真鍋城

泉大津商工会議所でセミナーでしたので、ランチのついでに真鍋城へ寄ってきました。

真鍋城
真鍋城

泉大津駅からちょっと行ったとところに南溟寺というお寺があって、ここが真鍋城(大津城)跡。鎌倉時代から城郭があったようで、この頃は斎藤氏の城ですが、後に真鍋氏の城となります。眞鍋氏はもともとは日根郡淡輪村の土豪で、南北朝時代に眞鍋主馬大夫が和泉郡大津村に城館を構えたそうです。

戦国期には強大な勢力の無かった泉州では、各地の地侍が一つにまとまって(和泉三十六郷士)、行動をとるような体制ができました。泉州に進出してきた織田信長には無抵抗で降伏し所領を安堵されます。真鍋城のすぐ横が浜街道で、海岸がすぐ近くだったこともあり泉州和泉水軍衆(真鍋水軍)を率いていたようです。「村上海賊の娘」には織田方の水軍の将として眞鍋七五三兵衛という名前が出てきます。第1次木津川口海戦で毛利水軍と戦い討死しています。

天正年間に真鍋城は廃城となり、跡地に長泉寺(現在の南溟寺)が建立されました。城跡は残っていませんが周囲にはいくつかの水路があり、堀代わりだったようです。

御体塚

織田信長より先に天下をとった三好長慶ですが後継者の息子に先立たれるなど晩年は不遇でした。

御体塚
御体塚

三好長慶は永禄7年(1564年)に42歳で亡くなりました。この年、美濃では斎藤龍興を諫めるため竹中半兵衛が稲葉山城を乗っ取り斎藤龍興を半年ほど追い出す事件がありました。織田信長は桶狭間の戦いに勝利し、徳川家康と同盟することで東側の脅威をなくし、本格的に美濃攻めをしていた頃です。

■御体塚
三好長慶は飯森山城で亡くなり、遺骸は郭に塚を作って仮埋葬されました。これが御体塚ですが、郭はハイキングコースから微妙にはずれていますので誰もおりません(笑)。その後、八尾にある真観寺に墓は移されます。

■三好義継が家督を継ぐ
三好長慶の後は甥が継ぐことになり、これが三好義継です。松永久秀や三好三人衆がバックアップしますが、家督を継いだのが15歳ぐらいですので内紛が発生。しかも織田信長の上洛もあって、三好家はしっちゃかめっちゃかになります。最後は追放された足利義昭を若江城で匿ったため織田軍に攻められて25歳で討死しました。この三好義継の墓も八尾の真観寺にあります。

野崎城

野崎観音の裏手の山にあるのが野崎城。4つの郭で構成されていますが見晴台として郭が残っています。

野崎城
野崎城

■兵を動かすには東高野街道しかなかった
野崎城の目の前を通るのが東高野街道。今は大阪平野ですが江戸時代に大和川の付け替えが行われるまで深野池(ふこのいけ)が大坂の東側に拡がっており、京都から大坂へ大軍を異動するには山沿いにある東高野街道を南下して柏原あたりから平野へ抜けるしかありませんでした。大坂の陣でも家康、秀忠はこの東高野街道を通っています。

四条畷の合戦の舞台でもあり、野崎城のあった場所には幕府側が陣取って楠木正行軍を攻めたようです。

■飯盛山城の出城に
飯盛山城が整備されてからは出城になったようです。飯森山の東側(奈良)には田原城があり、西側(大坂)の深野池の中には三箇城がありました。3つの城が支城になっていました。三好長慶は信長以前に畿内のキリシタン信仰を認めたため三箇城や田原城周辺はキリシタンの里となりました。

江口城

天文18年(1549)6月12日~24日、上新庄にある大阪経済大学の近くで行われたのが江口の戦いです。争ったのは三好長慶と同族の三好政長で三好の総裁をどちらがとるかの戦いでした。

江口城
江口城

淀川と神崎川によって三方を囲まれた要害の地に江口城がありました。淀川の流域が大きく変わったこともあり今は住宅地に埋没していますが、大隅神社があったあたりと言われています。

三好政長が江口城で籠城していましたが、三好長慶が包囲して兵糧攻めにし孤立させます。三好政長は後詰になる近江の六角氏を待っていましたが、六角軍が江口城に到着する直前に三好長慶が江口城を攻め、疲弊していた政長軍は持ちこたえられず落城し、三好政長は討死します。江口城は三好長慶側の中川重清(中川清秀の父)が城主を勤めることになりました。

松永久秀屋敷跡

昨日の「麒麟がくる」では多聞山城にいる松永久秀を明智光秀が訪ねるシーンが出てきました。多聞山城にはチラッと信長が参考にした天守閣が映っておりNHKもなかなか細かいですね。天守閣を初めて松永久秀が造ったという説があります。同じく松永久秀が考えた多聞櫓はさすが映りませんでしたが。

松永久秀屋敷跡
松永久秀屋敷跡

■松永久秀の出身地
松永久秀ですが出身はよく分かっていません。摂津の東五百住(ひがしよすみ)説が濃厚で高槻城主だった入江氏の一族だったようです。古地図に松永屋敷と書かれたものがあり、現在も城垣内という字名が残っています。というわけで摂津富田へ出かけてきました。もっとも遺構は何も残っておらず住宅地と畑だけです。

