塚口城 荒木村重vs織田信長

塚口で専門家派遣のお仕事だったので、仕事終わりに塚口城へ

塚口城

阪急塚口駅の北東側一帯に塚口城はあります。もともとは塚口御坊という浄土真宗の寺内町で一向一揆の拠点でした。荒木村重が有岡城の出城として整備し、水堀と土塁が造られます。織田信長軍が塚口城を攻略して有岡城攻め付け付城としました。丹羽長秀などが布陣します。

塚口城は南西に南町門、東に東町門、北東に清水町門、北西に北町門と四ヶ所に門がありました。城跡はすっかり市街地となっていますが、それぞれの門のところには祠が建てられ、祠の所だけ土塁が残っています。また北側と東側の堀は細い水路として名残を残しています。

古代・城山城

唐が新羅を支援して百済を攻撃し660年に百済は滅亡します。百済の王族や遺臣たちは倭国と連携し百済復興運動を起こします。日本・百済遺臣の連合軍が唐・新羅連合軍に挑みますが、663年に白村江の戦いで大敗します。昔、日本史で習いましたね。

これにあわてたのが天智天皇。唐・新羅による日本侵攻を想定して防衛網強化に動きます。百済遺臣の協力で朝鮮式古代山城の防衛砦を整備、また防人制度を整備します。大宰府には水城や大宰府全体を取り巻く羅城が作られました。岡山の鬼ノ城、大阪の高安城などが造られましたが、この時と共に造られたのが播磨の城山城。

古代・城山城
古代・城山城

■古代・城山城
中世には赤松氏の山城となりましたが城山城には古代山城の遺構がいくつか残っています。城山城を「きのやまじょう」と呼びますが、岡山の鬼ノ城も「きのじょう」で、大宰府の基肄城「きいじょう」ですから「き」は城をさす古語だったようです。

山を石塁が取り囲んでいますが、1300年前の石塁が一部残っています。大阪の高安城も城山城と同様に古代山城、中世山城として利用されました。

播磨・城山城 嘉吉の乱の舞台

播磨国・龍野にあるのが城山城。「きのやまじょう」とよみます。

城山城
城山城

築城したのが赤松則祐で10年以上かけて整備した山城です。赤松則祐の孫が赤松満祐で嘉吉の乱を起こした人物です。将軍が殺された幕府は統制がとれず、なかなか討伐軍を組織できませんでしたが、ようやく播磨へ出立。最後に立てこもったのが城山城ですが山名一族の大軍に包囲され、一族70人近くが自刃して果てました。

城山城は亀山(きのやま)の山頂にあり、麓から1時間ほどで登れます。土橋や竪堀などの他、屋敷跡の削平地がたくさんあります。山の上なのに水の手もあり籠城するにはもってこいの城です。城跡はきれいに整備され、瀬戸内海や姫路の街を一望できます。

有岡城 北ノ口砦址

有岡城は総構えになっていました。総構えとは城だけでなく城下町も含めて外周を堀や石垣、土塁で囲い込んだもので、後北条氏の小田原城が堅固な総構で秀吉の小田原攻めに対抗しました。

北ノ口砦址
北ノ口砦址

有岡城は伊丹礫層(れきそう)の上にありました。古武庫川の氾濫した原っぱや三角州の堆積物で花崗岩の礫を多数含んでいます。伊丹段丘はこの伊丹礫層が堆積した地形面で、伊丹段丘北端では標高40mを越えます。この高台に有岡城や城下町が造られ守りやすい地形になります。

ですので伊丹の街を歩いていると、この高低差が楽しめ総構えの中にいるのかどうか判断できます。この総構の北側にあったのが北ノ口砦址です。けっこうな高台になっているので守るには最適ですね。現在は住宅地になっています。

斉藤利三屋敷跡

黒井城の麓に城主の館があります。黒井城は詰城で奥の山上に見えるのが黒井城です。

斉藤利三屋敷跡
斉藤利三屋敷跡

館跡は現在は興禅寺になっていますが、堀や石垣が残っています。赤井氏を滅ぼした後、光秀が統治することになり黒井城に入ったのが斉藤利三。そう「本能寺の変」の主要人物です。この館跡に入りました。

■斉藤利三
斉藤利三の兄が近年発見されて有名になった石谷家文書(長宗我部との交渉)の石谷頼辰で、兄や明智光秀と同様に幕府の奉公衆の出身です。斎藤義龍に仕え織田氏に寝返った稲葉一鉄の家来か与力だったようです。ところが稲葉一鉄と衝突して出奔、光秀が召し抱えることになります。大河ドラマ「麒麟がくる」でも、このシーンが出てきました。

