大石内蔵助屋敷・長屋門

大石内蔵助屋敷・長屋門
播州赤穂城に元禄時代の建物は残っていませんが筆頭家老だった大石内蔵助屋敷の長屋門だけは残っています。元禄14年3月14日に発生した松の廊下での刃傷事件を知らせるため、早かごが仕立てられ、江戸からわずか4日半という通常では考えられない早さで赤穂に到着したのが早水藤左衛門と萱野三平。大石内蔵助に知らせるため、この二人が叩いたのが、この長屋門です。
結局、浅野家は改易となり、大石内蔵助は城を明け渡します。残務処理の後、6月に京都・山科へ移動し、遊興にふけったとあります。映画、舞台では敵の目をあざむくためと描かれていますが、本当に遊んでいたのかもしれません。
お大石内蔵助は家再興を画策していましたが、潰えたため江戸に移動し、討ち入りとなります。切腹した赤穂浪士のお墓は泉岳寺にありますが、幕府は泉岳寺から1kmも離れていた高輪大木戸をわざわざ泉岳寺近くへ移転させます。品川宿と高輪大木戸はすべての旅人が通る道で、必然的に泉岳寺がクローズアップされます。旅人を通じて日本中に忠義の話が伝わるようにしたのは、幕府の教育政策だったようです。
赤穂、山科とも大石内蔵助の屋敷跡は大石神社になっています。

播州赤穂城

播州赤穂城
忠臣蔵で有名なのが播州赤穂城。
元禄の頃は海に面した城で、海が近いこともあり井戸を掘るわけにいかず、はるか先の千種川から上水道を敷設し、城内のみならず城下各戸にも給水するシステムを構築していました。
元禄14年、3代目だった浅野長矩が松の廊下で吉良義央に対する刃傷事件を起こしたことで浅野家は改易となります。この時、喧嘩両成敗ならよかったのですが、吉良は、おとがめなしとしたため、仇討ちにいたりました。もっとも浅野長矩は性格的に問題があったという説もあります。
幕府は仇討ちを後押ししていたようで、吉良邸が北町奉行所などがあった一等地の呉服橋門内から倉庫街の本所へ移され、さも討ち入りをどうぞという形にしたのは有名ですが、江戸幕府はいろいろと仕組んでいたんですね。まず赤穂浪士の1/3がひそんだのが麹町周辺。江戸城は半蔵門が正門ですので、麹町は目と鼻の先、岡っ引きを張り巡らしている幕府が黙認したとしか考えられません。赤穂城は堀と石垣だけでしたが、門や櫓などが復元されています。

能勢・森上館

森上館
能勢の栗栖の近くに岐尼(きね)神社があります。
式内社ですので歴史は古いですねえ。社伝によると782年(延暦元年)創始で、祭神には多田源氏発祥の源満仲も入っています。
神社の裏山にあるのが森上城と今西城で、岐尼神社のすぐ裏手には森上館があったようです。館の周りを土塁が巡っていたようで、この土塁の一部が竹藪の中に残っています。
戦国時代、平時は麓の館にいて、有事の際は詰めの城(山城)で戦うのがオーソドックスな形でした。朝倉義景の一乗谷もそうですし、甲斐の武田信玄も躑躅ヶ崎館が平時で詰め城が要害山城でした。
能勢には野間館と野間城もあり、なかなか館と詰め城セットを見る機会がないので、能勢はいいですねえ。

能勢・今西城

今西城
森上城の西に平坦地が続いており、ずっと行くと今西城があります。深い堀切が3方向にありますが、西側にだけ土塁があるので森上城とは一城別郭だったようです。つまり森上城の一部だったようで、森上城はかなり大きな城だったようです。
吉村城、森上城、今西城で能勢街道をおさえていたんですね。

能勢・森上城

森上城
吉村城から能勢街道を挟んだ反対側の山頂にあるのが森上城。
さすがにGoogleマップに山道まではのっていないので、適当にあたりをつけて登れそうなところを探して登り始めます。結局、山城までの道を発見できず、ひたすら坂を登って山城跡に到着しました。
月峯寺の往古水帳に森上殿という言葉が出てくるので、森上という地名を本貫とする武士がおり、地元の土豪だったようです。能勢なので多田院御家人だったのでしょう。
森上城の東側は尾根を3重の堀切で遮断し、西側にも堀切がありました。土塁に囲まれた広い郭が3つほどあり、それ以外にも削平地があるので、けっこうな人数を収容することができたようです。今は木が生えて眺望は望めませんが、当時は能勢街道をおさえる山城でした。

