朝ドラ「ブギウギ」 油日神社

油日神社

NHK連続テレビ小説「ブギウギ」をずっと見ているのですが、いよいよ終戦の年である1945年が舞台でした。富山に慰問に来ているスズ子が歌った場所が神社の境内です。古びた神社で「鎮護」という扁額がかかっています。

どっかで見たことある神社だなと思ったら、次に楼門と回廊が映って、ピンポン!甲賀にある油日神社でした。室町時代の楼門、回廊、拝殿、本殿は重要文化財になっていて甲賀忍者の談合(話し合い)が行われた神社として有名です。

ロケ地としても、よく使われていて「るろうに剣心」、「わろてんか」などに登場しています。ですがNHKの大阪放送局からは遠い、山深いところにあり、片道2時間ぐらいかかりますねえ。

油日神社

油日神社は甲賀の総社とも呼ばれています。甲賀に突出した勢力はなく、甲賀五十三家による自治組織でした。堺の会合衆のようなものですね。掟を定め、合議制でした。基本は多数決で、決まらない場合はくクジで決めます。甲賀衆の談合場所だったのが油日神社で、甲賀の総社と呼ばれています。

楼門の左右には廻廊のびていて、時代劇を撮影するには絶好の場所です。というころでドラマや映画のロケ地としても使われています。「るろうに剣心」、「わろてんか」、「必殺仕事人」、「信長協奏曲」などなど。

鹿深の道

鹿深の道

油日城や滝川城は県道131号にありますが、県道には「鹿深の道」という名前がつけられています。って道の途中にあった看板を見て知りました。調べてみると東海道って、いろいろと変遷があったんですね。

江戸時代の東海道は、近江の土山宿から鈴鹿峠を超えて伊勢の関宿に入りますが、古くは甲賀から柘植へ出て、加太越えをして関に入ったようです。難所の鈴鹿峠を避けたのでしょう。もっと古い時代の東海道は飛鳥から名張、伊賀、柘植を通って東国へ向かいました。

■古代の東海道 倉歴(くらふ)道
天智天皇が大津京を作った時に新しく道が整備され、草津で東山道と分岐し、甲賀を通って柘植へ入り、柘植から以前の飛鳥からの道に合流しました。柘植の北側に杣川が流れ、この川沿いのルートが東海道です。途中で倉歴を超えていくので倉歴(くらふ)道という名前だったようです。これが東海道の旧名になります。

大友皇子と大海人皇子が争った壬申の乱では大海人皇子が軍勢を派遣して倉歴道を守らせました。これに対して大友皇子側も軍勢を送り鹿深山を越え、倉歴で戦いになったようで倉部川沿いに古戦場跡があります。倉歴の地名は残っておらず川の名前で残っています。土山と甲賀にはバイパスがあったようで、それが鹿深道になります。

■鹿深(かふか)から甲賀に
日本書紀の敏達天皇13年(584年)に鹿深臣が百済から弥勒の石像を持ち帰ったと書かれています。敏達天皇といえば物部守屋と蘇我馬子が争っていた時の大王で、争いの背景は廃仏・崇仏よりも朝鮮外交の対立といわれています。この鹿深臣の本貫だったのか、どうか分かりませんが、この鹿深(かふか)が「かうか」「こうか」と変化して甲賀(こうか)となったようです。

尼子さんの故郷

尼子

滋賀県甲良町に尼子という土地があります。昔は近江国甲良荘尼子郷でした。ガチャコン(近江鉄道)の尼子駅があります。すぐ隣が豊郷町で「けいおん」の舞台となった豊郷小学校があります。宇多源氏である佐々木氏に婆娑羅大名で有名な佐々木道誉がいて佐々木氏は近江をおさめていました。孫の高久で尼子に住んだことから名字を尼子にして尼子氏がはじまります。

尼子氏の一部が出雲の守護代となり月山富田城を中心に戦国大名となり毛利氏、大内氏と戦います。一度は滅びますが、「願わくば、我に七難八苦を与えたまえ」と三日月に祈った山中鹿之助が尼子氏復興をはかります。尼子氏は秀吉側について戦いますが、結局、お家再興はなりませんでした。山中鹿之助の息子が武士を辞めて摂津の鴻池村で酒造業をはじめ、これが鴻池財閥になっていきます。

姉川の合戦

姉川の合戦

「どうする家康」、金ヶ崎の退き口と思ったとたんに先週は姉川の合戦、次回は信玄との対峙のようです。

家康にとって苦難の年だったのが元亀元年(1570)で家康29歳の時。4月に信長について朝倉攻めに加わったら、まさかの浅井長政の裏切り。金ケ崎城で秀吉、光秀とともに殿(しんがり)を勤め、なんとか京都に帰りつきます。6月には姉川の合戦で朝倉・浅井連合軍と戦います。写真は信長が姉川の合戦で陣を置いたところで家康は少し西に陣を置きました。信長がここから姉川の戦況を見ていました。

