大坂城・水没計画

大坂城の冬の陣。真田丸で真田信繁が活躍した戦いです。

ハザードマップ
ハザードマップ

最新の研究で分かってきたのが豊臣秀頼の大坂城・水没計画。大坂城ですが徳川軍に包囲されると兵糧攻めと同じなので不利になります。そこで淀川の堤を壊して大坂城の北と東を水没させることにして実際に実施しました。

NHKでシミュレーションをしていましたが大阪市の洪水ハザードマップを見ると、よく似ています。大坂城の北と東は低地になっているため、見事に赤くなっています。徳川軍は結局、西と南からしか攻撃できなくなりました。また真田丸と大坂城との間の空堀も水堀にしてしまったようです。

徳川軍は堤を直す大土木工事を行い、何とか北側に干上がった土地を確保し、ここから天守閣に向けて大砲を打ち込むことで和睦にもちこみました。

有岡城

塚口でお仕事だったので、少し足をのばして伊丹へ

有岡城

JR伊丹駅のすぐ目の前にあるのが有岡城です。もともとは南北朝時代、摂津国人の伊丹氏によって建築されたものを荒木村重が改修しました。荒木村重は織田信長に謀反を起こし1年間にわたる有岡城の戦いがはじまります。

織田信長にとっては荒木村重の裏切りが青天の霹靂だったようで、摂津一国をまかせているのに「何で!」という思いだったのでしょう。信長の性格や合理主義が今では当たり前の感覚ですが、当時の価値観とはあわなかった面があり、明智光秀、浅井長政、松永久秀など、信頼していたのに、けっこう裏切られています。

また摂津は織田政権下で支配強化の動きがあり、これに反発する国人や百姓など下からの突き上げがありました。荒木村重もこういった意見をきかないと統治できなくなることから謀反することになったという説もあります。荒木村重にとっても総構の城で、しかも毛利や石山本願寺とも連携がとれており、十分に勝算があった戦いでした。

塙団右衛門の五輪塔

大坂夏の陣で最初の戦いとなった樫井の戦いで討死したのが塙団右衛門です。五輪塔が建てられています。大河ドラマ「真田丸」小手伸也さんが演じていました。

塙団右衛門
塙団右衛門

塙団右衛門の生まれなどはよく分かっておらず諸説ありますが、秀吉の小田原合戦の後あたりで伊予国松山の大名だった加藤嘉明に仕えていました。朝鮮の役で活躍し鉄砲大将になっています。しかし関ヶ原の戦いの時に、鉄砲大将ながら命令を無視して勝手に足軽を出撃させたことで加藤嘉明と対立し、禄を捨てて出奔します。能力はあるが手前勝手で使いづらい人物だったようです。

紆余曲折があり浪人生活が長いところに舞い込んだのが徳川と豊臣との戦。徳川方に味方しても禄は期待できないが豊臣方ならば一発逆転のチャンスがあると豊臣方に参戦します。大坂の陣では同じように一旗揚げようと考えた浪人が多かったのでしょう。

■本町橋の戦い
塙団右衛門の名前を有名にしたのが大坂冬の陣、本町橋の戦いです。大阪産業創造館や大阪東警察署あたりに布陣していた米田監物と蜂須賀至鎮の陣に夜襲をしかけます。この時、本町橋の上に床几を置いて腰かけて動かず、兵に下知を飛ばして戦いました。しかも、「夜討ちの大将 塙団右衛門直之」と書いた木札をばら撒かせ、広報はバッチリです。

■樫井の戦い
大坂夏の陣の樫井の戦いでも、この手前勝手さがでます。大野治房の指揮下で出陣したのに、一番槍の功名を狙って先陣争いで突出してしまいます。本隊との連携が取れずに交戦してしまい討死します。

淡輪城

南海淡輪駅近くにあるのが淡輪城。

淡輪城
淡輪城

もともとは橘氏だったようで鎌倉中期から和泉国淡輪荘に入り、淡輪氏を名乗るようになります。荘園を預かる荘官でしたが武士化し、国人として勢力をのばしていきます。淡輪城は周囲に土塁を巡らした方形館で、土塁の一部が残っていますが私有地になっており、外から眺めるだけです。

淡輪氏の娘が豊臣秀次の側室「小督局」となっていたことから豊臣秀次事件で秀吉から所領没収となり勢力を失うことになります。大坂の陣では淡輪重政が淡輪の少し北にある樫井の戦いで大坂方として討死します。供養塔が古戦場近くにあります。

医王寺城(桝形山城)

淡輪にある医王寺城(枡形山城)へ。

医王寺城(桝形山城)
医王寺城(桝形山城)

淡輪駅からひたすら坂を登ると望海坂の宅地があり、ここからさらに登ると水道タンクのフェンスに「旗立山」への木札が出ています。堂島の米相場を各地の山上で旗をリレーすることで旗振り通信が行われていましたが、そのうちの一つだったんですね。

■医王寺城(桝形山城)

フェンス横から山道があり、ひたすら登っていくと枡形山城の木札がありました。見過ごしてしまいそうな所で、この案内はありがたいですね。山道から入ると土塁と堀切があり、そこから郭に入れます。単郭方形の郭で土塁の一部が残っていました。郭からは関西国際空港も見えます。

