天正寺城

天正寺城

天正寺城

淡河城北側にある天正寺山に築かれたのが天正寺城で、日本城郭体系によると永禄4年(1561)に淡河氏領に有馬則頼が侵入して築いた城とされています。淡河氏はもともとは北条氏の一族で、地頭職として淡河に赴任した時に淡河氏と名前を変えたようです。

三木合戦となり天正寺城は淡河城西付城とあわせて淡河城攻めの付城として使われます。淡河城一帯が見える見晴らしのよい所にあります。城は、その後は使われなくなったようで城跡に愛宕神社が祀られることになりました。

階段を登り、次に山道を登りきると頂上に愛宕神社があり、ここが主郭になっています。少し下って尾根筋を進んでいくと二重堀切があり、他にも郭がありました。郭に入るところが土橋になっているところがありますが、後世に改変された可能性があります。

淡河(おうご)城

淡河城

道の駅「淡河」から台地の上にある淡河城を見ることができます。よく見えるのですが城に登っている人は誰もいません(笑)。道の駅近くの小道から川を渡って崖を階段で登っていくことができます。城があった頃は階段ではなく急な切岸で防御を固めていました。台地の上まであがると主郭があり、土塁が取り囲んでいます。虎口もしっかり残っています。天守台があったところには稲荷神社になっていました。土塁から見ると空堀が広く見事に残っていました。

1339年に赤松則祐が淡河城を攻めたという記録があり、この頃には城があったようです。後醍醐天皇が吉野へ移って南北朝時代がスタートした頃になります。戦国期には淡河氏の城となり三木合戦では別所長治側に味方したため秀吉が攻めます。その後は有馬則頼が城主となりましたが1601年に三田へ移ったため廃城になったようです。

滝野氏古城

滝野氏古城

柏原城から尾根伝いに移動できる丘陵上にあるのが滝野氏古城です。古城というので柏原城を造るまでの詰城だったようです。溜池の土手を登っていくと帯郭のようなものがあり、滝野氏のものと伝わる墓地があります。この墓地を登ると主郭に入ることができます。主格はU字型に高さ4mほどの土塁で囲まれており、唯一、土塁がない所は崖になっているので防御性はバッチリです。土塁と崖の間に少し隙間があり、ここが虎口でした。

第二次天正伊賀の乱の時に伊賀衆が使っていたかどうかは分かりませんが、戦いの最後には柏原城を織田側は仕寄りで攻めているので付城として使っていたのかもしれません。織田軍は4万とも5万ともいわれる兵で伊賀を6ケ所から攻めたため伊賀の惣国はこれで壊滅します。1年たたない間に本能寺の変が起きます。

柏原城

柏原城

柏原城 天正伊賀の乱 最後の激戦の舞台

織田信長が最初の頃に行っていたのがM&Aによる乗っ取り工作。伊勢国司の北畠家には息子の織田信雄をいれ支配下にします。当時の伊賀や甲賀は惣国と呼ばれる自治組織で盟主はおらず、皆で話し合って運営していました。堺の会合衆のようなものです。織田信雄が伊勢の隣の伊賀にちょっかいをだして散々な目にあいます。これが第一次天正伊賀の乱で信雄は信長から親子の縁を切るとまで言われます。

信長は伊賀の掃討を考え、四方から軍勢を攻め込ませます。これが第二次天正伊賀の乱で伊賀勢はゲリラ戦などで対抗しましたが大軍にはかなわず伊賀の南西隅へと追い詰められます。最後は柏原城に集結し、激戦になります。久しぶりに柏原城を訪れましたが、よく整備され、高い土塁で囲んだ郭がよく見えるようになっています。

城山城(見張台)

城山城(見張台)

城山城から尾根沿いに下っていくと見張台というところがあります。見張台の先は崖になっていて、現在は木々が多く何も見えません(笑)。ここから見張っていたのは初瀬街道から竜口に入る道になります。

城山城は百地三太夫(百地丹波)の城跡と言われていますので、忍者の城ですね。忍者といっても猿飛佐助などのような活躍はなく、島原の乱で一揆軍が籠っている城に忍者を忍ばせようとしましたが土地の方言が分からない、キリシタンが使う用語もわからないとあって全然ダメでした。他でも忍者を使ってみましたが、全然役立たず細川家では全員クビにしています。

■忍者の互助組織があった!?
細川家の分析では、どうも忍者互助組織みたいなものがあり敵味方双方に入っている忍者が情報交換して忍び込んだ証拠の武具を交換したりしていたようです。ところが島原の乱では相手側にそんな忍者はいませんので実力がばれてしまったというのが真相のようです。

城山城

城山城

竜口にある城山城です。竜口(龍口)という地名は室生にある龍穴神社への入口からついたようです。

竜口城は東側のピークに造られており、竜口城から尾根を進んでいくと西側のピークに城山城があります。城山城は竜口城に比べると少し小ぶりの郭で土塁に囲まれています。竜口城とともに運用した一城別郭だったのでしょう。こちらも百地三太夫の城と伝わっています。百地三太夫は石川五右衛門や霧隠才蔵に忍術を教えたという伝説があり、架空の人物ともいわれています。ただ百地氏は存在ししたので、その一族の城でしょう。

