大沙川隧道

大沙川隧道
大沙川隧道

JR三雲駅から旧東海道を歩き三雲城跡に登る手前にあるのが吉永のマンポ(大沙川隧道)。アーチ状の石が特徴です。

大沙川が天井川になっていて、このあたりは天井川が多くあります。氾濫防止のために堤防をつくると川底に土砂がたまって、川の高さが上がるので堤防を付け足してとやっていると天井川になります。神戸など昔から栄えていた所に多いですね。奈良時代に石山寺などの造営で、このあたりの山の木々はほとんど切り倒され、はげ山となったことから砂の堆積が進んだ面もあります。

紫香楽宮

何もない農地なんですが、ここが紫香楽宮の中枢施設となる宮殿や長さ100mを超える朝堂などがあったところです。

紫香楽宮
紫香楽宮

聖武天皇が天平12(740)年に恭仁京を作り始めた時、離宮として紫香楽宮の造営をすすめます。2つも宮を造るとなると国家財政がもたないので、難波京を都にすると宣言。ところが紫香楽宮の建設はすすめられていて甲賀寺で大仏造顕の詔を出して大仏を作りはじめます。結局は情勢が悪くなり平城京へ戻ります。なんで、そんなに遷都したのか昔からようわかっていません。

わずか数年で遷都されたため長く幻の都となっていました。どこに宮があったのか諸説ありましたが2000年に宮町遺跡で朝堂西脇殿を発見されました。

紫香楽宮 朱雀大路

甲賀寺跡は高台にあり北に向かって下っていくと新宮神社遺跡があります。発掘調査が行われ幅12mの道路や掘立柱建物跡が確認されました。これが紫香楽宮の朱雀大路になります。調査場所は高速道路の下に眠っていますが、山には切通しを作って大路を通していました。

朱雀大路
朱雀大路

聖武天皇は平城京から北側にある恭仁宮へ移りますが、北、東、西の三方が山に囲まれ南は木津川が流れる要害の地です。とは言いながら大路も基本的に平らです。恭仁京からさらに奥深い紫香楽宮へ移りますが、紫香楽宮は標高が高く北、東、西の三方は完全に山で遮断されて南しか入口がありません。狭い範囲に宮を造ることになったので朱雀大路も山を切り通す必要がありました。昔から大いなる謎になっていますが、なんで聖武天皇は紫香楽宮を造ったんですかね。

甲賀寺

河内にある智識寺(有力氏族ではなく民衆が持ち寄って建てた寺)にあった盧舎那仏に感激した聖武天皇は大仏建設に邁進します。作り始めた場所は紫香楽宮にあった甲賀寺で
す。ところが周辺で地震や山火事などが頻発し(反対運動?)たため平城京に戻って現在の東大寺の場所で大仏を作ります。

甲賀寺
甲賀寺

甲賀寺は紫香楽宮が廃都になった時に、近江国分寺になったようで近江国分寺は塔や金堂などが並ぶ伽藍でした。甲賀寺の建造物が流用されたと思われますが、その割に金堂の大きさが大仏が入るような大きさではなく甲賀寺が本当にこの場所なのか、今も分かっていません。

十三仏

小脇山城へは瓦屋寺から箕作山経由か十三仏経由で行くことができます。十三仏コースを選びましたが、これがなかなかきつい。麓から岩戸山頂上まで延々と石仏が並ぶ石段が続きます。あとで調べたら約800段なんだそうです。

十三仏
十三仏

十三仏というのは聖徳太子がこの山の南裏に瓦屋寺を建てた時、岩戸山に金色の光りを発する不思議な岩を見つけたそう。太子は仏のお導きということで、岩にたどりつき仏像を彫ろうとしたが道具がなかったので自らの爪で十三体の仏を刻んだということです。

岩戸山頂上には巨大な岩が何本かそそりたち、お堂がありました。古代から磐座として信仰されていた場所なんですね。眺めはよく、柴田勝家の瓶割山城がすぐ前に見えます。お堂を通り過ぎた奥から磐座に登る道があって、そこから小脇山城に到達できます。

釣狐 発祥の地

釣狐 発祥の地

釣狐 発祥の地
釣狐 発祥の地

勝楽寺城へえっちらおっちら登る途中に琵琶湖が一望できる眺めのよい場所があり、ここが狐塚。稲荷大明神が祀られています。ここが狂言の「釣狐」発祥の地なんだそうです。

「昔、この寺に白蔵主という和尚がいて、その弟に狩猟好きの金右衛門という男がおった。和尚はいつも殺生を戒めていたが、ある日、白蔵主は外出して山道にさしかかった時、金右衛門に見つかり、白狐とまちがえられて殺され、はじめて金右衛門は白狐が兄とわかり、平素の殺生の戒めに気づいた」と云い伝えられています。この話を元に狂言の「釣狐」が生まれたそうです。

