年間書籍購入費

年間書籍購入費

高齢化と諸物価高騰の影響のせいか書籍の文字ポイントが大きくなり本自体も薄くなっています。例年、年間100冊読むのがやっとこさだったのが2023年は117冊を読了し、1ケ月に10冊ペースですね。問題は本を読んでもうろ覚えで、同じ本を重複して買うことはあいかわらずです。しかも歴史モノにジャンルが偏っているのが難点です。

調査によると平均年間書籍購入費は1世帯当たり1万円だそうです。つまり本屋の近くに1万人が住んでいれば1億円の売上になる計算になります。ちなみに自分の年間書籍購入費を計算してみたら15万円を超えていました。このうち、重複して買った金額はいくらだろう?怖くて計算していません(笑)。

炬口(たけのくち)城

炬口城 虎口

炬口は石清水八幡宮の荘園である炬口荘があったところで中心になるのが炬口八幡神社です。神社の北側にある万歳山山頂に炬口城があります。築城したのは淡路水軍を率いた安宅(あたぎ)氏です。安宅氏は最初の天下人となる三好長慶と組み、三好政権を支えますが、織田信長の台頭により没落していきます。

■炬口城へ
事前に調べると炬口八幡神社の裏手から登山道があるという情報を発見。さっそく登り始めますが藪だらけで本当に登山道があるのか確認できず、いったん麓に戻へ。よく藪を見ると地面に木の階段になっているようなところが見えます。やはり登山道だということで藪に突入。登山道とは名ばかりで、ほぼ木の階段は崩壊しており、藪だらけの道でした。さすがに頂上近くになると藪は減りましたが、今度は道がなくなります。しかたないので直登すると城の虎口がありました。

炬口城に中に入ると2つの郭から構成されていて高い土塁に囲まれています。ただ郭の中は藪だらけなので土塁の上を巡っていくことに、見事な畝状竪堀までありました。堀切も大きいですね。帰りは尾根沿いの道なき道を下っていくと麓近くで山道を発見。あとで調べると洲本市のホームページに城への行き方が掲載されていて、少し遠回りして炬口城へ行ける山道があったようです。炬口八幡神社からは行けませんとも書いてありました。先に言ってよ(笑)。もっとまめに事前調査しないと。

倒産防止のために大安、仏滅を導入

カレンダー

明治のドタバタ騒ぎ、次はカレンダー業者の話です。

江戸時代は太陰暦が使われていました。太陰暦は農作業に便利で、暦には二十四節気が書かれていました。二十四節気とは1年を24等分した季節の変わり目です。今でも寒の入り、節分、立春、冬至など、よく使われています。また暦の日には歴注が書かれていました。歴注というのは日時・方位などの吉凶やその日の運勢などです。方角が悪いと方違え(かたたがえ)と言って目的地とは別の方角に行ってから方向を変えて目的地に向かいました。この歴注を見るために暦を買っていました。

■苦肉の策で六曜を導入
暦は専門業者が作成し、販売していました。ところが明治になると西洋諸国にあわせて太陽暦の導入がはかられます。この時にお上が、とんでもないことを言いだします。今後は暦注みたいな迷信は書いちゃだめというお達しです。さあ困ったのが暦の作成業者。新暦(太陽暦)で暦を作っても、暦注に値打ちがあるのに、日だけしか書かれていない暦なんか、誰も買いません。このままでは倒産です。

苦肉の策で、”これなら歴注じゃないでしょう”と暦に入れたのが六曜です。お上も倒産まで追い込むのはと考えたようで黙認となりました。六曜というのは先勝、友引、先負、仏滅、大安、赤口で、単なる順番でした。旧暦の毎月1日にそれぞれの六曜を割り振るのがルールで例えば1月1日と7月1日は先勝からスタートします。

ここからカレンダー業者の奮闘が始まります。日だけでは売れませんので日の横に六曜を目立たせて記載します。勝手に漢字の意味を解釈して、いつしか”結婚式はやっぱり大安”、”友引の葬式はダメ”と言われるようになり、現在まで伝わることになります。

稲田騒動(淡路島が兵庫県になったわけ)

御城番屋敷

淡路島といえばパソナではなく稲田騒動が有名です。明治3年(庚午の年)に起きたので庚午事変とも呼ばれています。

■全員解雇
昔、日本史で習いましたが明治2年に版籍奉還が行われます。藩が、所有していた土地【版】と人民【籍】を朝廷に返還させました。地方分権から中央集権国家にする流れでもありますし、古代のように大王が土地と民を支配する世の中に戻すともいえます。藩主はそのまま県知事に移行しますので、まだソフトランディングでした。

