岡山城へ

岡山城
岡山城

午後から岡山でお仕事。 

必然的に早目に岡山へ行って岡山城を散策することになります。まっとな行動です。 

街中に宇喜多家の旗印と池田家の旗印が飾られていました。宇喜多家と池田家との間に岡山をおさめた小早川秀秋はないんですねえ。丸に違い鎌紋もなかなかお洒落なんですが。

岡山へ行ったので、ついでに本屋巡りをして本の宣伝をしてきました。 

岡山城のすぐ近くの城下にある丸善、クレド岡山にある紀伊国屋書店をまわってきました。前回は岡山駅にある三省堂書店とイオンモール岡山の未来堂書店をまわってきましたので、これで岡山市の大型書店は制覇かなあ。

信長より早く、飯盛山城は見せる城だった!!

飯盛山城
飯盛山城

久々にビッグニュースが飛び込んできましたね。 

信長より先に天下人となった三好長慶の飯盛山城から広範囲な石垣が発見されました。おお!!! 

城の南側にある千畳敷郭周辺で、推定で長さ30メートル、高さ4メートルの石垣を発見。大東市教育委員会によると今まで発見された石垣約100カ所のうち約半数が、三好長慶が飯盛山城に居城した時期に造られたことが判明しました。 

これまで石垣を多用し、それまでの「守る城」から「見せる城」へ変えたのが織田信長の小牧山城からと言われていましたが、それよりも早く三好長慶が「見せる城」を実現していたようです。 

飯盛山城は生駒山地の北側に築かれ、河内、摂津、大和、山城が眺められます。麓から見ると今まで見たことがない石垣の城が山上にそびえ視覚効果が高かったでしょうね。三好長慶は織田信長よりも早く足利将軍を追放し、天下人となった人物で、織田信長は三好長慶を手本にしていたようです。三好長慶を支えた松永久秀の多聞城にあった天守閣をまねて安土城天守閣を作ったとも言われています。 

G20となっているインテックス大阪からも飯盛山城が眺められますが、どこもニュースで流さないでしょうね。

太田道灌と戦った石神井城

石神井城
石神井城

石神井といえば有名なのが石神井城で、石神井公園に今も残っています。

石神井城は鎌倉時代に豊島氏が造ったようで、豊島氏の本貫は武蔵国豊嶋郡になり、東京都豊島区の名前はこの豊島に由来しています。豊島氏は他に練馬城(今の豊島園にあったようです)を造り、扇谷上杉氏の家宰だった太田道灌(江戸城を造ったことで有名)と戦っていました。

当時の関東は公方や関東管領が争い、関東管領に上杉氏も扇谷上杉氏や山内上杉家い分裂、そこに北条早雲まで加わって混沌とした状態になっていました。太田道灌が築いた江戸城と河越城の防衛ラインを豊島氏の練馬城と石神井城が遮断してしまったため、太田道灌との戦いになります。太田道灌は練馬城を攻めた後、石神井城近くの愛宕山に陣を張って石神井城を攻め豊島氏は敗走。これで没落することになります。

石神井城は石神井公園の三宝寺池横の丘上に残り、保存のため立ち入り禁止となっていますが、土塁と空堀を廻らせた内郭が残り、外から眺められます。

住宅街に残る世田谷城

世田谷城
世田谷城

深大寺城の後は世田谷城を目指します。バスでつつじが丘駅へ出て京王、東急を乗り継いで宮の坂駅へ。ここに奥州吉良氏の世田谷城があります。

吉良氏といえば忠臣蔵で有名ですが、「足利将軍家が絶えれば吉良が継ぎ、吉良が絶えれば今川が継ぐ」と言われたほどの足利氏の名門で本貫は三河国幡豆郡吉良荘でした。一族はいろいろと別れており、このなかから奥州管領になったのが奥州吉良氏です。

奥州吉良氏は一時期、滅亡の危機に瀕したこともありましたが、武蔵国に城を構えることになり、これが世田谷城です。1336年、吉良治家の時代と言われていますが、よく分かっていません。場所は世田谷の豪徳寺付近で、高台になっている豪徳寺には吉良の屋敷がありました。近くに世田谷城址公園があり、土塁や郭跡がコンクリートなどでだいぶ改変されていますが残っています。豪徳寺のすぐ横の団地近くには土塁がそのまま残っていました。

奥州吉良氏は北条氏の傘下だったため秀吉の小田原征伐の時に世田谷城は廃城となりました。

深大寺は蕎麦じゃなく城でしょう!

