高屋城(東高野街道)

東高野街道をゆく

高屋に築かれたのが高屋城で、もともとは畠山義就が築城したようです。応仁の乱は足利義政の正室である日野富子が我が子を将軍につけたいというワガママが原因ではなく、畠山家の家督相続が発端で、畠山義就は当事者の一人です。高屋城の中を東高野街道が通るようになっていて東海道を城に取り込んだ北条氏の山中城のようです。

■室町時代の事業承継問題
鎌倉時代は後継ぎとなる惣領以外にも所領を分配していたため、結果的に土地が細分化され困窮したところに、貨幣経済に巻き込まれて幕府滅亡の遠因となりました。そこで室町時代になると惣領が全てを承継する形に改められましたが、家督相続争いが各家で勃発することになります。本人だけでなく家来や外野の思惑もあって支離滅裂な状態に。興味がある方はベストセラーになった「応仁の乱」 (中公新書 呉座勇一)をぜひどうぞ!

不動坂(高屋城)

■戦いばかりだった高屋城
高屋城は河内守護の居城のため畠山氏が長く支配しますが、交通の要衝だったこともあり、力をつけてきた三好長慶などと争奪戦が行われ、城主が頻繁に変わることになります。高屋はしょっちゅう戦場になりました。最後は天正3年(1575年)に織田信長が攻めて落城させ、その後は廃城になったようです。ほとんどが住宅地になっていますが城の遺構があちこちに残っていて、東高野街道が通る近鉄南大阪線の踏切がある不動坂には櫓台跡があり土塁の一部が残っています。

水盛城

水盛城

東高野街道をゆく

近鉄・古市駅から一駅、河内長野訪問へ行くと喜志駅があります。東に向かうと大阪芸術大学や聖徳太子のお墓(叡福寺)などがあります。また河内源氏の本拠でもありました。喜志駅の近くを東高野街道が走っているので北上を開始。東高野街道は高台を通るようになっていて河岸段丘の上を通る道になっています。

街道の途中、Googleマップで見つけたのが水盛城跡という表示。行ってみたら何のことはない住宅街で遺構は何も残っていませんでした。城の一帯は東高野街道から、さらに高台になっていて平山城だったようです。高屋城の南を守る出城として使われていたようです。すぐ隣に三角縁神獣鏡などが見つかった庭鳥塚古墳(前方後方墳)があり、古墳は高台の眺めがよい所に使われているので櫓台になっていたのでしょう。

野崎城

野崎城

野崎観音の裏山にあるのが野崎城。飯盛山の東にある支脈が突き出した地で東高野街道を通る軍勢を上から攻撃できます。飯森山城の出城として使われていました。野崎城は公園にはなっていますが郭跡がよく残っています。

■東高野街道
当時、南北に大和川が流れていたため大量の兵士を大坂に送るには東高野街道を南下し、柏原あたりから西に向かうしかありませんでした。ですので東高野街道は昔から戦場となり野崎近くで行われたのが高師直と楠木正行が戦った四条畷の戦いです。大坂の陣では徳川軍の南下にも使われ、野崎のちょっと北にある岡山(現在は忍陵神社)には徳川秀忠が本陣をおきました。

大坂夏の陣では大坂城の堀がないため野戦に持ち込むしかなく、木村重成が若江から長宗我部盛親が八尾から湿地帯を突破して、東高野街道を南下する徳川軍を横から攻撃します。徳川軍に打撃を与えましたが木村重成が討死します。

飯森山城へ

ようやく涼しくなり、まもなくシーズン到来ですのでリハビリがてら飯森山城へ登ってきました。

飯森山城

麓の野崎から登りはじめましたが、だいぶ体がなまっていますね、途中でけっこう息がきれました。ヒーハー言いながら1時間ほどかけて山頂を目指します。

飯森山城は南北朝時代には築かれていて、高師直軍と楠木正行が戦った四條畷の戦いでは、南朝方の恩地氏が飯盛山城をおさえたようです。それもあって頂上には楠木正行の銅像があります。その後、守護・畠山氏の被官だった守護代・木沢長政が城として整備をし、本格的な山城としてスタートします。石垣の城として整備したのは三好長慶で、織田信長よりも先に天下人になった人物です。

