尼崎城

戦国時代、織田信長と戦った荒木村重が毛利の助けを求めるために伊丹にあった有岡城から逃げ込んだ先が大物城。大物城の近くに尼崎城が造られます。

尼崎城
尼崎城

元和3年(1617)に戸田氏鉄(徳川家康の近習)が入り、新しく尼崎城を築城しました。5万石でしたが3重の堀をもち、本丸には複合式の四重天守などが造られました。明石城、尼崎城、高槻城が防衛の要になる城で、また海運を抑えることから立派な天主が造られたようです。瀬戸内を航行する船のランドマークになっていました。

尼崎城の本丸は昭和時代になっても痕跡が残っていましたが、今は明城小学校の敷地となり堀も埋め立てられてしまいました。ミドリ電化の創業者が尼崎出身で天主を復元しましたが、場所は尼崎駅のすぐ近くで昔の西三之丸になります。5階建てで一番上は展望台。展望台からは昔の城下が眺めら、尼崎城の歴史が学べるようになっています。

大物城

大物崩れで大敗した細川高国が逃げ込もうとしたのが大物城です。ところが相手の動きが早く、入れずに尼崎の藍染屋にあった瓶の中に隠れていたところを捕まって自害させられたと伝わっています。

大物主神社
大物主神社

大物城の場所は分かっていませんが江戸時代の絵図に尼崎城本丸北東方に古城跡と記載されており、現在の大物主神社一帯と推定されています。城といっても柵で囲んだ簡易的な平城だったようです。大物には大物浦という港があり、交通の要衝でした。

大物主神社は三輪山の神様である大物主神を祭っていますが太田田根子の後裔である「鴨部祝(かもべのはふり)」が祖神をここに祀ったのが始まりと言われています。

江口城

天文18年(1549)6月12日~24日、上新庄にある大阪経済大学の近くで行われたのが江口の戦いです。争ったのは三好長慶と同族の三好政長で三好の総裁をどちらがとるかの戦いでした。

江口城
江口城

淀川と神崎川によって三方を囲まれた要害の地に江口城がありました。淀川の流域が大きく変わったこともあり今は住宅地に埋没していますが、大隅神社があったあたりと言われています。

三好政長が江口城で籠城していましたが、三好長慶が包囲して兵糧攻めにし孤立させます。三好政長は後詰になる近江の六角氏を待っていましたが、六角軍が江口城に到着する直前に三好長慶が江口城を攻め、疲弊していた政長軍は持ちこたえられず落城し、三好政長は討死します。江口城は三好長慶側の中川重清(中川清秀の父)が城主を勤めることになりました。

松永久秀屋敷跡

昨日の「麒麟がくる」では多聞山城にいる松永久秀を明智光秀が訪ねるシーンが出てきました。多聞山城にはチラッと信長が参考にした天守閣が映っておりNHKもなかなか細かいですね。天守閣を初めて松永久秀が造ったという説があります。同じく松永久秀が考えた多聞櫓はさすが映りませんでしたが。

松永久秀屋敷跡
松永久秀屋敷跡

■松永久秀の出身地
松永久秀ですが出身はよく分かっていません。摂津の東五百住(ひがしよすみ)説が濃厚で高槻城主だった入江氏の一族だったようです。古地図に松永屋敷と書かれたものがあり、現在も城垣内という字名が残っています。というわけで摂津富田へ出かけてきました。もっとも遺構は何も残っておらず住宅地と畑だけです。

「麒麟がくる」では冒頭に飯盛山城で亡くなる三好長慶が出てきますが、この三好長慶がなかなかすごい人物で、よそ者の松永久秀を抜擢し、やがてNo2にします。まさに実力主義。居城も越水城、芥川山城、飯森山城など次々に変えていきます。信長は大いに三好長慶を参考にしたようです。

大和田城

佃近くには城跡があり、仕事が終わってから行ってきました。

大和田城
大和田城

平城ですが、何も残っていません。もともとは石山本願寺の砦があったようですが、織田信長が石山本願寺が落ちた後に拠点にしたようです。神崎川近くで交通の要衝でした。

大和田城は太田牛一の「信長公記」に出てきます。出てくるのは荒木村重の裏切りの時で、安部二右衛門という武将が城主をつとめていて信長側でしたが父と祖父が反対し、荒木軍につき、天守に立て篭もったとの記載があります。大和田城には天守がある大きな城だったようです。何とか取り戻したようです。大坂夏の陣頃までは城があったようです。

城跡は何も残っていず説明版が大阪市立大和田小学校前にありました。

高槻城と高山右近

高槻でお仕事でしたので帰りに高槻城へ寄ってきました。

高山右近
高山右近

といっても城跡は残っておらず城址公園があるだけです。高槻城といえば高山右近ですが、高山右近がおさめた時期はそれほど長くはなく10年ほどです。戦国時代の高槻の城といえば三好長慶が本拠地とした芥川山城で、織田信長が摂津に侵攻し芥川山城が落城してからは平城の高槻城が中心に使われるようになります。

高山右近はキリシタン大名として有名でしたが洗礼を受けたのは奈良県宇陀郡榛原町にあった沢城。高山右近の父親である高山図書が沢城に入城し、教会が建てられておりルイス・フロイスも訪れています。