城山城は伊賀と大和の境にあり、天正伊賀の乱では初瀬口より織田軍の浅野長政が攻めましたので最前線の城になります。伊賀衆は赤目口にある柏原城に集結して織田信長軍と戦ったので竜口城と城山城は放棄したのでしょう。柏原城の戦いでは伊賀衆を率いていた百地丹波という人物の名前が残っています。大河ドラマ「どうする家康」では、神君伊賀越で嶋田久作が老人の百地丹波を演じていました。

竜口城

竜口城

近鉄・赤目口駅から1時間ほど歩くと竜口という山間の集落に着きます。さらに坂を登っていくと切通しになっているところがあり、ここが竜口城(百地丹波城)入口です。ハシゴを登ると急斜面がまっていますが山道が整備されていてピークまで登ることができます。伊賀と大和の境に築かれています。

地元では伊賀忍者の開祖である百地三太夫の城と伝わっています。平時は竜口の屋敷に住み、何かあった時のための詰城でした。主郭は土塁と帯郭に囲まれ、きれいに整備されていてベンチまでおいてありました。山城には珍しく至れり尽くせりです。郭には白菊稲荷が祀られていて登山口にあった鳥居は参道でしょう。気軽にお参りというより、なかなか過酷な参詣道です。

脇坂安治陣跡

脇坂安治陣跡

松尾山城の麓にあるのが脇坂安治陣跡。

土塁に囲まれた郭跡があり、かなりの軍勢が駐屯できましたが、小早川秀秋が攻めてきたら、あっという間にやられますね。

脇坂安治は賤ヶ岳の七本槍の一人で、洲本藩主になった時に壮大な山城・洲本城と造ります。脇坂安治は家康側でしたが大坂にいた時に石田三成が挙兵したために、やむをえず西軍として参加します。小早川と一緒に西軍を攻め、家康も事情は分かっていたようで戦後処理でも所領は安堵になりました。脇坂家は龍野をおさめることになり明治まで続きますが、おかげで古文書が伝わり、最近、秀吉と脇坂安治がやりとりした文章が見つかります。

伊賀をおさめていた脇坂安治に京都御所造営の材木調達なんかより戦働きしたいとサボっていると、しっかり材木を出せと叱責している秀吉の手紙です、子飼いのきやすさが伝わる手紙になっています。

松尾山城

松尾山城へ

松尾山城

小早川秀秋が本陣をおいていた城で、主郭からは関ケ原が一望できます。松尾山城は廃城になっていた城を修復して使ったもので、主郭の周辺には5つの郭があり、かなり技巧的で見ごたえあります。関ヶ原の戦いでは松尾山城には伊藤盛正が入っていましたが、小早川秀秋が追い出して入城します。

■不遇だった秀秋
小早川秀秋は秀吉の甥っ子で豊臣秀次につぐ後継者候補でした。ところが秀頼誕生によって運命が狂わされます。毛利一族の小早川家に養子に出され、秀吉に領地を減らされたり散々な目にあいます。そら豊臣家には恩よりも恨みの方が強いでしょうね。

決戦日前日に1万5千もの軍勢を松尾山城へいれます。関ケ原には大谷刑部しかおらず、大垣城を守っていた石田三成ら西軍の面々は小早川に対抗するため、関ケ原へ移動します。戦いが始まると小早川秀秋は日和見をして、家康に鉄砲を打ちこまれるシーンがドラマに出てきますが、実際はさっさと東軍についていたようで、ただし山を下るのに1時間ほどかかります。小早川勢に向けて陣を構えていた大谷刑部は攻撃を跳ね返しますが、結局は破られてしまいます。

関ケ原勝利の立役者になり岡山55万石となりますが、無類の酒好きで子供の頃から飲んでいたため22歳の若さで病死しています。無嗣断絶だったため小早川家は改易となりました。

播磨白山城

播磨白山城

書写山円教寺の大講堂、食堂、常行堂で帰る観光客が多いのですが、ここから白山権現を目指して、もうひと登りします。頂上にあるのが十地坊跡という開けた場所で土塁や2つの郭跡などが残っています。ここが秀吉と黒田官兵衛が本陣をおいた白山城です。

天正6年(1578)3月、三木城の別所長治が織田信長から毛利方に寝返ります。4月、尼子氏再興のために山中鹿之助が上月城を守っているところを毛利氏が攻めます。秀吉は後詰をしようとしましたが、うまくいかず信長の命令で上月城の救援をあきらめ書写山に入ります。翌月に上月城は落城。山中鹿之助は毛利に連行される途中で殺されます。9月には荒木村重が信長を裏切り、説得するために伊丹城へ向かった黒田官兵衛が幽閉されることになります。大河ドラマ「軍師官兵衛」でやっていましたね。

東に別所氏、西に毛利氏に挟まれる状態で両方に対応できるよう書写山に陣を構えます。北側の眺めがよく、真正面の城山山頂に築かれいる置塩城を見ることができます。赤松氏の居城でしたが、秀吉に降伏しました。