少年の時に父親を殺した細川晴元と手を結び、戦国時代には珍しく、兄弟で役割分担しながら畿内を平定します。しかし嫡子に先立たれるなど晩年は恵まれせんでした。この三好長慶に仕えていたのが松永久秀です。そうそうキリスト教の布教も認めていて高山右近がキリスト教に改宗したのも三好長慶の影響がありました。

三好長慶はこの飯森山城で病死し、御体塚郭に埋葬されていると伝わっています。大きな郭が稜線に連続し、一番北側の出丸からは山城、摂津、河内、大和の国を270度パノラマで見ることができます。

千貫櫓

千貫櫓

大坂城の大手口に対し、北西から横矢を狙うことができるのが千貫櫓です。豊臣大坂城の上に盛り土をして徳川大坂城を築きましたが、千貫櫓ができたのが元和6年(1620)です。乾櫓とともに大坂城内で最も古い建築物になっています。年に何回か公開されています。

千貫櫓という名前は古く、石山本願寺と信長が戦っていた時に、櫓からの横矢に悩まされ、信長が「銭千貫文を出しても取りたい」と言ったことが由来です。その後、建替えられた豊臣大坂城でも徳川大坂城でも名前が踏襲されました。

大坂城の最後の主が徳川慶喜。鳥羽伏見の戦いで敗れ、大坂城で戦う予定でしたが徳川慶喜は敵前逃亡し、江戸へ軍艦で戻ります。「何で!」ということですが、いろいろな理由がありました。一つがイギリスの動きで、鳥羽伏見で幕府が敗退すると、イギリスは「局外対立を保たないかもしれない」と幕府を脅します。イギリス海軍が大坂城を海上封鎖したら詰みになってしまいます。

もう一つ、お金の問題もありました。大坂での在留経費が1日7000~8000両かかっており、老中の板倉勝静に側近だった神戸謙次郎が報告しています。徳川慶喜の耳に入っていたはずで大坂城を脱出して江戸に戻ったのは財政的な理由も多かったようです。

茶臼山 丸馬出し

天王寺へ行ったついでに天王寺公園内にある茶臼山へ。大坂冬の陣では徳川家康の本陣となり、翌年の大坂夏の陣では真田信繁の本陣となりました。目的は馬出しを見に行くためです。馬出しとは城の出入り口である虎口を守る小さな曲輪で堀などで守りながら横から出撃できるようになっています。

茶臼山 丸馬出し
茶臼山 丸馬出し

■茶臼山 丸馬出し
2014年、松江歴史館で保存されている「極秘諸国城図」に真田丸などの縄張り図などが含まれていることが分かり大きなニュースになりました。他にも大坂夏の陣における天王寺・岡山の戦いの舞台である茶臼山などの縄張り図がありました。真田信繁が守る茶臼山には西側に丸馬出しが築かれ、毛利勝永が守る岡山には東側に丸馬出しが築かれ、茶臼山と岡山の間には和気清麻呂が掘った古代の運河跡がありましたが、これをさらに掘って堀にしました。

写真が現在も残る丸馬出し跡です。完全に公園になっていてベンチなどでくつろいでいる人が多いのですが、ちゃんと丸馬出しの形になっています。ちなみに現地へ行ってもどこにも説明はありませんので

天王寺砦

天王寺砦
天王寺砦

天王寺砦があったのが四天王寺夕陽丘駅のすぐ近くにある月江寺で、昔は門前に堀跡があったとされています。何も遺構は残っていません。月江寺は上町台地の上にあるので西側は崖になっています。ここで行われたのが「天王寺砦の戦い」。天王寺砦を守っていたのが明智光秀と佐久間信栄(佐久間信盛の息子)ですが本願寺勢に包囲されてしまいます。急報を受けた織田信長は若江城に入り、3000ほどの兵を集めて、本願寺勢1万5千に突撃します。

