朝倉景鏡邸

朝倉景鏡邸

下城戸の近くに朝倉景鏡邸跡があります。朝倉館と同様に土塁と堀に囲まれた城郭建築になっていますが、堀は埋められ土塁はかなり低くなり野原です(笑)。こんな所を見学している人はまずおりません。

■義景を裏切った人物
朝倉景鏡という有名人の邸宅跡で、なんで有名かと言えば朝倉義景を裏切った武将として有名です。景鏡は朝倉一門ですが浅井長政を救援するための小谷城出兵を拒否します。結局、朝倉義景自らが小谷城へ出陣しますが、敗れてしまい、信長はそのまま追撃して越前まで侵攻してきます。景鏡は朝倉義景に一乗谷を逃れて越前大野での再起を進言します。朝倉義景は従いますが、実は裏切りで自刃に追い込まれます。

朝倉景鏡は信長に降伏し許され、信長の字を拝領して土橋信鏡と名乗るようになりますが越前一向一揆で戦死してしまいます。

武田勝頼が信長に攻められて滅ぶ時、小山田信茂が同じように裏切りますが、この時は不忠ということで処刑されてしまいます。この違いはなんなんでしょうね。朝倉景鏡は義景との関係が微妙だったので、信長とそれ以前から通じていたかもしれません。一乗谷は信長軍によって火をかけられ灰燼に帰します。

トイレ(一乗谷)

トイレ(一乗谷)

戦国時代、一乗谷には1万人ほどが100年にわたって生活していました。堺が3万人、信長の安土が6千人ほどからスタートして最盛期は1万5千人ほどでしたので、一乗谷は都会だったようです。往時の街並みの一部が発掘調査に基づいて復元されていました。

復興した戦国の街は周りに電線などがなく、よく映画やテレビのロケに使われています。城下町としてよく整備されていたようで、各家には井戸とともにトイレが完備されていました。トイレは穴を掘ったボットン便所で、堆肥に使っていました。発掘調査で和式トイレにある金隠しが発見されたためトイレと判明しました。また火縄銃の部品や坩堝、弾丸なども見つかり城下町には鉄砲工房もあったようです。

朝倉館

朝倉館

一乗谷の中心部にあるのが朝倉館。入口の唐門が写真映えするので観光客は唐門ばかり撮影しています。朝倉館は完璧に城郭仕様になっています。特に南西の土塁は広く櫓がおかれていたようです。館の裏側にまで登りましたが、深い堀が続いていて防御は完璧ですね。

■足利義昭 元服の舞台
ここに最後の当主になった朝倉義景が住んでいました。三好衆から逃れてきた足利義秋(還俗し逃亡中)を迎え、朝倉義景がここで烏帽子役となり元服を行い、足利義昭と名乗るようになります。

足利義昭は3年間、滞在しますが織田信長に乗り換えることになります。一乗谷は安波賀の港から三国湊につながっていたので交易品もよく入っていました。館跡からはガラス容器(ベネチアングラス)などが発掘されていますので、朝倉義景も信長のようにワインを楽しんでいたかもしれません。

上城戸

上城戸

下城戸と対になるのが南を守る上城戸です。下城戸と上城戸ではさまれた地域が一乗谷になります。上城戸は土塁と堀で構成され、土塁の長さは100mを超え、高さは5mあります。大宰府を守る水城のような感じですね。賤ヶ岳の合戦で秀吉が作った東野山砦から堂木山砦まで結んだ土塁もこんな感じだったのでしょう。

上城戸の山側には平坦地が作られ櫓があったようです。あとで確かめると上城戸の外側に美濃から逃れてきた斎藤龍興や近江の浅井氏などの有力武将の屋敷もあったようです。その先には足利義昭が滞在した安養寺跡もありました。上城戸でUターンしたんですが、もうちょっと先まで足をのばせばよかったなあ。

下城戸

下城戸

いよいよ一乗谷へ

入口は下城戸です。安波賀から一乗谷に入るところが最も狭まっていて、ここに造られたのが下城戸です。土塁は山裾の川まで続いており、北側には幅10mほどの堀があり、一乗谷に入るには下城戸を突破するしかありません。枡形になっていて防御は完璧です。