能勢・吉村城

吉村城
山辺城のすぐ近くにあるのが吉村城。
Googleマップでもバッチリ出てきます。山頂にありますが、山城の常ですが道がない。(笑)必然的に切岸を登ることになります。頂上まで登ると単郭があり、北東背後の尾根を堀切で遮断して土塁がありました。
防御はこれだけですので臨時的な城だったようです。天文年間(1532年~1555年)に吉村備前守盛光がいたと伝わっていますが、本当かどうかは分かりません。ここらあたり山城が多いので能勢街道をおさえるためのネットワークの一つだったのでしょう。

能勢・山辺城

能勢・山辺城
能勢・宿野へ行く途中にあるのが栗栖という土地。コメリやスーパーもある賑やかな一角です。この近くに城山と呼ばれる山があり、これが鷹爪山。能勢富士とも呼ばれ、山上にあるのが能勢で一番大きな山城である山辺城(鷹爪城)です。
能勢一族だった大町氏の城で大町氏は多田院御家人でした。山辺城は1579(天正7)年に織田信忠、信澄らに攻められた記録もあります。
麓に月峯寺というお寺があり、近くに住宅街がありますが、これが急坂が多い住宅街になっています。かなりの傾斜がある坂を登った一番奥の住宅地から直登すると城にたどり着きます。ちょうど郭をつなぐ土橋に出られました。
山辺城は3つの郭からなっていて、郭間はかなりの高低差があります。一番高い所にある主郭は広く、くびれた所に虎口があり、別の郭群に続いています。土橋や堀切もあり、きれいに整備されており、なかなか見ごたえがある山城です。

清和源氏発祥の地 多田院

多田院
清和源氏武士団発祥の地が能勢にある多田院。現在は多田神社になっていますが付近には多田院という地名が残っています。
源満仲が国司を務めた摂津に土着し、やがて多田盆地を開拓して家臣団を組織し、これが清和源氏武士団となります。能勢の国人だった能勢氏、野間氏、塩川氏などは多田院御家人となります。源満仲(多田満仲)が拠点にした多田院ですが、南と西を川に囲まれ、周囲は高台になっていて、まさに城郭です。
多田神社の付近の地図を見ると、すぐ近くに新田城山公園というのを見つけました。城山という名前がついているのは昔、城郭があったところです。調べてみると住宅地の建設で遺構は残っていませんが、ここにあったのが新田城のようです。塩川氏が拠点とした山下城の出城という説があるようです。

何もない花隈城

花隈城
神戸へ行ったついでに花隈城跡へ寄ってきました。元町駅のすぐ近くにあり、城跡はなにも残っていませんが石垣風の駐車場になっています。公園には碑が建っています。
JR線から、すごい急坂になっていて丘陵が突き出した一番先に城がありました。摂津を支配した荒木村重が織田信長に反旗を翻した時に有岡城(伊丹城)の支城となって織田軍の池田恒興などと戦います。荒木村重は毛利への援軍要請のため有岡城を抜け出し、尼崎城を経て花隈城に入りますが、結局、荒木村重は毛利に逃れ花隈城は落城します。
花隈城の北側の諏訪山には池田恒興と嫡男の元助が陣取り、生田の森(生田神社のあるあたり)には池田輝政が陣取っていました。元町周辺は戦場でした。勝った池田恒興は兵庫城を築城し、花隈城は廃城となります。古図が残っていた本丸、二の丸、三の丸まであった大きな城だったようです。

御着城

御着城
大河ドラマ「軍師官兵衛」の前半でよく出てきた御着城です。
大河ドラマでは片岡鶴太郎が播磨御着城主である小寺政職を演じていました。小寺政職は家老・官兵衛の進言に従って織田方についたのですが、別所一族や荒木村重の裏切りをみて毛利方につきます。織田は石山本願寺とも戦っており、けっこう危ない時期だったので判断としては妥当でしょう。
ところが織田はしぶとく生き残り、御着城は結局は織田に攻められて落城し、落ちのびます。小寺氏は播磨守護であった赤松氏の一族でした。
御着城は平城で川の水をひき堀にしていました。広大な敷地の城だったようですが、城跡は何も残っておらず、本丸跡は公園になっているだけです。JR御着駅から歩いて10分ぐらいのところにあります。