姉川の合戦

姉川の合戦

「どうする家康」、金ヶ崎の退き口と思ったとたんに先週は姉川の合戦、次回は信玄との対峙のようです。

家康にとって苦難の年だったのが元亀元年(1570)で家康29歳の時。4月に信長について朝倉攻めに加わったら、まさかの浅井長政の裏切り。金ケ崎城で秀吉、光秀とともに殿(しんがり)を勤め、なんとか京都に帰りつきます。6月には姉川の合戦で朝倉・浅井連合軍と戦います。写真は信長が姉川の合戦で陣を置いたところで家康は少し西に陣を置きました。信長がここから姉川の戦況を見ていました。

9月には三好三人衆を攻撃するために摂津・福島に陣を敷いていた織田軍を突如、石山本願寺が攻撃。信長と石山本願寺との10年戦争がはじまります。浜松城を造り、入城した2日後に足利義昭から信長に加勢するように依頼が来て、摂津へ出陣することになります。大忙しの1年でした。

お好み焼き定食

日経新聞・夕刊「関西タイムライン」 お好み焼き+ご飯、なぜ関西で?

お好み焼き

お好み焼き定食以外に焼きそば定食、うどん定食、そば定食など食堂にいけば普通にあるんですが、なぜか関東人から炭水化物ばっかりだとバカにされます。記事によると関東では子供のおやつである、どんどん焼の素地があったので、お好み焼きも軽食という感覚で発達。軽食なんで複数人でシェアできるよにピザ切りになります。

これに対して関西は高度成長期に家庭でフライパンを使ってお好み焼きを作っていたが作れるサイズに限界があったので、お好み焼きをおかずにご飯を食べるようになります。お好み焼き店が普及する時、ランチにご飯+味噌汁+お好み焼き定食を提供するようになります。お好み焼きは主食で一人で食べるので格子切りにします。

へ~え、そんな歴史があったんですね。ちなみに我が家ではタコヤキ+ご飯もありですね。

小阪城

小阪城

近鉄・八戸ノ里駅近くに城のイラストが描いてあるビルがあり、なかなかいい趣味だなと近くに行った時に写真に撮っておいたのですが、これが天下の名城である小阪城だったんですね。

小阪城というのは小阪駅近くの理容店の上にあったお城です。理髪店店主が手作りで作ったもので地元では有名なお城でした。ところが2018年9月に台風21号によって落城してしまいました。天守閣がぶっとんでしまったのです。落城してからも見に行きました。

ところがNHKのBSプレミアムの番組「まいど!修繕屋です」(ダイアン主演)で復活プロジェクトがスタートしたそうで、再建はもういいという店主の声から城の絵を描くことに。あの城は小阪城だったんですね。けっこうでかいです。

人生、宇宙、すべての答えは

書店をのぞくと、ずいぶん昔に出た「銀河ヒッチハイク・ガイド」が平積みされています。懐かしいSFですねえ。帯には「世界一受けたい授業でイーロンマスクが影響を受けた本と紹介」などと書かれています。へ~え、テレビで紹介されて、また注目されているんですね。

銀河ヒッチハイク・ガイドと言えばGoogleで「人生、宇宙、すべての答えは」と検索してみてください。
結果は「42」です。

ついでにChatGPTでも聞いてみました。

ちゃんと結果は「42」です(笑)。
ただ解説までついていて、ちょっと興ざめですね。Googleのようにシンプルな回答の方がいいなあ。

「なんで42なの?!」という疑問をお持ちの方は下記をご覧ください。

→ 人生、宇宙、すべての答えは「42」

山城が不得意のChatGPT

話題のChatGPTで山城のことを聞くと、それらしい回答は返ってきますが、間違いが多いですね。

山中

例えば「秀吉の小田原攻めで山中城があっという間に落城したのはなぜ?」と聞いたら「山中城は城壁が脆弱であり、防御力が低かったことが挙げられます。また、山中城には兵力が少なく、城兵の士気も低かったため、守りきることが困難だったと言われています。」との答え。

ちゃいまっせ、山中城は鉄壁の城で兵も十分にそろえていましたが秀吉軍が常識破れの物量作戦で攻めたのと、落城させなければ秀吉ににらまれるという怖れから人的損害を気にせずに攻めた点にあります。攻撃側の大名・一柳直末も討死する激戦でした。回答が本当かどうか人間が判断しなければなりませんが、けっこう難しいですね。

笠上砦、見つけられず

東野山城からの帰り道、Googleマップを見ると笠上砦のマークが!