深大寺城
深大寺城

RedBallで東京まで出かけたついでに深大寺へ出かけてきました。調布にあります。

深大寺といえば蕎麦が有名ですが、蕎麦よりも城跡ですね。ここには深大寺城があり、よく山城の縄張り図に出てきます。深大寺城の築城者は不明ですが扇谷上杉氏や北条氏が城を舞台に争い、最後は北条氏の支配になったようですが、小田原城の防衛には不要になったため、遺構がよく残ったようです。

深大寺城は丘の上に造られた連郭式城郭で、深大寺のすぐそばに水生植物園があり、ここから城跡へ行けます。深大寺や深大寺蕎麦は無視して水生植物園へ向かいます。水生植物園は城を守っていた沼地跡で、ここから舗装された道があって丘まで楽に登れます。郭跡に入ると広大な二の郭が拡がっています。この二の郭から堀と土塁で守られた主郭に入れますが、この主郭も大きいですね。三の郭もありましたが、こちらはテニス場や住宅地になっています。東京のど真ん中に、こんな城跡が残ったのは奇跡にちかいですね。

分部神社(大溝城)

分部神社
分部神社

大溝城のすぐ横にあるのが分部神社。

津田信澄(信長の甥っ子)が本能寺の変の後に殺された後、城主が丹羽長秀・加藤光泰・生駒親正・京極高次と目まぐるしく替わります。大坂の陣が終わり元和偃武となって名実ともに江戸時代がスタートした元和5年(1619年)に分部光信が大溝城に入ります。このあと、分部氏は11代続き明治維新となります。

■津の分部氏
分部氏の本貫は伊勢国安濃郡分部村。織田信長が津を支配していた長野氏を攻めてきた時に兄の細野藤敦は安濃津城で徹底抗戦しますが、弟の分部光嘉は和睦派で信長の弟である織田信包に長野氏の養子に入ることを画策します。伊勢侵攻時代の信長はまだ兵力は十分ではなかったので基本戦略はM&Aで、織田信孝は神戸氏の養子、織田信雄は北畠氏の養子、そして織田信包は長野氏の養子となります。

織田信包が津城を造り天守閣を建てますが、出城として造ったのが伊勢上野城(津北部の安濃にあります)で分部光嘉はここをまかされます。関ケ原の戦いの前哨戦となった安濃津城の戦いでは津城城主である富田信高とともに奮戦しますが兵力差もあり和睦。関ケ原の戦いの後、この功によって2万国に加増されます。2代藩主・分部光信の時代、伊勢上野が紀州徳川家領になったため、近江高島(大溝城)へ移されます。

大溝城

大溝城
大溝城

京都橘大学の講座は午前中だけだったので、山科駅から湖西線に乗って近江高島駅へ。琵琶湖の北西にあります。 

駅のすぐ近くに大溝城があります。織田信長が高島郡を支配すると、甥の津田信澄に高島郡をまかせます。琵琶湖沿いに大溝城が作られましたが、縄張り(設計)は明智光秀が担当しました。天守台跡の石垣だけが残っています。 

■琵琶湖の城ネットワーク 
織田信長が琵琶湖の水運を支配するために琵琶湖の周りを平行四辺形になるように4城ネットワークを作りました。中心になるのは安土城で秀吉の長浜城、明智光秀の坂本城、そして大溝城で構成されています。それぞれの城から別の城の状況が見え、何かあれば軍船ですぐに駆け付けられるようになっていました。 