織田軍は敵陣を切り崩して、天王寺砦の守備隊と合流しますが、信長自身も陣頭で自ら戦い、敵の鉄砲を足に受けて軽傷を負います。織田軍は体制を立て直そうとしていた本願寺勢を再度、攻撃して撃破。最終的に織田軍の勝利で終わります。

木津砦

木津砦
木津砦

織田軍が天正4年(1576年)5月3日に木津砦に攻撃をかけます。第一陣が三好康長・根来衆・和泉衆、第二陣が塙直政・大和衆・山城衆でした。ところが石山本願寺の楼の岸砦から約1万が援軍にかけつけ、最終的に織田軍は崩壊し、織田方の天王寺砦が包囲される事態になります。

木津砦があった場所が今宮駅近くの出城と言う場所。今も地名が残っていてニトリの横に出城公園があります。このあたりに砦がありましたが遺構は何も残っていません。微高地になっているので、周りは沼かなにかになっていたのでしょう。石山本願寺や楼の岸砦は上町台地上にありましたが、木津砦は台地を降りた西側にあります。真田丸みたいな出城だったんでしょう。少し歩くとOMO7大阪(星野リゾート)があります。

楼の岸砦

天満橋にある「エルおおさか」に大阪府の総合就業支援拠点「OSAKAしごとフィールド」があり、昨日は「働く女性・働きたい女性のための相談会」が開催されていました。副業型創業の相談も多いということで大阪府よろず支援拠点から出張して相談しておりました。

楼の岸砦
楼の岸砦

「エルおおさか」は上町台地の端にあり、目の前の大川には八軒家浜船着場がありました。江戸時代、京都の寺田との間に船運が結ばれていました。戦国時代にエルおおさかの横の高台になった所にあったのが楼の岸砦です。そう石山本願寺の砦です。

天正4年(1576年)5月3日に織田信長軍が木津砦(今宮駅ちかくにありました)を攻撃したところ、楼の岸砦から本願寺勢・約1万が討って出てきて、雑賀衆が数千丁の鉄砲で銃撃を加えます。大和守護だった塙直政などが討死します。この後の大和守護を巡って松永久秀と筒井順慶が争うことになります。塙直政を打ち破った一揆勢はそのまま明智光秀らが守っていた天王寺砦に襲い掛かり、落城寸前のところに織田信長が駆けつけて救いますが信長は敵の鉄砲を足に受けて軽傷をおうことになります。

楼の岸砦でも激戦となり蜂須賀小六が活躍いています。砦跡はなにもなく坐摩神社行宮近くにあったと伝わっています。ちょうど工事中でした。

筒井古城(伊賀上野)

伊賀上野城があった台地にはもともと平楽寺がありました。織田信雄が伊賀を拠点にするために丸山城の築城を始めた時、伊賀衆が平楽寺に集まり、完成前の丸山城攻撃を決定します。伊賀衆に攻められた丸山城は陥落。そこで織田信雄は信長に相談せず独断で伊賀に侵攻しましたが、伊賀衆に負けてしまいます。信長は親子の縁を切ると大激怒。

筒井古城(伊賀上野)
筒井古城(伊賀上野)

ただ伊賀をほっておくわけにもいかず、信長は大軍勢で伊賀攻めを行います。城になっていた平楽寺も落城し、伊賀はせん滅状態になります。翌年、本能寺の変が発生。天下を握った秀吉は大和の国を弟である羽柴秀長にまかせることにして、大和の筒井定次を伊賀に移すことにします。大和を支配した筒井順慶が有名で、「麒麟がくる」では松永久秀とのバトルをしていましたが、子供がいなかったため養子となった筒井定次が筒井家を継ぎます。

■筒井定次の伊賀上野城
天正13年(1585)に筒井定次が平楽寺のあった台地に伊賀上野城を築きます。これが筒井古城です。天守の東には城代屋敷跡があり、ここが筒井古城があった場所。藤堂時代の石垣を修理している時に奥から筒井時代の石垣が見つかっています。ここの北東に三層の天守閣がありました。江戸時代までは残っていましたが台風で倒壊したようです。この天守閣があった天守台に登れますが、案内も何もなく、少し藪をかき分けないといけないので、今まで登っている人を見ることはありません。