9月には三好三人衆を攻撃するために摂津・福島に陣を敷いていた織田軍を突如、石山本願寺が攻撃。信長と石山本願寺との10年戦争がはじまります。浜松城を造り、入城した2日後に足利義昭から信長に加勢するように依頼が来て、摂津へ出陣することになります。大忙しの1年でした。

大洞弁財天(彦根)

大洞弁財天(彦根)
大洞弁財天(彦根)

写真じゃ分かりませんが山門の先に彦根城の天守閣がちょうど真ん中に見え、山門の扉が額縁のようになっています。彦根城の鬼門の方角に作られたのが大洞弁財天で大洞山の中腹にあります。日光東照宮を改修する時に総奉行だったのが第4代藩主・井伊直興が、厄除けとして建立しました。

山の中腹にあるので、ひたすら階段を登らないといけませんが上まで登ると琵琶湖などが一望できます。

銅鐸博物館

銅鐸博物館
銅鐸博物館

野洲にある銅鐸博物館(野洲市歴史民俗博物館)に立ち寄ると、3月末まで設備工事ということで休館していました、永原城の資料が見たかったのに、残念。ここは出雲の加茂岩倉遺跡でたくさんの銅鐸が出る前に24個もの大量の銅鐸が出たことで有名です。そのうちの一つは日本一の大型銅鐸です。付近には大岩山古墳群があり、博物館内の宮山2号墳では石室に入ることができした。また銅鐸の時代を実物大で学習することができる公園があり、高床倉庫、竪穴住居などが復元されています。

野洲付近は古代史で有名な土地で、銅鐸博物館から少し行った野洲と栗東の間にあるのが伊勢遺跡です。摩訶不思議な遺跡で中心部に方形に配列された大型建物がならび、その周り(直径220m)に等間隔で円周上に建物が並びます。この建物が大使館のようなもので、各地域の首長は中央に集まって会議したのではないかと色々な説があります。この後に登場するのが人工都市・纏向遺跡になります。

彦根の辻番所

彦根城やキャッスルロードへ行く観光客は多いのですが、もうちょい足を延ばすと足軽組屋敷があります。彦根城を整備する時、外堀と芹川との間に足軽を住まわせ700戸という大規模になりました。今も当時の町割りが残っています。

辻番所
辻番所

町の大辻通りと中辻通りが交差する辻には辻番所を設置して、辻の監視を行っていました。当時の屋敷がそのまま残っていて、辻に若干張り出た、監視窓から交代で監視できます。時代がすすむと足軽屋敷がどんどん普通の住居へ変わっていきましたが、市民によるトラスト運動が起きて保存が決定し、彦根辻番所の会が結成されボランティアで維持・管理をしています。土日などは公開されて説明をしています。

多賀大社

城巡りのついでに多賀大社へ。拝殿前にはずらっと参拝客が並んでいたので、ショートカットして脇から参拝してきました。

多賀大社
多賀大社

多賀大社の祭神は伊邪那岐命と伊邪那美命で、日本創成の神様です。天照大神の親にあたりますから「お伊勢参らばお多賀へ参れ。お伊勢お多賀の子でござる」と歌われました。近江国の一宮は建部大社で、二宮・日吉神社と続き、多賀大社は三宮になります。 

このあたりは犬上御田鍬(いぬかみのみたすき)で有名な犬上氏の土地です。犬上御田鍬は推古天皇の時代、最後の遣隋使で最初の遣唐使になった人物として日本史で習いましたね。もともと多賀大社はこの犬上氏の氏神を祭っていたという説もあります。

甲賀忍者

近江といえば飛び出し人形「とび太くん」が有名ですが、同じ近江でも甲賀となると忍者になります。

とび太くん
とび太くん

甲賀と伊賀は山を隔てた近接地ですが知名度からいくと伊賀ですね。赤影は伊賀忍者だし、忍者ハットリくんも伊賀です。ただライバルであるケムマキは甲賀です。甲賀もまけてなく真田十勇士に登場する猿飛佐助は甲賀です。とはいっても、忍者と聞くと伊賀のイメージが強いですね。

同じ忍者の里ですが甲賀と伊賀には因縁があり、甲賀は六角氏とともに信長と戦っていましたが六角氏が没落すると信長の支配下になります。信長が伊賀をせん滅するために起こした天正伊賀の乱では、織田信長軍の進軍道の一つが甲賀になってしまいました。相争っていた時期もありました。