飛び出し坊や

近江の山城に登ろうと街中を歩くと必ず目にするのが「飛び出し坊や」。ドライバーに飛び出しを注意喚起するためのもので元々は八日市市(現在の東近江市)で生まれました。八日市といえば天秤棒一本で全国を巡った近江商人の故郷です。

飛び出し坊や
飛び出し坊や

これが全国に拡がりましたが、設置数ナンバーワンといえば滋賀県でしょう。県内のいたることろで見ますが、いろいろとバリエーションがあり安土にあったのが信長バージョンでした。ストラップやクリアファイルなどのいろいろなグッズも売られています。版権はどこが持っているんだろう。

建部大社

近江国の一宮といえば瀬田にある建部神社です。境内に茅の輪があったので、くぐりぬけてきました。

建部大社
建部大社

祭神は日本武尊(ヤマトタケル)で境内にはイケメンのヤマトタケルがパネルで展示されていました。日本武尊は亀山の能褒野で亡くなりましが、妃が住んでいた場所に日本武尊を「建部大神」として祀り、建部という地名がつけられました。もっとも、なんで建部大神なんて名前をつけたんですかねえ。ひょっとすると地名の方が先だったかもしれません。

祀られた場所は神崎郡建部で、現在の八日市駅から愛知川の間あたりにありました。白鳳4年(675)に瀬田の地に移ります。神社のあるあたりは神領という地名になっています。

源頼朝が伊豆に流される途中、建部神社に立ち寄り祈願しました。30年が経過し平家を滅ぼして源氏の再興がなります。上洛する途中に大願成就のお礼に建部神社を訪れています。ですので建部神社は出世開運の神様になっています。

都から東に向かう東山道の街道筋で、少し東に行った「鏡の宿」には源義経の元服した場所や平宗盛、清宗父子が切られた平家終焉の地もあります。

瀬田の唐橋

琵琶湖から唯一流れ出るのが瀬田川で、この瀬田川にかかるのが瀬田の唐橋です。京都人と言い争いになった滋賀人の決め台詞が「琵琶湖の水、止めたろか」という一言。以前に瀬田川を止めたシミュレーションが行われ、結果、大津などが水没してしまいました(笑)。

瀬田の唐橋
瀬田の唐橋

瀬田川を超えると京都まで一気に攻め込めますので、古代からこの瀬田川が攻防戦の舞台となりました。壬申の乱では、大友皇子と大海人皇子の最後の決戦場となり、瀬田川を突破された大友皇子は自刃することになります。

藤原仲麻呂の乱では朝廷軍が先回りし、瀬田の唐橋を焼いてしまったため藤原仲麻呂(恵美押勝)は湖西を北上することになり三尾城で破れてしまいます。

本能寺の変の後、安土城に向かう明智光秀を足止めするために山岡景隆が瀬田の唐橋と川のほとりにあった瀬田城を焼いてしまったため明智光秀が仮橋を架けるのに3日を要しました。

堂ノ上遺跡

近江国府から800mほど行ったところに小高い丘があり、ここが堂ノ上遺跡。看板はありますが、何もない原っぱです。当然、誰もいません(笑)。

堂ノ上遺跡
堂ノ上遺跡

堂ノ上遺跡は東海道、東山道、瀬田川を見下ろす高台にあり発掘調査によると奈良時代後半には建物が造られていました。近江国府と同じ瓦などが見つかっているので同時に造られたようです。一説には瀬田駅家との説もあります。

■駅家(うまや)とは
天武天皇時代に古代道路網が整備されました。当時は白村江の戦いからそう時間が経っておらず、唐などとの外交関係が緊張していました。緊急事態を伝える情報システムが全国に整備され、大路は幅12メートルの道がまっすぐ作られました。途中には駅家が作られ、ここで馬を取り換えて都を目指しました。伝達スピードはめちゃくちゃ早かったようで大宰府では発生した藤原広嗣の乱が大宰府から聖武天皇が行幸していた関宮(津市白山町)まで705キロあり、これを5日で伝送したそうです。1日140キロの移動です。

