千貫櫓

千貫櫓

大坂城の大手口に対し、北西から横矢を狙うことができるのが千貫櫓です。豊臣大坂城の上に盛り土をして徳川大坂城を築きましたが、千貫櫓ができたのが元和6年(1620)です。乾櫓とともに大坂城内で最も古い建築物になっています。年に何回か公開されています。

千貫櫓という名前は古く、石山本願寺と信長が戦っていた時に、櫓からの横矢に悩まされ、信長が「銭千貫文を出しても取りたい」と言ったことが由来です。その後、建替えられた豊臣大坂城でも徳川大坂城でも名前が踏襲されました。

大坂城の最後の主が徳川慶喜。鳥羽伏見の戦いで敗れ、大坂城で戦う予定でしたが徳川慶喜は敵前逃亡し、江戸へ軍艦で戻ります。「何で!」ということですが、いろいろな理由がありました。一つがイギリスの動きで、鳥羽伏見で幕府が敗退すると、イギリスは「局外対立を保たないかもしれない」と幕府を脅します。イギリス海軍が大坂城を海上封鎖したら詰みになってしまいます。

もう一つ、お金の問題もありました。大坂での在留経費が1日7000~8000両かかっており、老中の板倉勝静に側近だった神戸謙次郎が報告しています。徳川慶喜の耳に入っていたはずで大坂城を脱出して江戸に戻ったのは財政的な理由も多かったようです。

茶臼山 丸馬出し

天王寺へ行ったついでに天王寺公園内にある茶臼山へ。大坂冬の陣では徳川家康の本陣となり、翌年の大坂夏の陣では真田信繁の本陣となりました。目的は馬出しを見に行くためです。馬出しとは城の出入り口である虎口を守る小さな曲輪で堀などで守りながら横から出撃できるようになっています。

茶臼山 丸馬出し
茶臼山 丸馬出し

■茶臼山 丸馬出し
2014年、松江歴史館で保存されている「極秘諸国城図」に真田丸などの縄張り図などが含まれていることが分かり大きなニュースになりました。他にも大坂夏の陣における天王寺・岡山の戦いの舞台である茶臼山などの縄張り図がありました。真田信繁が守る茶臼山には西側に丸馬出しが築かれ、毛利勝永が守る岡山には東側に丸馬出しが築かれ、茶臼山と岡山の間には和気清麻呂が掘った古代の運河跡がありましたが、これをさらに掘って堀にしました。

写真が現在も残る丸馬出し跡です。完全に公園になっていてベンチなどでくつろいでいる人が多いのですが、ちゃんと丸馬出しの形になっています。ちなみに現地へ行ってもどこにも説明はありませんので

天王寺砦

天王寺砦
天王寺砦

天王寺砦があったのが四天王寺夕陽丘駅のすぐ近くにある月江寺で、昔は門前に堀跡があったとされています。何も遺構は残っていません。月江寺は上町台地の上にあるので西側は崖になっています。ここで行われたのが「天王寺砦の戦い」。天王寺砦を守っていたのが明智光秀と佐久間信栄(佐久間信盛の息子)ですが本願寺勢に包囲されてしまいます。急報を受けた織田信長は若江城に入り、3000ほどの兵を集めて、本願寺勢1万5千に突撃します。

織田軍は敵陣を切り崩して、天王寺砦の守備隊と合流しますが、信長自身も陣頭で自ら戦い、敵の鉄砲を足に受けて軽傷を負います。織田軍は体制を立て直そうとしていた本願寺勢を再度、攻撃して撃破。最終的に織田軍の勝利で終わります。

木津砦

木津砦
木津砦

織田軍が天正4年(1576年)5月3日に木津砦に攻撃をかけます。第一陣が三好康長・根来衆・和泉衆、第二陣が塙直政・大和衆・山城衆でした。ところが石山本願寺の楼の岸砦から約1万が援軍にかけつけ、最終的に織田軍は崩壊し、織田方の天王寺砦が包囲される事態になります。

木津砦があった場所が今宮駅近くの出城と言う場所。今も地名が残っていてニトリの横に出城公園があります。このあたりに砦がありましたが遺構は何も残っていません。微高地になっているので、周りは沼かなにかになっていたのでしょう。石山本願寺や楼の岸砦は上町台地上にありましたが、木津砦は台地を降りた西側にあります。真田丸みたいな出城だったんでしょう。少し歩くとOMO7大阪(星野リゾート)があります。

楼の岸砦

天満橋にある「エルおおさか」に大阪府の総合就業支援拠点「OSAKAしごとフィールド」があり、昨日は「働く女性・働きたい女性のための相談会」が開催されていました。副業型創業の相談も多いということで大阪府よろず支援拠点から出張して相談しておりました。

楼の岸砦
楼の岸砦

「エルおおさか」は上町台地の端にあり、目の前の大川には八軒家浜船着場がありました。江戸時代、京都の寺田との間に船運が結ばれていました。戦国時代にエルおおさかの横の高台になった所にあったのが楼の岸砦です。そう石山本願寺の砦です。

天正4年(1576年)5月3日に織田信長軍が木津砦(今宮駅ちかくにありました)を攻撃したところ、楼の岸砦から本願寺勢・約1万が討って出てきて、雑賀衆が数千丁の鉄砲で銃撃を加えます。大和守護だった塙直政などが討死します。この後の大和守護を巡って松永久秀と筒井順慶が争うことになります。塙直政を打ち破った一揆勢はそのまま明智光秀らが守っていた天王寺砦に襲い掛かり、落城寸前のところに織田信長が駆けつけて救いますが信長は敵の鉄砲を足に受けて軽傷をおうことになります。