■危機一髪だった高山右近
荒木村重が信長に謀反を起こした時、荒木村重を説得するために高山右近は子供や妹を人質に差し出して話をして荒木村重は納得します。荒木村重を信長のもとへ連れていこうと茨木まで進むと重臣たちから反対の通知が届きます。摂津の領主を変えるぞという下からの突き上げで荒木村重は有岡城へ戻ります。

高山右近は人質が握られているので動けません。そこで信長は宣教師をおどして高山右近が荒木村重に加担しないよう説得にむかわせます。高山右近の父親である高山図書は荒木村重につきました。

枚方城

枚方の高台に枚方小学校があり、このあたりにあったのが枚方城です。枚方市駅から、えっちらおっちら坂を登った所にあります。と言っても枚方城の遺構は残っておらず、東西と南の三方が深い谷になっていて高低差があり、城の立地としては最適です。

枚方城
枚方城

もともとは枚方御坊があって寺内町が形成されていました。土塁や掘で囲まれていますので実質的に城です。織田信長の石山本願寺との戦いで焼き討ちされています。

枚方城主だったのが本多政康で百済王氏の末裔と称していました。枚方は新羅に攻められて亡命してきた百済王の一族が住んだところで、百済王氏の氏寺である百済寺跡があるので、可能性はあります。応仁の乱で焼けてしまった一乗寺と意賀美神社を本多政康が再建し、本多政康の墓は一乗寺にあります。秀吉の家臣でしたが大坂夏の陣では大坂方につき枚方城は徳川に攻められて落城、本多政康は戦死し没落します。

※でしたが「近畿の城郭」を読んでいると枚方城があったというのはガセネタという書込みがありました。これも椿井文書なのかなあ。調べなくては

槙島城-室町幕府終焉の舞台

宇治にある槙島城跡です。

槙島城-室町幕府終焉の舞台
槙島城-室町幕府終焉の舞台

京阪・宇治駅を降りて宇治橋を渡り、平等院には目もくれず槙島の住宅地を目指します。名前の通り、槙島は宇治川に浮かぶ島の一つで、元亀4年(1573)に槙島城の戦いが行われました。

槙島城にいたのが足利義昭で攻めたのが織田信長。城の遺構は残っていませんが若干、微高地になっているのと水路がいくつも通っているのが印象的です。日本史の教科書にも出てくる有名な戦いのわりには案内板も何もなく、城があった住宅地の小さな公園の一角にだけ碑が建っています。

■槙島城の戦い
「これしたらあかん!」とか口うるさい織田信長がきらいだった足利義昭は浅井長政、朝倉義景、石山本願寺、武田信玄と組んで信長包囲網を形成。挙兵しますが、この時には武田信玄が病死し進軍が止まります。織田信長軍に二条城や石山砦、今堅田砦を落とされ追い詰められた足利義昭は槙島城に籠りますが、織田信長が出陣して直接、攻撃します。

そうそう「麒麟がくる」では谷原章介演じる三淵藤英と眞島秀和演じる細川藤孝(三淵藤英の異母弟)が、それぞれ足利義昭側、織田信長側に分かれて戦うことになります。ついに足利義昭は降伏し、信長は秀吉に命じて河内にある若江城(足利義昭の妹婿である三好義継の城)に足利義昭を送り届け、実質的に室町幕府が滅びました。

大文字ー如意岳城

大文字の送り火が規模を縮小して行われましたが、昨年、登った大文字の火床です。京都御所などが島のように見られます。

如意岳城
如意岳城

この大文字の山頂一帯に築かれていたのが如意岳城です。堀や土塁跡などが残っていますが、ハイカーのほとんどは山頂からの眺を楽しんでいるだけです。城に関して案内板もありませんので、まあ仕方ないですね。。

如意岳城は志賀越えなど京と近江を結ぶ交通の要所をおさえる城でした。大文字の火床が並んでいるところを越えて、ひたすら登らないといけません。

「麒麟がくる」がまもなく放送再開しますが、向井理が演じる第13代将軍・足利義輝などが三好と争っていたので、しばしば如意岳城を活用していました。東山には中尾城、一乗寺山城、雲母坂城、東山城、東山霊山城などたくさんの山城があります。

森屋城

近鉄・田原本駅とJR巻向駅のちょうど真ん中ぐらいにあったのが森屋城。村屋坐弥冨都比売神社(村屋神社)一帯にあったと言われていますが、城の痕跡はありません。すぐ近くを大和川が流れているので水を引き込んで筒井城のように沼地の平城だったのでしょう。神社には池や周りに水路が残っていました。

森屋城
森屋城

宇陀には沢氏(高山右近の洗礼で有名)、芳野氏、秋山氏の宇陀三将がいて、多気の北畠と連携していました。秋山直国という武将が十市氏と争った時、十市氏が三好三人衆と結びましたので、秋山直国は松永久秀と結んで対抗します。永禄11年(1568)、十市遠勝に森屋城を攻められますが松永軍の後援を得て反撃し、十市氏の龍王山城を奪取したようです。やがて松永氏と敵対する側だった筒井氏と組むようになり辰市城の合戦において松永軍を破る功績を挙げています。