忠臣蔵で浅野内匠頭が吉良に切りつけた刃傷事件を起こし、使者は早かごを使って江戸ー赤穂間620キロを伝えるのに四日半かかりましたので、ですので駅家制度がいかに早かったかが分かります。

■崩壊した駅家制度
駅家には駅田という田が与えられ、この田から採れる稲を民衆に貸し付けた利息で経営されていましたが、持ち出しが多かったようで地元の名士が所管していました。天皇の崩御など緊急事態があると駅家で馬を乗りかえながら知らせが伝えられました。

ところが、これがだんだん拡大解釈されて単なる公務でも使われるようになり、駅を経営する側にとってはたまったものではありませんでした。律令体制の崩壊と共に道路も整備されず消えていき駅家もなくなっていきました。

近江国府

古代、各国に置かれたのが国府です。どこにあったのか分かっていないケースがあるのですが、近江国府に関しては建物配置がほぼ完全に近い形で分かりました。まあ今でいうところの県庁です。場所は瀬田にあります。

近江国府
近江国府

京都橘大学の講義のついでに寄ろうと思っていたのですが、オンライン講義になってしまったので、国府跡を目指して出かけてきました。近江国府跡は少し高台になった所にあり、密どころか人っ子一人おりません(笑)。まあ国府跡といっても柱跡が示されているだけですからねえ。

近江国府は500年ほど続き、壬申の乱や藤原仲麻呂の乱も高台からよく見えたでしょう。

近江幕府(桑実寺)

大河ドラマ「麒麟がくる」で向井理が演じる足利義輝が近江・朽木から都へ戻っていました。

桑実寺
桑実寺

当時、幕府の力が弱く何かあると外へ逃げていました。足利義輝のお父さんである足利義晴も朽木に逃げていました。しかもなかなか都へ戻れず、観音寺山の中腹にある桑実寺に実質的に幕府を移します。これが約3年続く近江幕府となります。

桑実寺の境内には室町時代初期の本堂(重要文化財)があり、ここに近江幕府があったんだと感激します!寺に通じる石段の両脇には当時、屋敷が建ち並んでいた様子が残っています。桑実寺の裏から登ると観音寺山城ですので、六角氏の庇護があったのでしょう。

勧請縄

勧請縄
勧請縄

野洲駅近くの中山道沿いに背比べ地蔵があり、隣にあるのが行事神社です。中畑、行畑地区の総鎮守で、行事神社という名前がなぜついたかは不明です。

行事神社境内に変わった注連縄がかかっており、これが勧請吊り、勧請掛、勧請縄と呼ばれるもの。道切りともいいます。ムラの出入口や神社境内にかけて、異界(ムラの外)から災害や疫病が入ってこないようにするもので、いわゆるバリアですねえ。大和の田舎や伊賀などでも川によくかかっています。滋賀県の湖南・湖東地方にも勧請縄は多くあります。

この勧請縄の真ん中にトリクグラズと呼ばれる丸い輪がついています。なんでトリクグラズという名前なんでしょうかねえ。鳥居も結界の一つですからトリ+クグラズが語源かもしれません。このトリクグラズの左右に常緑樹を編んだ小勧請縄を平年は12本(閏年は13本)吊るします。

武家の信仰があつい勝部神社

勝部神社
勝部神社

■物部の神様
勝部神社(かつべじんじゃ)は守山・勝部の地にあり正式名称は物部郷総社・勝部神社で昔は物部神社と呼ばれていました。東大阪、八尾は物部の地で、物部守屋が蘇我馬子、聖徳太子連合軍に敗れたのが八尾ですが、近江も物部の地として有名です。守山には物部の地名そのものが残っていて、神武天皇よりも前にヤマト入りをした饒速日命が物部氏の祖先ですから、勝部神社は伊勢遺跡(近江の邪馬台国)のすぐ近くなので、当時から物部氏が在住していたかもしれません。

