石切神社の夏祭り

お百度参りで有名な石切神社の夏祭り。正式には石切劔箭神社・夏季大祭で金、土、日と開催されています。散歩ついでにのぞいてきました。境内に太鼓台が入るのでお百度参りも中止になっています。今年は屋台も出ていました。

石切神社の夏祭り
石切神社の夏祭り

■饒速日尊とは
石切神社の祭神は饒速日尊(にぎはやひのみこと)と可美真手命(うましまでのみこと:ニギハヤヒの子供)ですので物部の神様です。めちゃくちゃ古い神社で文献では貞観7年(865年)に登場しています。菅原道真が遣唐使を白紙(894年)に戻したちょっと前ですね。

■本当の祭神は長髄彦?
石切神社は本当は長髄彦を祀っているのではという説があります。石切(i-si-kiri)はアイヌ語で「その・長い・彼の足」の意味になるそうで、ほんまですかいなあ。饒速日尊は神武天皇よりも先に大和へ天下った天神で、長髄彦の妹と結婚し、生まれたのが可美真手命で物部氏の先祖になります。饒速日尊は熊野から大和に入った神武天皇に協力し長髄彦を裏切って殺すことになります。

長髄彦は最初の朝敵となるためか正式に祭神にしている神社はなく、富雄にある添御縣坐神社の祭神・武乳速命がそうではないかと言われています。

奈良の大仏の原点 智識寺

■奈良の大仏の出発点 智識寺
河内六寺の一つ智識寺です。仏教信徒のことを智識と言い、寺や仏像を造るために私財や労働力を提供しました。民間の力で建てられた寺院を智識寺と言っておりました。高台にある石神社には東塔の礎石があり、50mほどの塔が建っていたようです。智識寺は東西2つの塔をもつ薬師寺式伽藍だったようです。

智識寺
智識寺

この智識寺が奈良の大仏のきっかけとなりました。740年に難波宮へ行く途中に聖武天皇が智識寺を訪れ、廬舎那仏(観音立像の説もあり)と寺を支える民間の力に感動して、奈良の大仏を作ろうと考えます。この廬舎那仏が高さが18mもあったという説がありますが、よくわかっていません。

■仏教バリアで日本を守る
当時、天然痘が猛威をふるい藤原武智麻呂・房前・宇合・麻呂の四兄弟が相次いで死去します。また天平時代は例年旱魃・飢饉が続き、734年には畿内七道地震という大地震がありました。生駒断層帯が動いた直下型地震で聖武天皇も体験します。

社会不安を鎮めるために仏教で日本を守ることにします。東大寺に大仏を建立し、各地に国分寺、国分尼寺を作って日本中を仏教バリアで覆う壮大な計画を実行します。

インボイス制度とクラウド会計


大阪府よろず支援拠点のミニよろず塾で「インボイス制度とクラウド会計」のセミナーを実施。

インボイス制度とクラウド会計
インボイス制度とクラウド会計

ミニよろず塾の案内したら速攻で枠が埋まってしまいました。去年もほぼ同じ内容でやった時は、それほど反響がなかったのが、実施が近づいてきたこともあり関心が高まっているようです。

木沢長政の墓

鳥坂寺跡から智識寺跡を目指そうと柏原市歩いていると安堂太平寺共同墓地に木沢長政の墓を発見!
調べてみると木沢長政の遺族が五輪塔を建立した可能性が高そうです。

木沢長政の墓
木沢長政の墓

木沢長政といえば飯森山城を築城した人物です。守護である畠山氏の有力な被官でしたが、力があり信貴山城や二上山城を築城しています。三好の遺児である三好長慶を畠山晴元のもとへ帰参させたのも木沢長政でした。畠山の家中はかなりグチャグチャで、ここに三好長慶、遊佐長教、室町将軍、一向宗、法華宗、筒井などがからんで、さらにグチャグチャになります。

河内や摂津の山城関係で必ず名前が出てくるのが木沢長政です。10年にわたり畿内で権勢をふるっていた木沢長政は最後に孤立することになり、遊佐軍、三好軍との戦いとなります。これが太平寺の戦いで、カタシモワイナリー付近で戦われ木沢長政は討ち死にします。この後に台頭するのが信長の前に天下人となった三好長慶です。

そうか、あの木沢長政の墓があったのか!

