勧請縄

勧請縄
勧請縄

野洲駅近くの中山道沿いに背比べ地蔵があり、隣にあるのが行事神社です。中畑、行畑地区の総鎮守で、行事神社という名前がなぜついたかは不明です。

行事神社境内に変わった注連縄がかかっており、これが勧請吊り、勧請掛、勧請縄と呼ばれるもの。道切りともいいます。ムラの出入口や神社境内にかけて、異界(ムラの外)から災害や疫病が入ってこないようにするもので、いわゆるバリアですねえ。大和の田舎や伊賀などでも川によくかかっています。滋賀県の湖南・湖東地方にも勧請縄は多くあります。

この勧請縄の真ん中にトリクグラズと呼ばれる丸い輪がついています。なんでトリクグラズという名前なんでしょうかねえ。鳥居も結界の一つですからトリ+クグラズが語源かもしれません。このトリクグラズの左右に常緑樹を編んだ小勧請縄を平年は12本(閏年は13本)吊るします。

武家の信仰があつい勝部神社

勝部神社
勝部神社

■物部の神様
勝部神社(かつべじんじゃ)は守山・勝部の地にあり正式名称は物部郷総社・勝部神社で昔は物部神社と呼ばれていました。東大阪、八尾は物部の地で、物部守屋が蘇我馬子、聖徳太子連合軍に敗れたのが八尾ですが、近江も物部の地として有名です。守山には物部の地名そのものが残っていて、神武天皇よりも前にヤマト入りをした饒速日命が物部氏の祖先ですから、勝部神社は伊勢遺跡(近江の邪馬台国)のすぐ近くなので、当時から物部氏が在住していたかもしれません。

■武将に信仰された神社
勝部神社は大化5年(649年)に物部広国が祖神を祀ったのが起源と社伝に伝わっています。主祭神は天火明命(饒速日命)、宇麻志間知命、布津主神で物部の祖です。特に布津主神(ふつぬしのかみ)は霊剣を意味し武神です。物部といえば大伴と同様に武人一族として有名なため武家の信仰があつく、近江守護・佐々木六角氏が出陣する際は、勝部神社の竹を旗竿としました。

勝部神社近くにあったのが鈎の陣で、応仁の乱後、幕府をないがしろにする近江守護・佐々木六角氏に対して第9代将軍・足利義尚が近江に攻め込んだ時に本陣にしたところです。佐々木六角氏側についた甲賀忍者が攻め込むなど忍者が登場した最初の戦いとしても有名です。この時に勝部神社も戦火に巻き込まれて消失してしまいました。1497年に佐々木六角高頼が社殿を建て直し、現在の本殿(重要文化財)になっています。織田信長も勝部神社を保護し、近江八幡を開いた豊臣秀次も社領の寄進などをして保護しました。

邪馬台国の前にあった伊勢遺跡へ

伊勢遺跡
伊勢遺跡

考古学で超有名な伊勢遺跡へ出かけてきました。邪馬台国ができる直前にあった東海・近畿連合の拠点と言われている遺跡です。もちろん当時の遺構は残っておらず田んぼや住居の下に眠っていて国史跡となっています。

伊勢遺跡といっても三重ではなく滋賀県守山市にあります。遺構が見つかった伊勢町から名づけられました。伊勢遺跡は弥生時代後期としては、国内最大級の遺跡。環濠集落の中に吉野ケ里遺跡のような楼閣や王の建物があり、また遺跡から生活遺物がほとんど発見されておらず、ここが祭祀にまつわる特異な場所だったようです。

■円周状に配置された大使館
とっても不思議なのが楼閣などの祭祀空間があり、この空間を大型建物が同心円上に取り囲んでいます。こんな不思議な配置は国内では見つかっておらず、一説には円周状に配置された大型建物群は各クニからの大使がいた場所で、伊勢遺跡は古代の大使館群だったようです。生活遺物が残っていないのは政治・宗教都市だったからでしょう。

漢書地理志に倭国、分かれて百余国とありますが、魏志倭人伝には30余国へと集約され最終的には卑弥呼が選ばれ邪馬台国になります。伊勢遺跡の大使館は13ほどあったので近畿や東海の13ほどのクニが集まり、さらに九州、吉備などとも話し合って纏向遺跡(邪馬台国)を作り上げたのでしょう。要がなくなった伊勢遺跡は突然、消えてしまったようです。

