貝吹山城

貝吹山城
貝吹山城

久米田池のすぐ横にあるのが貝吹山古墳。前方後円墳で上に登れます。一説では橘諸兄の墓という説があり諸兄塚とも呼ばれています。

戦国時代、三好実休(三好長慶の弟)が古墳を改良して城にしました。これが貝塚山城です。堀を作り、削平して郭も整備していました。永禄5年(1562年)3月に三好実休と畠山高政がぶつかりました。畠山高政は紀伊・河内国の守護大名でしたが三好長慶に敵対し古市にある高屋城を追われて紀伊に逃れます。再起を期して紀伊から根来衆の援助をえて三好勢を攻め、これが久米田の戦いです。畠山高政は三好実休を破り戦死させます。

三好長慶は飯盛山城で連歌の会の最中に実休の訃報を聞くことになります。三好実休は茶道の造詣が深く武野紹鴎に学び、千利休らとも交流していました。実休の茶道具の多くは信長の手に渡り、本能寺の変でなくなります。辞世の句が「草枯らす 霜又今朝の日に消て 報の程は終にのがれず」と伝わっています。

稲葉塁

稲葉塁
稲葉塁

岸和田にある菅原神社の奥にあるのが稲葉塁とよばれる単郭山城。牛滝川と支流に狭まれた河岸段丘にあります。

堀と丸い形をした郭があり詰城として使われていたようです。城主についてはよく分かっておらず、今木氏、大井氏などの名前の他、稲葉氏が城主を勤めていた時代もあるようです。天正8年(1580年)に織田勢が岡山御坊を攻撃する時に稲葉氏が岡山御坊側に着いたため、攻撃され落城したようです。

山城に登るって言ったじゃない!

ファイティング・コンサルタンツ研究会
ファイティングコンサルツ研究会

ファイティング・コンサルタンツ研究会という中小企業診断士の研究会があって秋になると歴史探訪シリーズを行っています。

一度ぐらい山城を登りますかということで織田信長以前に天下をおさめた三好長慶の飯盛城を提案したところ皆が賛同。本日のスケジュールは上方落語で有名な野崎観音ー野崎城(飯盛城の出城)-飯盛城ー四条畷神社ー楠木正行墓所を巡るコースです。

飯盛城はハイキングコースになっていて、山城にしては珍しくきちんと山道が整備されており、高さも300メートル少しで山城を体感するには最適なコースです。大体、山城へ行くのに山道があるだけでありがたいです。

ところが野崎城から飯盛城へ登り始めると、「しんどい!」と不平がオンパレード。いつもは頂上までノンストップで登るのですが、休憩しながらひたすら頂上を目指します。

大体、登る前にランチを食べに入った中華料理屋で宴会してビールをバカバカ飲んでいたのがしんどいの一番の原因でしょう。

だから山城に登るって言ったじゃない!

中野古城

中野古城
中野古城

大阪府よろず支援拠点のお仕事でクラウド会計活用セミナーを富田林商工会で行ってきました。古市古墳群の中にあり、東に行くと二上山で、麓には聖徳太子が眠る上ノ太子があります。駅前からバスが出ています。

セミナーはWヘッダーで前半を担当し、後半は大阪府によるIoT事例のお話でした。IoT事例の時に近くに古墳がないかなと探していると中野古城なるものをGoogleマップで発見。城の情報を探しましたが、何もないですね。富田林の文化財コーナーを見ると商工会議所がある粟ケ池から東へ約200メートルの石川西岸に喜志城跡があったようなので、中野古城は喜志城と連携していたのかもしれません。喜志には東高野街道が通り、ちょっと行ったら河内長野で楠木正成の山城群となりますから城の可能性は高いです。

セミナーと個別相談が終わり、日没までの時間に中野古城まで出かけてきました。台地の縁が城跡になっており、周りは帯郭なのか堀跡なのか分からないものが巡っていました。郭までは切岸になっていて高さは5メートルほどあります。写真の右側が郭跡です。周りには水路があるので、これがかっての堀跡だったかも知れません。

大和鈴山城

大和鈴山城
大和鈴山城

近鉄五位堂駅から北へ10分ほど歩くと、かつらぎの道という散歩道があって、ここを入ってすぐ左手の丘陵上にあるのが大和鈴山城。郭跡がしっかり残っています。

堀切から城の中に入ることができます。大和鈴山城は単郭で四周に堀を巡らし、櫓台と土塁で囲まれています。誰が造った城か分かりませんが、このあたりは岡氏・高田氏・万歳氏などの大和武士が活躍した地域です。

大和鈴山城は馬見丘陵の西南端に位置しており、馬見丘陵は葛城氏の古墳群(馬見古墳群)で有名です。香芝市の発掘調査を見ていると3つの古墳があって、2号墳がそのまま露台として使われていました。入口の土橋のところにも1号墳があり、古代の古墳を活用して城造りしていたようです。

