太子道

太子道

多神社のちかくを歩いていると太子道の案内がありました。

太子道とは、聖徳太子が斑鳩宮と飛鳥を行ききした古道で、筋違道とも呼ばれています。南北に対して斜めになった道が奈良盆地を通っていたんですが、市街地化でだいぶなくなりました。有名なのが田原本の宮古から近鉄田原本線・黒田駅の脇を通って伸びる道で、ほんまに斜めになっていろいろな道と交差しています。

太子道は20度傾いていて、発掘された法隆寺の若草伽藍も20度傾いており、蘇我馬子の嶋宮から、聖徳太子の斑鳩までがまっすぐ結ばれている仮説もあります。大陸からの使者が難波から大和川を遡って、まず出迎えるところが斑鳩宮でした。

多神社

多神社

多神社、正式名称は多坐弥志理都比古神社(おおにいますみしりつひこじんじゃ)と言いますが、こんな長い名前は覚えられないので、もっぱら通称の多神社で呼ばれています。

近鉄・笠縫駅のすぐ近くに一の鳥居があり、ここからけっこう歩いたところにあります。豪族だった多氏の氏神さんで祖は神武天皇の皇子ですので、神武天皇などを祀っています。発掘調査され境内からは縄文時代からの遺跡が見つかっていますから一等地だったんですね。

一族には古事記を編纂した太安万侶がいます。古事記は偽書で太安万侶など実在しないのではと言われた時代もありましたが、奈良の山奥にあった茶畑の開墾中に墓と太安萬侶と書かれた墓誌が見つかり実在した人物だと確認されました。

百済大宮

百済寺

奈良盆地のまんなかに百済という地名があります。

舒明天皇が639年に百済川のほとりに百済大宮(宮殿)と百済大寺の造営を開始します。日本書紀には西の民は都を造り、東の民は寺を造るとの記載があり、百済大寺が子部神社の近くだと想定すると百済大宮は西側にあるはずです。子部神社の西を流れる曽我川が百済川の可能性があります。百済川の西にあるのが百済という地名、集落には百済寺があり三重塔が建っています。

この百済寺が百済大寺の故地という説もありますが、子部神社からちょっと離れているのでどうでしょうねえ。ただ舒明天皇の他の宮が飛鳥にあるのに百済大宮だけが遠く離れているのも不自然です。つまりよう分からんということです(笑)舒明天皇は翌年(640年)に百済大宮ができ遷りますが、その翌年(641年)には亡くなってしまいます。

百済寺の三重塔は鎌倉時代に建てられたようです。観光客はまずいないので、鄙びていて、おすすめですよ。

子部神社

子部神社

推古天皇の後を継いだのが舒明天皇です。この舒明天皇が建てたのが百済大寺でしたが建設途中で落雷による火災にあいました。

桜井市吉備池のほとりで見つかった吉備池廃寺が九重塔もある壮大な寺で、この百済大寺であると見られています。吉備春日神社からしか池に入る道はなく観光客は絶対に来ない場所にあります(笑)。

この百済大寺は舒明天皇が子部神社の木を伐払って九重塔を建てたため子部大神が恨んで堂塔を焼失させたという記録があります。ということで子部神社へ行ってきましたが吉備池廃寺から遠くにあります。日本書紀に西の民は都を造り、東の民は寺を造るとの記載があり、百済大寺の西側には百済大宮があった模様です。

子部神社の西に百済という地名が残っているので、舒明天皇が建てた百済大寺は子部神社の近くにあったようです。火災で燃えてしまったので、皇極天皇が夫の遺志を引き継いで場所を変えて再建します。これが吉備池廃寺の百済大寺になったという説があります。

行くのが大変な蜾嬴神社

蜾嬴神社

蜾嬴神社

絶対によめません!正解は「すがる」神社です。

雄略天皇が養蚕をすすめるために、臣下の「すがる」に蚕を集めるように命じると、蚕(こ)を子(こ)と同じ音だったので、間違って子供を集めて天皇に献上しました。大笑いした天皇は「すがる」に連れてきた子どもたちを養育するようにいい、少子部連(ちいさこべのむらじ)という名を与えます。この少子部連すがるを氏神として祭った神社です。

宗我坐宗我都比古神社の前の道を北上すると、すがる神社があるのですが、Googleマップで調べて近くに行っても道がありません。探しまわると、民家の横に畦道のような道があり、これをたどるとピンポン!神社にたどりつきました。

