丹波黒田城

丹波黒田城

丹波黒田城は園部川北岸の山頂に築かれた山城です。熊鈴を鳴らしながら登山道を登っていくと木に「黒田城 →」と記載された札がかかっています。これをたよりに登っていくと尾根の先端にたどりつき、ここにあるのが南出丸という削平地です。ここから急勾配の尾根をひたすら登っていくと南郭があります。南郭に入る前に谷まで伸びる2つの畝上竪堀があり、かなり深い堀でよく残っていますねえ。なかなかのスケールです。

南郭からさらに登ると頂上にある主郭に入れ、主郭にはお地蔵さんが祀られていました。ここから各尾根に郭が配備されていて北郭、東郭を巡って土橋や堀切などを楽しんできました。丹波黒田城はこのあたりの土豪である森氏が築城したようです。

■明智光秀に攻められて落城
森氏は八上城主の波多野氏とともに反信長側でしたので波多野氏などの応援をうけて城を整備したようです。天正8年(1580年)、明智光秀の丹波攻めにより、丹波黒田城は落城します。

園部城 堀跡プール

園部城プール

園部藩、250年間の悲願だった陣屋から城への転換ですが、結局、明治4年(1871)の廃藩置県で園部藩が廃止され、多くの建物が取り壊されました。せっかく建てたのに、もったいない。

園部城の本丸跡は園部高校の敷地になっていますが、切岸などを外から眺めることができます。隣は園部公園になっていて南丹市国際交流会館があり、外観が城郭風につくられているので、こっちを園部城と思っている人も多いでしょう。この会館前にプールがあって、会館から公園に行けるようにプールの上を通路が通っています。上から眺めると50mほどもあるプールで、どうみても堀跡です。

藤堂高虎が藩祖の津藩では隣に支藩となる久居藩を作りましたが、こちらも陣屋しか認められなかったのですが、溝と呼んで実際は堀を造っていました。念願は城でしたが久居藩はかないませんでした。そうそう日本海軍・軍艦の艦橋は、あの船に負けるなと、どんどん高くなっていったそうです。日本人は昔から櫓や艦橋などランドマーク好きですね。

日本最後の城「園部城」

園部城

京都府の園部町にあるのが園部城です。日本で最後に建造された城になります。元和5年(1619年)に外様大名である小出氏が但馬国出石城より移封され園部藩となりました。藩主には国主、準国主、城主、城主格、無城とあるなかで園部藩主だった小出氏は無城でした。築けたのは陣屋だけですが二重の堀や狭間を設けた塀もあり、実質的には総構えになっていて城でした。

ただし天守はおろか櫓や櫓門の建築は認めてもらえず城としてランドマーク不足で、ずっとコンプレックスだったようです。幕末の動乱期、園部は山陰道で京都に通じていますので、これはチャンスと禁裏を守るのを名目に幕府に櫓などの建築を申請したところ却下。再度、調整すると徳川慶喜が建築を内諾しましたが大政奉還でうやむやに。明治新政府ができたので願い出たらようやくOKとなり、水堀などを整備して園部城を造ります。ところが明治6年には廃城になってしまいます。

園部城は二重櫓、番所、櫓門がそのまま残っており、敷地は園部高校になっていて櫓門は校門になっています。

赤松広秀居館跡

赤松広秀居館跡

竹田城へ登る駅裏登山道近くに法樹寺があり、寺の奥に段丘状の削平地があります。こんなところはGoogleマップでも出てこないし、観光客は誰もいません(笑)。

発掘調査で石垣や石列が確認され、竹田城の一部として史跡に追加指定されています。赤松広秀の居館跡とみられています。赤松広秀は最後の竹田城城主で、もともとは龍野城城主でした。秀吉の中国攻めに従いましたが、龍野城を取り上げられていました。備中高松城の水攻めにも参加しています。小牧・長久手の戦いの後、竹田城へ移されます。

竹田では漆器作りや養蚕業を奨励していました。関ヶ原の戦いでは西軍に味方し細川幽斎の田辺城(舞鶴)攻めに参加しましたが、西軍が敗れたため帰還。説得され東軍となり西軍側の鳥取城を攻めましたが城下を焼き討ちしたことを咎められ、家康から切腹を命じられ、竹田城は廃城となりました。

竹田城 畝上竪堀

竹田城 畝上竪堀

竹田城の見学はワンウェイになっていて、南千畳から舗装路まで山道を降りますが、降りてから入口に登りなおすと畝上竪堀をみることができます。畝上竪堀とは平行に何本も竪堀を掘り、敵が斜面を横に移動するのを防ぎ、一列に並ばせて効率的に攻撃できるようにする仕掛けです。田んぼの畝のように見えることから名づけられました。