城を誰が作ったかは分からず、淡輪氏の山城説や織田信長の雑賀攻めで信長側もしくは雑賀側が作った陣城ではないかと言われています。今は木々に覆われていますが、当時は眺めがよいので海上監視や烽火台による緊急連絡が行われていたのでしょう。

和泉 真鍋城

先週、泉大津商工会議所でインボイスのセミナーをした後、近くの真鍋城に寄ってきました。浜街道のすぐ近くにあります。

真鍋城
真鍋城

城郭は残っておらず現在の南溟寺一帯にありました。寺の敷地に真鍋城跡の石碑が建っています。真鍋氏はもともと和歌山に近い淡輪の在地土豪で、南北朝時代に眞鍋主馬大夫が泉大津に城館を構えます。

和泉国には強力な勢力がなく、各地の地侍が一つになって行動していました。これを和泉三十六郷士と呼んでいます。ところが戦国時代になると強力な織田信長が現れ、雑賀攻めなどで信長に従うことになります。真鍋氏は1576年の第一次木津川口の戦いに水軍を率いて信長方として参戦し、戦死しています。城は天正年間には廃城となり現在の南溟寺が建てられることになります。

高屋城

高屋城
高屋城

大阪府よろず支援拠点のお仕事で羽曳野商工会へ。セミナーと相談会を行ってきました。最寄駅は古市駅です。

古市駅近くにあるのが高屋城。郭の土塁が一部残っている以外はすっかり市街地化になっています。それでも城の形が地形として残っていて東高野街道と樫原神宮へ向かう近鉄のあたりは高台になっていて土塁跡でしょう。

生駒山沿いの東高野街道と大和からは街道が交差するところにある交通の要衝です。大坂夏の陣では道明寺の戦いが行われたところです。室町時代、畠山基国が管領の時に築城され河内守護の城となりましたが、何度も戦いの舞台になります。最後は織田信長が池田勝正、十河一行、雑賀衆の鈴木孫一などと戦い、この後に廃城となったようです。

久宝寺寺内町

戦国時代、一向宗のシンボルとなったのが蓮如上人で、一向宗と共に建立したのが西証寺(今の顕証寺)。西証寺を中心に堀が掘られ環濠集落(久宝寺寺内町)ができあがります。ちなみに久宝寺と地名は許麻神社の境内にあった久宝寺観音院が由来で明治になった廃仏毀釈で廃寺となりました。

久宝寺寺内町
久宝寺寺内町

久宝寺寺内町には堀と堀との間に土塁が造られ、町の入口は六ヶ所で、それぞれ木戸門と番所が設けられました。門徒宗が集まり、商業活動が盛んになります。

やがて戦国時代の終焉から検地が行われるようになると寺内町の特権がなくなっていき普通の町になっていきます。ただ堀があったこともあり町割りは昔のままで、通りなどもそのまま残っています。顕証寺の南側には濠と土塁跡が残っています。

■八尾寺内町の誕生
徳川の時代となり本願寺が西と東に別れますが、顕証寺は西側でした。久宝寺寺内町も分裂し東側を支持する派は当時、流れていた大和川(今の長瀬川)の向こう側に慈願寺と共に移り八尾寺内町を作ることになります。

伏線があって信長と本願寺が講和した時、顕証寺は顕如の講和派でしたが、慈願寺は教如の抗戦派だったことが尾を引いていたようです。

久宝寺城

久宝寺城は河内守護であった畠山氏の城でした。

久宝寺城
久宝寺城

畠山満基が河内国渋川郡を領有したことから渋川氏を名乗ります。渋川郷は久宝寺など八尾の一部、東大阪の一部や生野区なども含む広大な土地でした。やがて播磨国の安井郷に移封されたことから安井氏を名乗ります。安井定重、定正という兄弟は織田信長に仕え、本願寺との戦いで戦死。末弟である安井定次が家をつぎ、久宝寺に住んでいたようです。少し前まで土塁もあったようですが現在は碑しか残っていません。また城土居という字名が残っています。

■道頓堀、天地明察
安井定次と子供(諸説あり)の安井成安は秀吉に仕え、安井成安(道頓)が開削したのが道頓堀です。安井家は囲碁の家元四家の一つにもなっていますし、小説や映画で有名な「天地明察」の主人公は天文暦学者の安井算哲(渋川春海)でした。畠山満基時代の渋川を名乗っていました。

摂津池田城

摂津池田で仕事でしたので帰りに池田城に寄ってきました。

摂津池田城
摂津池田城

阪急池田駅からすぐ近くに池田城はあり、城跡公園になっていますが緊急事態宣言で封鎖中です。駅から標高50mほどの高台へ登っていくと上には城跡公園や老健施設などがあり、ここらへんが城跡で尾根上に配置されていました。西側は崖になっていて北側には堀替わりの杉ヶ谷川があります。

地域の土豪である池田氏が城主でした。池田勝正となり最初は信長に反抗しましたが、やがて信長に従うようになり摂津三守護の1人に任命され、金ヶ崎の退き口では秀吉、三成とともに殿(しんがり)を務めます。

ところが荒木村重に池田家内に内紛をおこされ追放されます。やがて使われなくなったようですが荒木村重が信長に反旗をひるがえした時に信長は池田城を修復して攻撃拠点とします。荒木村重の有岡城が落城した後に廃城となりました。