■津田信澄 
お父さんは信長の弟である織田信行。信長に謀反を起こしたため暗殺されます。柴田勝家は最初、信行派でしたが信長の乗り換えます。 

津田信澄は信長に仕え京都御馬揃えに参加しています。信長の命令で明智光秀の娘と結婚したことから本能寺の変の後、大坂城で長曾我部攻めの準備をしていた津田信澄は織田信孝と丹羽長秀に疑われ討ち取られてしまいました。 

大和龍田城

大和龍田城
大和龍田城

秀吉と柴田勝家が激突した賤ヶ岳の戦いで活躍した7本槍の一人が片桐且元。関ケ原の戦い後は大和龍田村に2万8千石の大名として陣屋を構えていました。大坂方で家康と交渉をしていましたが方広寺の鐘名事件が起きます。 

■方広寺 鐘名事件 
「国家安康 君臣豊楽」という文字が家康を呪うものだという言いがかりです。鐘を作ったのは津の鋳物師辻家で、銘文を書いたのは京都南禅寺の清韓長老です。 

清韓長老と辻家は捕まりますが、家康が信頼していた藤堂高虎が津にひきとったようで清韓長老のお墓は津の上宮寺にあります。清韓長老が津に来たのは出身が鈴鹿だったことも関係しているのでしょう。辻家は息子が専修寺、津四天王寺、松阪の岡寺の鐘などを作っています。 

■大坂の陣 
片桐且元は釈明に駿府へ向かいますが家康は会わず、淀を江戸へ人質に出すなどの条件を示されます。ところが同時期に駿府入りした大蔵卿局は家康とすんなり面会となり、鐘銘のことも話題とならずに丁寧に扱われて帰ってきます。全然、違う情報が届いた大坂方は片桐且元を疑い、これがために大坂城を退去し、大坂の陣へと突入していきます。大坂の陣のすぐ後に亡くなっています。 

豊臣が滅んでも方広寺の鐘名はそのままだったので、やっぱり言いがかりだったんでしょうね。 

■大和龍田城 
片桐且元の嫡男から4代続きましたが、跡継ぎがいないために廃城となりました。且元の弟の子孫は、龍田の隣りにある大和小泉をおさめ明治まで続きました。大和龍田城の城跡はなく住宅地になっていますが、少し高台になっていて郭があったことが分かります。平太池あたりに堀の雰囲気が残っています。

十市平城

十市平城
十市平城

大和は国人の国でしたが、そのなかでも力があったのが大和四家。越智・十市・箸尾・筒井の四氏です。十一氏の城が近鉄・橿原線の新ノ口駅と笠縫駅のちょうど間ぐらいにあります。

十市氏は筒井氏と越智氏の勢力にはさまれて没落していましたが、河内守護畠山氏の被官だった木沢長政が大和に侵攻すると形勢を盛り返し領地を回復します。十市遠忠が当主となると龍王山城を整備し全盛時代を迎えます。

十市遠忠は歌人としても有名で、館を城(十市平城)として拡張します。しかし後継者の十市遠勝が死去すると家臣団が筒井派と松永久秀方に分裂。十市平城は筒井方となり松永方についた龍王山城と争うことになります。そこへやってきたのが織田信長、原田直正を大和守護としたため十市平城は原田直正に接収されます。

当時、城の横を寺川が流れ堀代わりになっていました。今は田んぼの中の微高地に城跡が残っていて筒井城とよく似ています。

芝陣屋

芝陣屋
芝陣屋

山城シーズンが終わってしまいましたので平城巡りをしています。早く寒くならないかな~あ。今回は奈良にある芝陣屋跡です。

有楽町にその名前を残している織田長益(有楽斎)は織田信長の弟です。大坂城で姪の淀殿を補佐していましたが、基本は穏健派で、戦に傾く城内におられず大坂夏の陣までに大坂城を離れ京都に隠棲します。子供は徳川家に仕えることになりますが四男・長政が開いたのが戒重藩。今の桜井駅近くに陣屋がおかれました。第7代藩主の時に芝村に移転し芝陣屋が作られます。芝村は箸墓近くにあります。

芝陣屋跡は現在、織田小学校になっています。小学校横には建勲神社があり織田信長の像がありました。石垣や堀の一部が残っています。織田家は明治まで続きました。