中小企業診断協会 20年表彰

中小企業診断協会の総会に出ていなかったのですが表彰状をもらってきました。「永年にわたり本会の発展と中小企業診断制度の普及に多大の貢献」と書かれていますが、中小企業診断士を取得し協会に20年継続するともらえるので、つまりは20年表彰です。資格は5年間有効なので4回更新したことでもあります。

中小企業診断協会 20年表彰
中小企業診断協会 20年表彰

まてよ協会会費が年45,000円なんで20年継続といえば90万円の会費を払ったということですがなあ。おまけに三重と大阪のW入会ですので、もっと払っています。と考えると、この表彰状はその領収書ですなあ(笑)。

三重大学 前期講義が終了

三重大学 前期「データサイエンス1」が本日で終了。

三重大学
三重大学

コロナ禍の影響で感染者や濃厚接触者になっている学生もいるので講義はZoomと併用したハイブリッドになりました。最後の講義は人工知能の話で、ダートマス会議から始まる歴史やチューリングテストの話、またニューラルネットワークの話などです。実際にR言語を使って人工知能のライブラリーを使いニューラルネットワークを構築する実習も行いました。

第一食堂の前はずっと工事をしていますね。何ができるんだろう

鳥坂寺跡

単なる野原のように見えますが、ここが鳥坂寺跡です。鳥坂寺跡の中心は近鉄大阪線が通り、こんもりとした森が塔跡になり、手前には金堂がありました。鳥坂寺は河内六寺の一番南にあった寺で孝謙天皇(聖武天皇の娘)が平城京から難波京へ行く途中、河内六寺を参拝した記事があります。

鳥坂寺跡
鳥坂寺跡

旧大和川沿いに6つの寺が近い距離で連続して建てられました。川沿いに6つの塔がそびえ立っていたことになります。当時の塔といえば庶民にとってが超高層建築ですので今でいうと梅田の高層ビル街を眺めるような感じでしょう。隋や唐からの使者も難波京から旧大和川に入って飛鳥や平城京に向かいましたので、林立する塔を船から見て感心していたでしょう。

船場総研 夏のビアガーデン

船場勉強会のOB組織である船場総合研究会の集まり。集まりといっても単なる飲み会です(笑)。 大阪駅の横にあるグランフロント大阪北館にあるBBQ33というお店に集合。テラス席がビアガーデンになっていてヨドバシカメラやグラントフロント南館などを一望できます。

BBQ33
BBQ33

船場総合研究会もパソコン通信時代からですので、長く続いていて2018年に設立20周年記念旅行で岡山と牛窓へ行きました。ということは25周年ももうすぐですねえ。

竹原井頓宮

河内国・国分寺から大和川をはさんだ対面にあったのが竹原井頓宮跡地です。頓宮(とんぐう)とは仮の宮のことを言います。頓宮跡だと期待して現地に行っても何もなく広っぽい平地があるだけですのでご注意を。

竹原井頓宮
竹原井頓宮

続日本紀に養老元年(717)、元正天皇が和泉宮から平城宮へ還る途中に、竹原井頓宮に宿泊したという記事が出てきます。聖武天皇も難波宮へ向かう途中に竹原井頓宮跡地でよく泊まっていました。

平城京から難波宮へ向かうには斑鳩を通って龍田道に入り、亀の瀬を通っていきますが、竹原井頓宮は河内国にちょうど入ったところにあります。平城京と難波京のちょうど真ん中でしたので宿泊地にはよかったのでしょう。しかも大和川が湾曲するところで吉野宮(宮滝遺跡)に場所が似ています。

竹原井頓宮は光仁天皇の頃まで使われていましたが、長岡京遷都に伴って解体され、建築資材として大和川・淀川水運を利用して大山崎へ運ばれました。

河内国分

近鉄・大阪線の急行に乗ると布施駅の次は奈良に入る手前の河内国分駅まで止まりません。大和川を渡ったすぐの駅で河内国分駅前には餃子の王将と大阪王将の2つのライバル店が道を挟んでありましたが、先日、行ったら大阪王将はなくなっていました。この近くで大坂夏の陣で後藤又兵衛が徳川軍と戦い討ち死にした小松山の戦いが行われたところで、駅のホームから見えます。

河内国分寺
河内国分寺

さて河内国分なので河内国の国分寺が駅名の由来です。大和川沿いの小高い所に国分寺が建てられました。礎石が見つかっていて大規模な七重塔だったようです。小高い所に七重塔ですので、東京タワーのようなランドマークだったのでしょう。