■春日局出生地
反対に光秀が斉藤利三をヘッドハンディングしたという話もあり、これは当時の御法度で、信長が斉藤利三を稲葉に返せと言っても光秀が聞かず、それなら切腹させろと言ったのが「本能寺の変」につながったという説もあります。斉藤利三はできる人物だったのは間違いなかったようです。家族は坂本城にいましたが、黒井の屋敷に移り、生まれたのが春日局です。興禅寺の門前には春日局出生地の碑が建っています。

黒井城

黒井城、別名を保月城ともいい主郭跡には保月城の碑が建っています。

黒井城
黒井城

明智光秀の丹後攻めで光秀の前に立ちはだかったのが黒井城の赤井直正です。光秀は黒井城を取り囲み、攻城戦が続いていた時に八上城の波多野軍が突如、裏切り、光秀の背後をついたため総崩れとなりました。これで丹後攻めはしばらく中止となり、光秀は本願寺攻めなどいろいろと転戦します。2年後、光秀は細川藤孝、細川忠興とともに再度、丹後平定にのぞみます。赤井直正が病死したこともあり八上城と黒井城の連携を遮断し、まず八上城を落とし、黒井城も落城しました。

黒井城はよく整備されており360度、一望できます。これだけ眺めがよい山城も珍しいですね。石垣や枡形虎口跡も残っていますが山頂ですので冬は寒かったでしょうね。帰りは東出丸(なかなか見ごたえがありました)に降りる道を選択しましたが、これが崖のような山道で、下に着いたら「険しいけど最短ルート」という案内がありました。上にも書いておいてよ!

丹波篠山城

関ケ原の合戦が終わり、豊臣側が多い西国大名の抑えとして造られたのが丹波篠山城です。波多野氏の八上城は廃城となりました。

馬出
馬出

藤堂高虎が縄張を担当し、普請総奉行が池田輝政で15か国20の大名の助役による天下普請により6か月で完成しました。特徴的なのが3つの出入り口に造られた馬出です。虎口の外側に郭を築いて防御力を高めたものです。武田氏がよく用いたのが丸馬出で、北条氏は角馬出を使っていました。丹波篠山城ではこの各馬出が整備されています。

残念ながら大手馬出は市街地化で埋められてしまいましたが、南馬出は完全な状態で残っていて、東馬出も原型をとどめて公園になっています。南馬出だけは石垣は使われず土塁のみで作られており、馬出の郭は工事車両の駐車場になっていました。

竹中半兵衛の墓

三木城を攻める平井山付城の麓に竹中半兵衛の墓があります。

竹中半兵衛の墓
竹中半兵衛の墓

竹中半兵衛といえば稲葉山城のクーデターが有名です。美濃・齋藤龍興の家臣でしたが一部の側近を寵愛して政務を顧みなかったため、わずかな手勢で稲葉山城を乗っ取り、齋藤龍興を城から追い出します。半年ほど稲葉山を占拠し、その後は引退していました。織田信長が齋藤家を滅ぼすと秀吉に仕えることになります。

荒木村重が信長を裏切った時には秀吉の幕僚だった黒田官兵衛が説得に行きますが、荒木村重に閉じ込められてしまいます。帰ってこない黒田官兵衛に怒った信長は人質にあずかっていた黒田長政を殺せと命じますが、この時に黒田長政をかばったのが竹中半兵衛でした。

三木城の包囲中に病に倒れ、秀吉は京で養生するように戒めたが竹中半兵衛は「陣中で死ぬこそ武士の本望」と亡くなりました。

平井村中村間ノ山付城

平井山ノ上付城から谷を挟んだ隣の山にあるのが平井村中村間ノ山付城。土塁に囲まれた小さな郭があり、麓には兵が駐屯できる削平地があります。山への入口には竹中半兵衛の陣所跡となっていました。竹中半兵衛といえば秀吉の軍師として有名な武将です。

平井村中村間ノ山付城
平井村中村間ノ山付城

郭の北側がすごい垂直の崖になっていて、どう考えても攻撃できないような陣地です。小さな付城なんですが、見事ですね。

平井山ノ上付城

織田信長といえば、よく裏切られた人物で、その一人が三木城の別所長治。秀吉の傘下に入って毛利氏攻めの先鋒を務めるはずが、逆に毛利と通じて三木城に籠城することになります。

平井山ノ上付城
平井山ノ上付城

織田軍は三木城を攻囲し兵糧を断つことにしました。三木城の周りに付城をたくさん築き、包囲網を築きます。中心となったのが平井山ノ上付城で織田信忠が造りました。その後、秀吉にまかせ秀吉の陣所となります。これが有名な「三木の干殺し」です。

付城群は国史跡となり、よく整備されています。平井山ノ上付城には兵が駐屯できる削平地がたくさんあり、主郭からは三木城がよく見えます。山城としては、あまり防御に徹した城ではなく、堀切もほとんどありません。別所軍とは平坦地で戦うことにしていたようです。