蘇我氏の故郷

宗我坐宗我都比古神社

近鉄・大阪線と橿原線が交差する八木駅の一つ手前にあるのが真菅駅です。普通しか止まりません。

真菅駅のすぐ近くにあるのが宗我坐宗我都比古神社(そがにますそがつひこじんじゃ)。このあたりは曽我町で蘇我氏の出身地と考えられています。飛鳥へは皆さん行かれますが、こんな神社に行く人は、まずいませんね。

蘇我氏は蘇我稲目あたりから歴史に登場するようになりますが、それ以前についてはよく分かっていません。

ヤマト創世記の葛城氏が対朝鮮外交や渡来人の管理、大王家へ娘を妃として出す役割を担っていました。葛城氏が雄略天皇に滅ぼされると、これらの役割を継いだのが蘇我氏でした。後に蘇我馬子が祖先の地である葛城(天皇直轄地になっていた)を返してほしいと推古天皇に願って拒否された話があります。となると元は葛城で本家から分かれて曽我の地に移ったんですかねえ。

天理参考館

天理参考館

せっかく天理へ行ったので天理参考館に寄ってきました。正式名称は天理大学・附属天理参考館で、建物は天理教の独特のデザインになっています。入館料500円で誰でも入れます。

エントランスにはでっかいオルメカ石頭像があり、1階・2階が世界各国から集められた民俗・生活資料が展示されています。国立民族学博物館よりもちょっと小ぶりな感じです。

目的は3階で考古学フロアになっています。天理にある日本最大の前方後方墳である西山古墳や布留遺跡の展示が充実しています。一角に中国の古代のでっかい石碑などが並んだところがあり圧巻です。

超国宝

超国宝

    連休合間の平日ならすいているだろうと夕方、奈良国立博物館へチケット売場もガラガラで正倉院展のオータムレイトよりも、すいていました。入口すぐに法隆寺の百済観音があって360度、眺められるようになっていました。

    この入口近くにあった小さな仏像ですごくって、光背の文字が読めるようになっていて止利仏師が物部大臣(蘇我馬子のこと)に送ったと記載されています。他にも求道僧円珍が持ち帰った物の一覧表もありました。七支刀が目的でしたが思ったよりも小さかったですね。

    入鹿の首塚

    入鹿の首塚

    乙巳の変-645年に起きたクーデター。昔は大化の改新と習いましたが、今は乙巳の変の後に行われる政治制度改革を大化の改新と呼んでいます。

    中大兄皇子と中臣鎌足が談山で密談し、三韓(新羅、百済、高句麗)からの使者が来日した式典にあわせて蘇我入鹿を暗殺します。今なら皇居で外国の特命全権大使が信任状を捧呈している最中に総理大臣を暗殺するようなものです。蘇我蝦夷は甘樫丘にあった蘇我邸を燃やし自殺します。昔からいろいろ説がありますが、結果的に一番得をしたのが孝徳天皇(軽皇子)なので首謀者ではないかと言われています。

    飛鳥寺の横に入鹿の首塚があり、邸宅があった甘樫丘が見えますが、暗殺されたのはここではなく飛鳥板蓋宮になります。切られた首が飛んできて埋めたという伝説があります。

    日本史には全然、出てきませんが蝦夷には蘇我善徳(蘇我馬子の息子)という兄がいて飛鳥寺の初代寺司を務めていました。業績を書くとまずいのか日本書紀には一文しか出てこない謎の人物です。

    豊浦宮

    豊浦宮(とゆらのみや)

    豊浦宮

    甘樫丘からちょっと行ったところに豊浦宮跡がありますが、飛鳥寺などの華やかさがないためか観光客は誰もいません。592年に推古天皇が即位した宮殿で推古天皇の祖父である蘇我稲目の向原の家がありました。

    ■仏教伝来の地
    百済から仏像が送られ蘇我稲目がこれを受け入れて、向原の家を寺として安置しました。反対したのが物部守屋です。昔、日本史で習いましたね。その後、疫病が流行ったため物部氏、中臣氏が国神のたたりだと騒ぎたて仏像を難波の堀江に流し、寺は焼きはらわれます。この仏像が拾われて長野に運ばれて善光寺におさめられました。ほんまかいな。

    仏像を捨てた難波の堀江ですが大阪の大川もしくは阿弥陀池(和光寺)、向原寺の横にある池などの諸説があります。

    推古天皇の一代前の崇峻天皇は桜井から談山神社へ行く途中にある倉橋に宮殿をおいていました。ところが崇峻天皇は蘇我氏と対立し、馬子に暗殺されてしまいます。蘇我氏は本拠地である飛鳥に天皇を囲いこもうとしたようで、豊浦宮-小墾田宮-飛鳥岡本宮と宮が作られます。ここから飛鳥時代がスタートします。乙巳の変の後、孝徳天皇は大和の地を離れて難波宮へ移りました。