朝倉宗滴邸

朝倉宗滴邸

朝倉宗滴という人物がいます。朝倉家の歴代当主を支えた歴戦の勇士でゲーム「信長の野望」にも登場します。

朝倉宗滴話記で有名です、数多くの戦闘体験をもとにした教訓で戦国武将の心得がよく説かれています。例えば、名将とはいちど大敗北を喫した者だという言葉があり、失敗した大将は、反省し、作戦の立て方を練り直すことで磨かれるといった意味です。朝倉宗滴自身は自分は勝ち戦ばかりで敗けなかったので名将になれなかったと謙虚なのかマウントをとっているのか、よく分からないことも言っています。「武者は犬とも言え、畜生とも言え、勝つことが本にて候」、どんな手段を使っても勝たなくてはいけないとも言っています。

一乗谷入口が安波賀という港になっていて、ここに朝倉宗滴邸があります。越美北線沿いにあり、近くの西山光照寺跡は案内板がありますが、こちらは何もありません。Googleマップは優秀でちゃんと表示され、三方を土塁で囲まれた区画が邸宅跡でした。

稲八妻城

稲八妻城

稲八妻城(いなやつまじょう)

京都の南側・相楽山城で起こったのが山城国一揆です。発端は応仁の乱で1470年以降に相楽地域の武士も東西両軍に分かれて争うことになりますが、やがて厭戦気分が高まり、1477(文明17)年に久世、綴喜、相楽の3郡の国衆が集まり、一揆を起こします。一揆といっても江戸時代の農民一揆ではなく共和国の設立です。

最終的にはうまくいかず、国衆ら数百人が稲屋妻城に籠城し、激しく抵抗しました。稲屋妻城については2つの説があり、その一つである政ケ谷城には先日、登ったのですが、もう一つの説では政ケ谷城の北側にある城山です。

麓に武内宿禰をまつった武内神社があり、神社の裏側から登山道が続いています。ずっと上まで登ると土橋や郭がありましたが、浄水場が山の上に造られており、ここにあった郭は破壊されたようです。途中に展望があり精華町の町を見下ろすことができます。

川曲の坂下(一心寺 陣城)

一心寺 陣城

峯城近くに「天武天皇 河曲頓宮跡」があり、行ってきました。古城と同様に八島川に面する高台にあり現在は一心寺があります。

壬申の乱で大海人皇子が吉野から桑名へ向かう途中、川曲の坂下(かわわのさかもと)で日が暮れてしまい、おまけに雨が降出してきたので休む間もなく、三重の郡家に至って家一軒を焼いて暖をとったという記事が日本書紀に出てきます。場所についてはいろいろな説がありましたが、伊勢の国府政庁跡が近くで見つかり、このあたりを公道が通っていたことが確実で、ほぼ間違いないと言われています。

一心寺ですが、寺なのになぜか土塁が残っていて、どうみても城ですね。奥の方の竹藪は郭跡のようでした。峯城攻めの時に陣城として使われていたようです。

古城

古城

峯城を築城する前の峯氏の居城だったのか古城という名前になっています。天正11年(1583年)、賤ヶ岳の戦いの前哨戦として柴田勝家と連携していた滝川一益の亀山城、峯城を秀吉が自ら軍勢を率いて取り囲みます。峯城の周りに陣城を造り持久戦となりました。この古城もその時に改造されたようで峯城に向けた新たに横堀などが掘られています。

峯城から八島川を越えて東側にある高台の上に古城はあります。近くを道が通っていて案内板があり、古城に入れる虎口が近くにあります。藪だらけですが、そこは躊躇なく突入しましょう。虎口から郭に入るので周りを取り巻く土塁にあがると藪をさけて八島川の方まで進めます。3つほどの郭から構成された城で、峯城がよく見えます。

落山城

落山城

峯城の西、安楽川に向かって南東へ伸びた丘陵に落山城があります。

亀山梱包センター西の農道奥に城趾の標柱があり、ここから崖を直登します。あとで確認すると西にずっと行くと山上まで続く農道があったそうです。苦労して登ったのに!

直登すると尾根に出ますので、ひたすら登っていくと土塁で囲まれた2つの郭があります。別の尾根に一段下がった郭もありましたので4つほどの郭で構成されているようです。削平地が広いので大量の部隊が滞在できるので、峯城の出城説もありますが1584年(天正12年)に峯城を攻撃するための羽柴秀吉の陣城の可能性が高そうです。ただ秀吉側とすると技巧的な造りになっていない点が疑問です。南側の遺構が消滅しているので、こちらにあったかもしれません。