五位堂という大阪のベッドタウンの中に山城がしっかり残っているのがいいですねえ。

八尾城

八尾城
八尾城

物部の神様である八尾神社境内に矢尾城址碑がありますが、城がどこにあったのかは分かっていません。

室町時代、八尾の豪族だった別当兼幸(顕幸)が築城したと伝わっています。古文書には1337年(建武4年、南朝は延元2年)に南朝方の高木遠盛らが八尾城を攻めたとあり、この頃には城がありました。南北朝から戦国時代にかけて八尾城は合戦の舞台や陣地となっています。

八尾城は戦国時代になると池田丹後守教正の居城となります。池田丹後守教正は三好長慶の後継者である三好義継が若江城主の頃、補佐した家老の一人ですが、やがて松永久秀に属し、久秀が信長に降った時は同じく信長配下になりました。イエズス会が本国に送った報告では、キリシタン武将だった池田丹後守教正の影響で城下には、数多くのキリシタンが住んでいたようです。飯盛山城の城下にあった三箇のような当時の八尾はキリシタンの町だったのでしょう。

河内の城といえば高屋城、若江城でしたので八尾城の戦略的位置づけは相対的に下がっていき、やがて廃城となったようです。

真田丸へ

真田丸
真田丸

午後から鶴橋で仕事でしたので、ちょっと歩いて真田丸跡へ。

大坂冬の陣で真田信繁が活躍した出城です。一緒に戦った兵は大坂城に入った浪人でしたので、それほど時間もないなか、どうやって教育したんでしょね。赤備えで統一し、帰属意識を明確にするなどいろいろな手をうちました。武田以来の赤備えですので徳川軍に与える心理的影響は大きかったでしょう。

写真は大坂城と真田丸との間にあった堀跡で、以前は大坂城と真田丸はつながっていたと考えられていましたが、今は明確に切り離された出城だったことが判明しています。遺構は残っていませんが高低差が往時のまま残っています。

この後、スコールのような雨に遭遇してしましました(泣)

信長より早く、飯盛山城は見せる城だった!!

飯盛山城
飯盛山城

久々にビッグニュースが飛び込んできましたね。 

信長より先に天下人となった三好長慶の飯盛山城から広範囲な石垣が発見されました。おお!!! 

城の南側にある千畳敷郭周辺で、推定で長さ30メートル、高さ4メートルの石垣を発見。大東市教育委員会によると今まで発見された石垣約100カ所のうち約半数が、三好長慶が飯盛山城に居城した時期に造られたことが判明しました。 

これまで石垣を多用し、それまでの「守る城」から「見せる城」へ変えたのが織田信長の小牧山城からと言われていましたが、それよりも早く三好長慶が「見せる城」を実現していたようです。 

飯盛山城は生駒山地の北側に築かれ、河内、摂津、大和、山城が眺められます。麓から見ると今まで見たことがない石垣の城が山上にそびえ視覚効果が高かったでしょうね。三好長慶は織田信長よりも早く足利将軍を追放し、天下人となった人物で、織田信長は三好長慶を手本にしていたようです。三好長慶を支えた松永久秀の多聞城にあった天守閣をまねて安土城天守閣を作ったとも言われています。 

G20となっているインテックス大阪からも飯盛山城が眺められますが、どこもニュースで流さないでしょうね。

池上・曽根遺跡

池上・曽根遺跡
池上・曽根遺跡

池上・曽根遺跡は和泉にある弥生時代中期の環濠集落で池上町と曽根町の地名から名付けられています。2つの町にまたがる広大な遺跡です。 

環濠(つまり堀)は二重となっていて、つまり城の原型です(笑)。環濠の中には大型建物を中心とした祭りの場で、隣では青銅器や鉄器を作っていた工房がありました。環濠の周りに居住地があり、つまり用途によって区切られていました。市街化調整区域みたいなものですねえ。 

池上・曽根遺跡は平地につくられましたが、やがて高地性集落となっていきます。水田耕作に有利な平地から高台に集落ごと移動するのは倭国の大乱(魏志倭人伝では大乱をおさめるために邪馬台国の卑弥呼を奉じたとなっています)で守りやすい高台にしたというのが通説だったのですが、どうも古代の関西では大地震などによる洪水の影響が大きかったのはと言われています。

曽根城(和泉)

曽根城
曽根城(曽根神社)

和泉の曽根神社にあったのが曽根城。

曽根神社の案内版には曽根城を築いたのは玉井源秀とありますが玉井源秀(壱岐守)は千原城主のはずなんで「泉州志」にある玉井駿河守の可能性が高いでしょう。いずれも和泉三十六郷士の一人です。

和泉の玉井氏の本貫は和泉国和泉郡にあった玉井邑のようです。和泉三十六郷士のうち玉井一族は玉井壱岐守、玉井遠江守、玉井駿河守の3名です。皆でまとまって行動することもあり共和国のような感じでした。信長の支配下になった時は、そのまま従い所領は安堵されます。ただ石山本願寺の戦いに駆り出され、第1次木津川口海戦で毛利水軍に大敗した時に郷士のほとんどが討死しました。

曽根城の周りに低い土塁が巡り、これが城跡の痕跡となります。