさえた信長
足利義昭を奉じて上洛した織田信長が副将軍なんかいらないと断り、代わりに堺、大津、草津を直轄地としてもらっています。武田信玄は鉄砲に着目しており、数を揃えていましたが問題だったのは弾薬。信長が堺を抑えてしまったので、火薬の原料となる硝石が手に入りません。海運拠点の大津、陸運拠点の草津を抑えてしまい琵琶湖を中心に東国への経済封鎖が行われました。

武田信玄が三方ヶ原の戦いで家康を破り、西に軍をすすめますが、信長の経済封鎖でこのままではジリ貧になると考えたという説もあります。

草津川

草津川

京都から草津へ向かうと草津駅の手前にトンネルがあります。トンネルの上を流れていたのが草津川で、いわゆる天井川です。

40年ほど前、まだ初々しい新人の頃、仕事で時たま草津へ出かけておりました。駅から歩いて草津川のトンネルを通って客先に向かいました。あの頃は若かったなあ。城跡へ行くために久しぶりに草津駅で降りると、この天井川がなくなっていて公園になっていました。幅が広く散歩するには最適な公園になっています。

「天井川はどこへいったんだあ」と思ったら2002年に草津川の付け替えが行われて、もっと大津よりを流れるようになったんですね。知らなかった!

沙沙貴神社

沙沙貴神社

安土には安土城以外に沙沙貴神社(ささきじんじゃ)がありますが、訪れる人はほとんどいません。佐々木さんの故郷なんですがねえ。

近江国蒲生郡佐々木荘があり、宇多天皇の子孫が下向し地名をとって佐々木氏と名乗ります。これが近江源氏の祖となります。佐々木氏で有名なのはバサラ大名で有名な佐々木道誉ですね。佐々木氏はやがて大原氏、高嶋氏、京極氏、六角氏の四家に分かれます。同じ一族といっても仲が悪いのは大河ドラマ「光の君へ」と同じで、争った結果、京極氏が北近江、六角氏が南近江を支配するようになります。京極氏の家来だった浅井氏が台頭していくのは織田信長と同じです。

京極氏の一族が甲良荘尼子郷に住むことから尼子氏になるように、さらに枝分かれしていきます。黒田、三井、篠笥、伊庭、椙山、岳、朽木、和泉、山脇、田中、種村、鯰江、乃木、松下、和邇、加地など220ほどになっていきます。特徴は家紋が目結紋(めゆいもん)になります。

朝ドラ「ブギウギ」 油日神社

油日神社

NHK連続テレビ小説「ブギウギ」をずっと見ているのですが、いよいよ終戦の年である1945年が舞台でした。富山に慰問に来ているスズ子が歌った場所が神社の境内です。古びた神社で「鎮護」という扁額がかかっています。

どっかで見たことある神社だなと思ったら、次に楼門と回廊が映って、ピンポン!甲賀にある油日神社でした。室町時代の楼門、回廊、拝殿、本殿は重要文化財になっていて甲賀忍者の談合(話し合い)が行われた神社として有名です。

ロケ地としても、よく使われていて「るろうに剣心」、「わろてんか」などに登場しています。ですがNHKの大阪放送局からは遠い、山深いところにあり、片道2時間ぐらいかかりますねえ。

油日神社

油日神社は甲賀の総社とも呼ばれています。甲賀に突出した勢力はなく、甲賀五十三家による自治組織でした。堺の会合衆のようなものですね。掟を定め、合議制でした。基本は多数決で、決まらない場合はくクジで決めます。甲賀衆の談合場所だったのが油日神社で、甲賀の総社と呼ばれています。

楼門の左右には廻廊のびていて、時代劇を撮影するには絶好の場所です。というころでドラマや映画のロケ地としても使われています。「るろうに剣心」、「わろてんか」、「必殺仕事人」、「信長協奏曲」などなど。

鹿深の道

鹿深の道

油日城や滝川城は県道131号にありますが、県道には「鹿深の道」という名前がつけられています。って道の途中にあった看板を見て知りました。調べてみると東海道って、いろいろと変遷があったんですね。

江戸時代の東海道は、近江の土山宿から鈴鹿峠を超えて伊勢の関宿に入りますが、古くは甲賀から柘植へ出て、加太越えをして関に入ったようです。難所の鈴鹿峠を避けたのでしょう。もっと古い時代の東海道は飛鳥から名張、伊賀、柘植を通って東国へ向かいました。

■古代の東海道 倉歴(くらふ)道
天智天皇が大津京を作った時に新しく道が整備され、草津で東山道と分岐し、甲賀を通って柘植へ入り、柘植から以前の飛鳥からの道に合流しました。柘植の北側に杣川が流れ、この川沿いのルートが東海道です。途中で倉歴を超えていくので倉歴(くらふ)道という名前だったようです。これが東海道の旧名になります。

大友皇子と大海人皇子が争った壬申の乱では大海人皇子が軍勢を派遣して倉歴道を守らせました。これに対して大友皇子側も軍勢を送り鹿深山を越え、倉歴で戦いになったようで倉部川沿いに古戦場跡があります。倉歴の地名は残っておらず川の名前で残っています。土山と甲賀にはバイパスがあったようで、それが鹿深道になります。

■鹿深(かふか)から甲賀に
日本書紀の敏達天皇13年(584年)に鹿深臣が百済から弥勒の石像を持ち帰ったと書かれています。敏達天皇といえば物部守屋と蘇我馬子が争っていた時の大王で、争いの背景は廃仏・崇仏よりも朝鮮外交の対立といわれています。この鹿深臣の本貫だったのか、どうか分かりませんが、この鹿深(かふか)が「かうか」「こうか」と変化して甲賀(こうか)となったようです。