楼の岸砦でも激戦となり蜂須賀小六が活躍いています。砦跡はなにもなく坐摩神社行宮近くにあったと伝わっています。ちょうど工事中でした。

筒井古城(伊賀上野)

伊賀上野城があった台地にはもともと平楽寺がありました。織田信雄が伊賀を拠点にするために丸山城の築城を始めた時、伊賀衆が平楽寺に集まり、完成前の丸山城攻撃を決定します。伊賀衆に攻められた丸山城は陥落。そこで織田信雄は信長に相談せず独断で伊賀に侵攻しましたが、伊賀衆に負けてしまいます。信長は親子の縁を切ると大激怒。

筒井古城(伊賀上野)
筒井古城(伊賀上野)

ただ伊賀をほっておくわけにもいかず、信長は大軍勢で伊賀攻めを行います。城になっていた平楽寺も落城し、伊賀はせん滅状態になります。翌年、本能寺の変が発生。天下を握った秀吉は大和の国を弟である羽柴秀長にまかせることにして、大和の筒井定次を伊賀に移すことにします。大和を支配した筒井順慶が有名で、「麒麟がくる」では松永久秀とのバトルをしていましたが、子供がいなかったため養子となった筒井定次が筒井家を継ぎます。

■筒井定次の伊賀上野城
天正13年(1585)に筒井定次が平楽寺のあった台地に伊賀上野城を築きます。これが筒井古城です。天守の東には城代屋敷跡があり、ここが筒井古城があった場所。藤堂時代の石垣を修理している時に奥から筒井時代の石垣が見つかっています。ここの北東に三層の天守閣がありました。江戸時代までは残っていましたが台風で倒壊したようです。この天守閣があった天守台に登れますが、案内も何もなく、少し藪をかき分けないといけないので、今まで登っている人を見ることはありません。

貝塚御坊の堀

本願寺は、けっこう引越しをしています。

貝塚御坊の堀
貝塚御坊の堀

本願寺はもともと京都の大谷にありましたが、戦国時代は宗教戦争の時代でもあったので延暦寺の衆徒によって破却されます。越前の吉崎に移り、やがて山科に本願寺を作ります。寺といいながら中身は城で、高い土塁や堀、郭から構成されていました。山科中央公園に今も当時の土塁跡が残っています。堅牢な城でしたが京都の日蓮宗徒と近江の六角定頼の連合軍によって攻められ焼かれます。

こうして移ったのが大坂の石山本願寺。ところが信長と敵対したことで10年にわたる戦いになります。信長は天王寺砦などを構築して攻めますが、なかなか決着しません。最終的には和睦となり本願寺は紀伊の鷺森に移ります。秀吉の時代になって貝塚に移り、これが貝塚御坊(願泉寺)になります。貝塚御坊も寺内町になっていて周りを堀で囲んだ環濠になっています。感田神社に堀跡の一部が残っています。

このあと貝塚から天満に移り、やがて京都へ戻ります。家康の時代になると勢力をそぐために西本願寺と東本願寺に分けられます。

千石堀城

千石堀城の隣の尾根
千石堀城の隣の尾根

高井城と同様に根来衆の出城となっていたのが千石堀城です。高井城とは近木川をはさんだ反対側にあります。千石堀城は周りを囲む堀が二重になっていて、特に東堀と北堀が明瞭に残っています。主郭へ続く虎口は食い違いになっています。千石堀城には根来方が千数百人が立て籠もり、なかなか落城しませんでしたが、筒井順慶軍が放った火矢が城内の火薬に引火し爆発で落城したといわれています。

千石堀城ですが、以前は藪から直登するしかなかったのですが、空堀に入れる遊歩道ができており、難なく郭内に入ることができるようになっています。紛らわしいのは紀泉鉄道計画路線跡に出ている案内版で城とは反対の南の尾根に登るようになっています。千石堀城を攻める付城がないかなと登りましたが展望台があるだけで遺構はなかったです。展望台からは遠くに関空が見えます。

高井城

秀吉と家康が直接、戦った小牧・長久手の戦いですが、関ケ原の合戦と同様に戦場は全国で家康に呼応していた根来衆は岸和田城を攻めます。城主は中村一氏でなんとか根来衆を撃退します。この時に大蛸に乗った僧と数千の蛸に城を救われたという伝説から蛸地蔵駅があります。

高井城
高井城

翌年、天正13(1585)年に秀吉は紀州根来衆征伐に乗り出します。大坂城から10万の軍勢を率いて岸和田城に入場します。根来衆は貝塚の海から山まで近木川沿いに出城を13も築きます。その一つが高井城。現在は公園になっていて案内板だけがあります。3つの郭と3重の堀に囲まれていました。籠城していたのは根来寺の行左京・熊取大納言と近隣の農民約200名でしたが福島正則の軍勢によって攻められ落城しました。

恩智城

東高野街道沿いにあるのが恩智城。

恩智城
恩智城

街道をそれて高台を登ると児童公園になっていて、ここが恩智城跡。遺構はないのですが郭跡などがよく分かります。東高野街道をよく監視できる場所にあります。城を造ったのは恩智左近で、さらに高台を登ったところにある恩智神社の社家の出と伝わっています。

後醍醐天皇の建武の新政時代に恩智城が造られたようです。恩智左近は楠木正成と一緒に戦った八臣の一人で千早城籠城などでともに戦い、楠木正成が討ち死にする湊川の戦の後は、楠木正行を助けて四条畷の戦いに出陣。討ち死にしたとも病死したとも伝わっています。四条畷は東高野街道を北に上がったところですので、楠木正行も恩智城に寄って北上したのでしょう。