「麒麟がくる」では冒頭に飯盛山城で亡くなる三好長慶が出てきますが、この三好長慶がなかなかすごい人物で、よそ者の松永久秀を抜擢し、やがてNo2にします。まさに実力主義。居城も越水城、芥川山城、飯森山城など次々に変えていきます。信長は大いに三好長慶を参考にしたようです。

大和田城

佃近くには城跡があり、仕事が終わってから行ってきました。

大和田城
大和田城

平城ですが、何も残っていません。もともとは石山本願寺の砦があったようですが、織田信長が石山本願寺が落ちた後に拠点にしたようです。神崎川近くで交通の要衝でした。

大和田城は太田牛一の「信長公記」に出てきます。出てくるのは荒木村重の裏切りの時で、安部二右衛門という武将が城主をつとめていて信長側でしたが父と祖父が反対し、荒木軍につき、天守に立て篭もったとの記載があります。大和田城には天守がある大きな城だったようです。何とか取り戻したようです。大坂夏の陣頃までは城があったようです。

城跡は何も残っていず説明版が大阪市立大和田小学校前にありました。

高槻城と高山右近

高槻でお仕事でしたので帰りに高槻城へ寄ってきました。

高山右近
高山右近

といっても城跡は残っておらず城址公園があるだけです。高槻城といえば高山右近ですが、高山右近がおさめた時期はそれほど長くはなく10年ほどです。戦国時代の高槻の城といえば三好長慶が本拠地とした芥川山城で、織田信長が摂津に侵攻し芥川山城が落城してからは平城の高槻城が中心に使われるようになります。

高山右近はキリシタン大名として有名でしたが洗礼を受けたのは奈良県宇陀郡榛原町にあった沢城。高山右近の父親である高山図書が沢城に入城し、教会が建てられておりルイス・フロイスも訪れています。

■危機一髪だった高山右近
荒木村重が信長に謀反を起こした時、荒木村重を説得するために高山右近は子供や妹を人質に差し出して話をして荒木村重は納得します。荒木村重を信長のもとへ連れていこうと茨木まで進むと重臣たちから反対の通知が届きます。摂津の領主を変えるぞという下からの突き上げで荒木村重は有岡城へ戻ります。

高山右近は人質が握られているので動けません。そこで信長は宣教師をおどして高山右近が荒木村重に加担しないよう説得にむかわせます。高山右近の父親である高山図書は荒木村重につきました。

枚方城

枚方の高台に枚方小学校があり、このあたりにあったのが枚方城です。枚方市駅から、えっちらおっちら坂を登った所にあります。と言っても枚方城の遺構は残っておらず、東西と南の三方が深い谷になっていて高低差があり、城の立地としては最適です。

枚方城
枚方城

もともとは枚方御坊があって寺内町が形成されていました。土塁や掘で囲まれていますので実質的に城です。織田信長の石山本願寺との戦いで焼き討ちされています。

枚方城主だったのが本多政康で百済王氏の末裔と称していました。枚方は新羅に攻められて亡命してきた百済王の一族が住んだところで、百済王氏の氏寺である百済寺跡があるので、可能性はあります。応仁の乱で焼けてしまった一乗寺と意賀美神社を本多政康が再建し、本多政康の墓は一乗寺にあります。秀吉の家臣でしたが大坂夏の陣では大坂方につき枚方城は徳川に攻められて落城、本多政康は戦死し没落します。

※でしたが「近畿の城郭」を読んでいると枚方城があったというのはガセネタという書込みがありました。これも椿井文書なのかなあ。調べなくては

石川河原城

石川河原城
石川河原城

Googleマップを見ると城跡の地図がよく出るようになりました。もっとも場所が間違っていることもあります。白木陣屋から富田林駅までの帰り道を調べていた時に見つけたのが石川河原城です。行ってみたら城の遺構は残っていませんが川沿いの台地の上で道路からは5mほどの高さがあり城を造るには適地でした。

太平記には石川城として登場しています。「越後守師泰(高師泰のこと)は、楠退治の為に河内国に下て、石川々原に向城を構て居たりけるを...」ということで楠木勢を攻めるための付城(向城)を造っていたんですね。

白木陣屋

白木陣屋
白木陣屋

持尾城から富田林駅に行く途中にある白木陣屋跡へ寄ってきました。

■伊勢神戸
鈴鹿に桓武平氏の流れをくむ神戸氏がいました。鈴鹿商工会議所近くにある澤城を本拠地にしていましたが新たに伊勢神戸城を造って本拠地を移します。やがて織田信長の伊勢攻めが始まり、滝川一益が侵攻したため、織田方と和睦。養子にうけいれたのが織田信長の3男神戸信孝です。本能寺の変の後、神戸信孝は秀吉と対立し柴田勝家が滅んだ後、秀吉によって自刃させられます。

関ケ原の合戦の後、伊勢神戸には一柳氏が入り、その後、天領になった後に入ったのが石川総長です。

■河内へ
伊勢神戸藩の石川総長は万治3年(1658)大坂城番となって役知料1万石を河内石川・古市郡内で加増され、それまでの伊勢神戸の1万石とあわせて2万石となりました。飛地となった河内の所領を管理する為に築いたのが河南町にある白木陣屋です。3代目の石川総茂の時、常陸国下館に転封となりましたが、河内領と白木陣屋はその後も維持され、明治まで続くことになります。

白木陣屋は高台の上に造られ北、東、南に石垣がめぐらされた要害です。ただ草が生繁っていて石垣がよく見えない点が残念。白木陣屋跡は集落になっています。