竹田城には何本か畝上竪堀があるんですが、見事なのが2本が並行する大竪堀です。山上から麓まで巨大な竪堀が掘られました。だいぶ埋まってはいますが、その一部を見ることができます。いやあ、いいものが見られました。

竹田城

竹田城

天空の城で有名な竹田城へ登ってきました。

12月は中腹まで登れるバスもなくなるため、竹田駅からえっちらおっちら登るしかありません。その代わり観光客はほぼいません(笑)桝形虎口など技巧的な縄張りを楽しんできました。

竹田城を築城したのは但馬守護だった山名宗全で、城主が変わるたびに改修されてきました。次回の大河ドラマは豊臣兄弟ですが、播磨、但馬を攻めた秀吉が竹田城の城代にしたのが羽柴秀長です。近くにある生野銀山をおさえる目的もありました。秀長は竹田城を中心に但馬の統治と山陰方面の平定をしています。

北千畳曲輪、南千畳曲輪、花屋敷曲輪の3つの曲輪群から構成され、それぞれ桝形虎口が作られています。山の上にこんな技巧的な城をよく作りあげましたね。

大和三山をゆく(6) 耳成山(天神山城)

耳成山(天神山城)

大和八木駅近くにあり大和三山で一番きれいな円錐形をしています。なんで大和三山のハイキングにつきあったかと言えば耳成山の頂上が山城跡なんです(笑)。最後に山城が待っているなんて素敵じゃないですか。

中大兄皇子と鎌足が密談した談山神社が有名ですが、平安末期頃から多武峰一帯に城が築かれて多武峰城塞群ができあがります。大和の国は僧兵(衆徒)をかかえた興福寺が支配し、守護がいない特異な地域でした。ところが衆徒(国人)の間で戦ったりする割には外部からの侵入があると一致団結したりします。

■天神山城
永正3年(1506年)に室町幕府に派遣された赤沢朝経が多武峰城塞群、龍王山城、二上山城にたてこもった大和衆を攻撃するために築いた陣城が天神山城です。頂上ちかくに耳成山口神社があり、ここから登っていくと城跡で
耳成山の頂上が主郭となり、周りを郭が取り囲んでいます。ハイキング客も多いのですが、城跡だと思ってみている人は一人もいませんね。

和歌山城

和歌山城

和歌山でお仕事だったので、まずは和歌山城へ

和歌山へ行くたびに寄っているのでたぶん10回以上は来ています(笑)

和歌山城を造ったのは来年の大河ドラマ主人公である豊臣秀長です。秀吉の紀州征伐のあと、秀長が紀伊もおさめることなりました。そこで虎伏山に平山城を築き拠点としました。これが和歌山城です。江戸時代になると徳川家康の十男・頼宣が入り、紀州徳川家となります。

城のあちこちに秀長時代の野面積みの石垣が残っています。もう少し後の切込みハギと混在するのが楽しめます。

辰市城

辰市城

中ツ道の終点が東九条町だったので、ちょっと歩いて辰市城跡へ。

主郭があった場所は辰市幼稚園でしたが、久しぶりに行ってみると南部公民館東九条分館になっていました。住宅地になっていて城跡は残っておらず水路跡が堀跡かなという程度です。

ここが有名な「辰市城の戦い」の舞台です。松永久秀と筒井順慶が大和の覇権を争っていました。大河ドラマ「麒麟がくる」でも二人の対立が描かれていました。松永久秀が信貴山城、筒井城、多聞山城という城をつないだネットワークを築いていましたが、そこにクサビをうつために筒井方が辰市に城砦を築きます。急ごしらえの城郭でしたので松永久秀方が攻めたてますが筒井方の後詰があらわれ、松永方が敗戦。松永久秀の大和支配がゆらぐ分水嶺の戦いになりました。

中ツ道をゆく(13) 東九条城

東九条城

今市城から中ツ道に戻り、北上すると五徳池があります。単なる溜池に見えますが、平城京の時代から存在し、当時は越田池と呼ばれていました。この近くで奈良時代に瓦を焼いた窯跡がみつかり、光明皇后に関連した木簡に出てくる越田瓦屋の跡とみられています。

平城京の参考にした長安(唐)の南東端には曲江池があり、平城京を造る際に真似して越田池をつくった説があります。池のほとりに白山神社があり、このあたりにあったのが東九条城で小字名「城」が残っています。神社の周りなどを歩いたのですが、それらしい遺構は残っていませんでした。