■武将に信仰された神社
勝部神社は大化5年(649年)に物部広国が祖神を祀ったのが起源と社伝に伝わっています。主祭神は天火明命(饒速日命)、宇麻志間知命、布津主神で物部の祖です。特に布津主神(ふつぬしのかみ)は霊剣を意味し武神です。物部といえば大伴と同様に武人一族として有名なため武家の信仰があつく、近江守護・佐々木六角氏が出陣する際は、勝部神社の竹を旗竿としました。

勝部神社近くにあったのが鈎の陣で、応仁の乱後、幕府をないがしろにする近江守護・佐々木六角氏に対して第9代将軍・足利義尚が近江に攻め込んだ時に本陣にしたところです。佐々木六角氏側についた甲賀忍者が攻め込むなど忍者が登場した最初の戦いとしても有名です。この時に勝部神社も戦火に巻き込まれて消失してしまいました。1497年に佐々木六角高頼が社殿を建て直し、現在の本殿(重要文化財)になっています。織田信長も勝部神社を保護し、近江八幡を開いた豊臣秀次も社領の寄進などをして保護しました。

邪馬台国の前にあった伊勢遺跡へ

伊勢遺跡
伊勢遺跡

考古学で超有名な伊勢遺跡へ出かけてきました。邪馬台国ができる直前にあった東海・近畿連合の拠点と言われている遺跡です。もちろん当時の遺構は残っておらず田んぼや住居の下に眠っていて国史跡となっています。

伊勢遺跡といっても三重ではなく滋賀県守山市にあります。遺構が見つかった伊勢町から名づけられました。伊勢遺跡は弥生時代後期としては、国内最大級の遺跡。環濠集落の中に吉野ケ里遺跡のような楼閣や王の建物があり、また遺跡から生活遺物がほとんど発見されておらず、ここが祭祀にまつわる特異な場所だったようです。

■円周状に配置された大使館
とっても不思議なのが楼閣などの祭祀空間があり、この空間を大型建物が同心円上に取り囲んでいます。こんな不思議な配置は国内では見つかっておらず、一説には円周状に配置された大型建物群は各クニからの大使がいた場所で、伊勢遺跡は古代の大使館群だったようです。生活遺物が残っていないのは政治・宗教都市だったからでしょう。

漢書地理志に倭国、分かれて百余国とありますが、魏志倭人伝には30余国へと集約され最終的には卑弥呼が選ばれ邪馬台国になります。伊勢遺跡の大使館は13ほどあったので近畿や東海の13ほどのクニが集まり、さらに九州、吉備などとも話し合って纏向遺跡(邪馬台国)を作り上げたのでしょう。要がなくなった伊勢遺跡は突然、消えてしまったようです。

新幹線から見える大塚山古墳

大塚山古墳
東海道新幹線で京都駅を出て、野洲川を越えると左手に見えるのが大塚山古墳です。新幹線に乗るたびに見え、前から気になっていたので実際に行ってみました。
大塚山古墳は新幹線のすぐ横にあり、帆立貝式古墳になっています。帆立貝式古墳とは円丘に小さな方形の張り出しをつけて全体の平面形が帆立貝形になる古墳のことを言うそうです。それほど高くもない円丘の周りには濠と堤がめぐっていました。このあたりは大岩山古墳群といって3世紀後半~6世紀にかけて継続的に古墳が築かれた土地になります。
近江には琵琶湖があり、古代においては水上交通がメインですから栄えていたし外国との交易ルートもありました。野洲から近い彦根市の稲部遺跡では古墳時代前期(3世紀中ごろ)の大型建物跡が見つかっています。これが纒向遺跡の大型建物跡に次ぐ規模でしたので栄えていたんですね。