新幹線から見える大塚山古墳

大塚山古墳
東海道新幹線で京都駅を出て、野洲川を越えると左手に見えるのが大塚山古墳です。新幹線に乗るたびに見え、前から気になっていたので実際に行ってみました。
大塚山古墳は新幹線のすぐ横にあり、帆立貝式古墳になっています。帆立貝式古墳とは円丘に小さな方形の張り出しをつけて全体の平面形が帆立貝形になる古墳のことを言うそうです。それほど高くもない円丘の周りには濠と堤がめぐっていました。このあたりは大岩山古墳群といって3世紀後半~6世紀にかけて継続的に古墳が築かれた土地になります。
近江には琵琶湖があり、古代においては水上交通がメインですから栄えていたし外国との交易ルートもありました。野洲から近い彦根市の稲部遺跡では古墳時代前期(3世紀中ごろ)の大型建物跡が見つかっています。これが纒向遺跡の大型建物跡に次ぐ規模でしたので栄えていたんですね。

平家終焉の地

平家終焉の地
平清盛の三男が平宗盛です。
長男の重盛は清盛よりも先に病死し、次男の基盛は24歳で早世したため、三男の平宗盛が平氏の棟梁となりました。源氏との戦いとなり一の谷の合戦、屋島の合戦と戦いましたが敗退することになります。最終決戦となった壇ノ浦の戦いでは海に飛び込みましたが引き上げられて、義経によって鎌倉へ連行されます。鎌倉から京都へ戻る途中、義経が元服した場所のすぐ近くの大篠原で義経の命により切られました。ここが平家終焉の地となっています。
清盛の四男である知盛は壇ノ浦で「見るべき程の事をば見つ。今はただ自害せん」と碇と共に海に沈んだと言われます。五男の平重衡は一の谷合戦で敗れたあと、鎌倉に護送されましたが、大仏や興福寺などを燃やされた南都衆徒の要求で引き渡され、木津川畔で斬首されました。平宗盛が切られたのと同時期でした。
■源平交代説
平家を倒した源氏でしたが、やがて北条家(平家)の支配となり、鎌倉幕府が続きます。この鎌倉幕府を滅ぼしたのが足利(源氏)で、ここから平家、源氏の源平交代説が出てきます。
ですので足利義昭を追放した信長は平家を名乗っています。秀吉は農民出身が周知の事実で系図書きかえができないため、源平藤橘という四姓に豊臣という別の姓を創出します。これは天才的なやり方ですね。家康となると、また源平交代説となり、松平家を得川家(徳川家)という新田系源氏に結び付けることとなります。

義経 元服の地

鏡神社
滋賀県竜王町に鏡という土地があります。東山道(中山道)の宿場があったところでした。今は幹線道路で車やトラックが行きかう所となりました。
源義経が奥州の金売り吉次の手引きで鞍馬を抜け出し奥州平泉を目指します。鏡では白木屋という長者「沢弥傳(さわやでん)」の屋敷に泊まっていた所に知らせが届き、稚児姿(寺院で召し使われた少年の姿)の牛若丸を探していることが分かります。
そこで偽装するために急ぎ元服することにしました。源氏の左折れの烏帽子を作り、前髪を落とし元結(もとゆい)の侍姿となります。この時の場所が源義経の元服池として鏡神社の近くにあります。この時から源九郎義経と名乗ることになります。
源氏の再興と武運長久を祈願したのが鏡神社となります。願いがかなったパワースポットですなあ。

長浜へ

201110nagahama.jpg長浜で行われている「びわ湖環境ビジネスメッセ」を見てきました。場所は米原から北陸本線に入って2駅目の田村駅。大阪から新快速で行きましたが遠かった!野洲までは本数が多いのですが、その先は本数が減り1時間に2本になります。

田村駅は何もないひなびた駅なんですが、今日は見本市が行われているのでビジネスマンが大量に降り、一つしかない改札は大混雑。田村駅からはヤマ
トタケルが毒にあてられた伊吹山がすぐそばに見えます。駅のすぐ近くにあるのが長浜ドームで、「びわ湖環境ビジネスメッセ」の会場です。ドーム内はけっこ
うな人出でした。

帰りに長浜ドームのすぐ近くにある長浜バイオ大学へ寄ってきました。日本でただ一つのバイオ系単科大学で「びわ湖環境ビジネスメッセ」のセミナー
会場にもなっています。この大学は以前に勤務していた関西文理学園が宝バイオさんと一緒に作った大学です。大学事務室に寄ると懐かしい面々がまだまだ残っ
ておりました。