鉄塔

東野山城の出城がいくつか造られたので、その一つでしょう。林道から山の中に入って、マークの場所を目指しますが、結局は送電線の鉄塔のところをGoogleマップが笠上砦として示していました。「こんなところなの!」と、とりあえず周辺を探訪。けっこう歩き回りましたが城の痕跡はなし、大体、砦なら切岸があるはずですが、なだらかな坂になっているだけです。別の所を指しているのではと林道から反対側に登って、ひたすら尾根道を歩きますが、こちらも城の痕跡はなし。結局、さっき歩いてきた林道に行き当たりました。

Googleマップの山城の位置は、けっこう間違っていることも多いので、その一つですね。Googleマップが間違っている場合はフィードバックができ修正できます。送迎山城なんかも場所が間違っていたので修正したこともあります。笠上砦も調べなおして次のベストシーズンにアタックするしかないですね。

東野山砦

賤ケ岳の合戦で堀秀政が守ったのが東野山砦。秀吉軍の防衛線である連珠の砦よりも、さらに前に出て築かれた山城です。今も土塁や空堀などが見事に残っています。入口は堀底道になっていて高い土塁から攻撃を受けながら進まないと虎口にまでたどりつけない複雑な構造になっています。東野山砦からは余呉湖方面も柴田軍方面もよく見えたでしょう。現在は余呉湖方面しか見えません。東野山砦はもともと京極氏、浅井氏の配下だった東野豊前守一族の居城でしたが、堀秀政が整備しなおしました。

東野山砦

柴田軍にとっては、やっかいな場所に造られた城で、正面突破ができないので、佐久間政盛が行市山を出て、南下し余呉湖をまわりこむ形で中入りをしました。中入りといえば小牧・長久手の戦いで秀吉軍の中入りが失敗しましたが、堀秀政は冷静な判断で家康軍に一矢報いました。その後の小田原攻めの最中、陣中で病没しました。

新しい大阪駅

LEC梅田で朝から経営情報システムの講義

講義終了後、「皆さん、合格したら診断協会のイベントなどで声かけてくださいね。覚えていないと思うけど」と声掛けしています。実際に覚えてませんので(笑)

大阪駅

昼休みに新しくできた大阪駅に行ってきました。ニュースでよく見た顔認証ゲートです。顔認証を使っている人はおらず、皆さん交通カードで通行しています。同時に双方向で通れるんですね。

ただ、けっこう遠くってグランドフロントや西梅田へ行くなら便利ですが、やっぱり東梅田駅ですね。

中之郷駅

中之郷駅

大阪から新快速に乗ると湖東周りの終点は近江塩津駅になります。近江塩津駅で乗り換えて敦賀へ行けます。木ノ本駅を出ると大きく左(西側)にカーブして余呉湖の隣にある余呉駅を経由して近江塩津駅になります。かっては木ノ本駅から、そのまま北上して中之郷駅、柳ケ瀬駅から柳ヶ瀬トンネルを通って敦賀駅を結んでいました。今は鉄道はなくなり北陸道が走っています。鉄道が残っていたら、湖北の山城に行くのに便利だったのに残念です。

昔、大阪から敦賀へ向かう時、永原駅-近江塩津駅間で電車の明かりが2、3秒消える時がありました。これが交直セクションです。直流区間(東海道線・湖西線)と交流区間(北陸鉄道)が交わるところです。けっこう最近まで残っていて2006年に直流化工事が完成しました。これで湖西線内は全て直流電化となり、湖西線を経由する新快速が敦賀駅まで延長されることになります。

連珠の砦

ちょっとした土の高まりしかないのですが、ここが連珠の砦跡です。

連珠の砦

賤ヶ岳の戦いで先手をとったのが柴田勝家側。玄蕃尾城、行市山城など次々と高台に拠点をつくり持久戦にかまえる体制を整えます。出遅れたのが秀吉側で防衛線を南に下げ、北国街道の西側の山に神明山砦、堂木山砦を築き、東側の山には東野山城を築きます。この砦の間の平地には塹壕を掘って、掘った土で土塁を築き、柵を設置します。塹壕が数珠のようにつながっていたので連珠の砦と呼ばれました。

三木城攻めでは各砦の間が土塁で連結されていました。あれよりも小規模ですが、賤ヶ岳の戦いの最前線になったところです。ただ、北国街道などが整備させれて、遺構はほぼ無くなりました。