へ~え。
ということで勝楽寺本堂では茂山家による「釣狐」が演じられているそうです。

婆沙羅大名 佐々木道誉

  • 少年ジャンプに「逃げ上手の若君」が連載されています。主人公は北条時行で、足利尊氏、新田義貞らによって鎌倉幕府が滅ぼされた時、一人逃げた少年です。ですので「逃げ上手」というわけ。後に中先代の乱という室町幕府存続に関わる大乱を起こします。

    ■婆沙羅大名・佐々木道誉
    連載では、ちょうど京都に来ていて魅摩というバサラで有名な佐々木道誉の娘と双六勝負などをしています。佐々木道誉といえば足利尊氏に協力し、政所執事や6ヶ国の守護をしていましたが、有名なのが婆沙羅(バサラ)です。バサラとは権威主義に反して派手な振る舞いや、粋で華美な服装を好む美意識で、今でいうと「チョー、ヤバい!」ですかねえ。戦国時代の歌舞伎にも通じていきます。

    ■魅摩とは?
    佐々木道誉が本拠にしたのが近江の甲良荘勝楽寺。ここに館がありました。勝楽寺にお墓があります。「逃げ上手の若君」は漫画ですが、けっこう深い作品になっていて佐々木道誉の娘の「魅摩」は道誉の書状に出てくる「ミま」からきています。実際の「ミま」の素性については諸説あります。また信濃守護の小笠原貞宗など日本史の教科書に出てこない武将などが登場します。行儀作法といえば小笠原流ですが、その小河原流の中興の祖です。
勝楽寺
勝楽寺

甲良神社

尼子郷の入口にあるのが甲良神社。祭神は武内宿禰です。

甲良神社
甲良神社

海の民だった宗形氏の娘の尼子姫が、大海人皇子の側室となり高市皇子(たけちのみこ)を生みます。高市皇子といえば壬申の乱で不破(関ケ原)で近江軍を打ち破ったことで有名です。またキトラ古墳か高松塚古墳の被葬者ではないかと言われています。

壬申の乱の後、天武天皇の時代に尼子姫はこの地に移って九州の高良(こうら)大社から武内宿禰を勧請して祭ったそうです。それで甲良(こうら)神社なんですね。尼子姫の名前から。この地は尼子と名付けられたと言われています。

佐々木道誉の孫である高久が、この尼子郷に居住して、名字を尼子としたことから戦国大名である尼子氏は始まりますが、甲良神社の神紋も佐々木氏と同じ四ツ目(□が4つの紋)になっています。

在土八幡神社

藤堂高虎の出生地にあるのが八幡神社。藤堂家の先祖が石清水八幡宮から分祠して建立しました。この時に紫藤を植えて子孫繁栄を祈願し、これが樹齢250年と言われる紫藤樹になっています。この藤が藤堂村の由来になったんですかねえ。毎年、5月に藤切祭が行われ、切り取った藤房を東京の藤堂宗家に送っているそうです。もっとも紫藤樹も雪の中では枝を見るだけです。

在土八幡神社
在土八幡神社

現在の本殿は2代目津藩主である藤堂高次が再興しました。藤堂家では先祖の地として毎年、五十石を八幡神社に寄進していたそうです。

藤堂高虎 出生地

尼子城の近くに近江国犬上郡藤堂村があります。戦国武将である藤堂高虎が生まれた所で、銅像が建っています。

藤堂高虎
藤堂高虎

藤堂高虎には「武士たるもの七度主君を変えねば武士とは言えぬ」と言った逸話がありますが、当時は能力がなければ主君を見限ることが当たり前でした。江戸時代に朱子学が入ってきて「忠臣は二君に仕えず」となっていきます。

藤堂高虎は浅井長政に足軽で仕えるところからスタートし、阿閉貞征、磯野員昌、織田信澄と主君を変えながら巡り合ったのが羽柴秀長。馬が合っていたようで秀長が亡くなるまで仕え、養子の羽柴秀保が後を継ぐと若い秀保の代理として活躍しています。ところがこの秀保も早世してしまいます。出家して高野山に入りますが、惜しんだ秀吉が説得して大名に返り咲かします。秀吉が亡くなると元々親交があった家康に接近することになります。

藤堂高虎は190センチメートもの身長で満身創痍の傷だらけと伝わっています。

■藤堂高虎、出世の白餅
阿閉貞征から出奔し浪人生活を送っていた時空腹のあまり、三河の吉田屋という餅屋で無銭飲食します。店主の奥さんが近江出身ということもあり、「故郷に帰って親孝行するように」と諭され路銀まで与えられます。後年、大名となった高虎が参勤交代の折に立ち寄り、餅代を返したという話は講談でおなじみです。ちなみに高虎の旗指物は「三つ餅」です。