続けて禄制改革が行われます。武士への給与支払いを辞めて、その代わり公債を与えるので自分たちで何とかしろということですね。今でいえば県庁職員で安泰だと思っていたら、いきなり退職金を出すかわりに全員、失業ということです。公債をもとに慣れない商売に手を出して失敗する「武士の商法」が続出しました。

■淡路独立運動
稲田家はもともと蜂須賀小六の客分で、蜂須賀家の阿波入府にあわせて筆頭家老として淡路に入ります。家臣の意識は蜂須賀家と同格でしたが時代が過ぎるにあわせて蜂須賀家が主という振る舞いに変わっていきます。幕末、徳島藩は佐幕派なのに稲田家は尊王派という確執もあり、引き金となったのが禄制改革です。

徳島藩家臣は士族ですが、稲田家は卒族(下級武士扱い)となり、納得いかない稲田家では淡路を徳島藩から独立させる動きになります。徳島藩の一部過激派が淡路に乗り込んで戦いとなります。これが稲田騒動です。この騒動によって淡路は本来の徳島県ではなく、兵庫県に属することになり本日に至っています。

■松阪の御城番屋敷もお家騒動から
江戸時代、松阪は紀州藩の土地で、幕末に騒動が起きました。紀伊田辺に住んでいた紀州藩主直属の家臣に対して直臣(藩主直属)から陪臣(藩主の家来の家臣)になるように命じられます。本社のエリート街道を歩いていたのが、子会社へ転籍しろと命じられたのと同じですので抗議しましたがダメで、武士の誇りを選んで浪人しました。

浪人生活は6年にもなりましたが、あきらめずに伝手を頼って徳川慶喜などに嘆願。ようやく復帰がかない、新しい赴任先となったのが松阪城の御城番。騒動を起こしたので、紀州から離れたところへ行けということでしょう。ところが今度は明治維新が起きてしまいました。苦労して勝ち取った武家屋敷を守っていくため合資会社苗秀社を設立。皆で団結して時代を乗り切り、苗秀社は今も続いています。

幕末から明治にかけて、武士は失業というハードランディングを乗り越えるのに必死でした。

洲本城 下の城

洲本城 下の城

慶長14年(1609)、脇坂安治が伊予大洲に移封となり、次は藤堂高虎、池田輝政が淡路を統治した後、大坂の陣の功により、淡路一国が蜂須賀至鎮に加増されます。脇坂安治が整備した山上の洲本城は、登るのがきついためか、山麓に新しく御殿を作りました。これが下の城です。蜂須賀氏は阿波を領地にしており、洲本城には筆頭家老の稲田氏が入りました。現在は淡路文化史料館や検察庁、税務署などが城跡に立ち並んでいます。

蜂須賀家は秀吉に仕えた蜂須賀小六が祖となります。絵本太閤記の影響で夜盗の親分イメージが強いですが、本当は蜂須賀城を拠点にした国衆ですね。もっとも戦国時代なんで後方撹乱、ゲリラ戦などなんでもありでした。明治時代になると蜂須賀侯爵家になりますが、明治天皇を待つ間、明治天皇愛用のタバコを一本くすねた一件があり、「血は争えぬのう、蜂須賀」と明治天皇が笑った逸話が残っています。

ふぐ久 おやぢの会

ふぐ久

冬はつとめて。雪の降りたるはいふべきにもあらず。霜のいと白きも、またさらでも、いと寒きに、火などいそぎおこして、てっちりなど食するもいとつきづきし。ヒレ酒、飲むも、いとおかし。

というわけで、鶴橋にある「ふぐ久」で恒例のおやぢの会。珍しく平均年齢を下げる側にまわっていますが長年、続いている会なので、皆さん高齢者になってしまいました(笑)。ふぐ久は安くフグが食べられるお店なので店内は予約客で一杯。ただスタッフ不足だそうで、お店はてんてこ舞い。おやぢの会の面々以上に高齢の店主が店を切り盛りしていました。

洲本城

洲本城

洲本城は淡路水軍を率いた安宅(あたぎ)氏が築き、天正13年(1585)に入城した脇坂安治が総石垣の城に改修しました。

■転勤族だった脇坂安治
脇坂安治は近江国生まれで賤ヶ岳の七本槍の一人です。天正12年(1584年)に伊賀守護となりますが、この時に秀吉とやり取りしていた古文書が近年、龍野で発見されました。秀吉に戦いで手柄をたてたいと、ごねる脇坂安治に対して、京都御所造営のためにしっかり材木を出せ、戦働きと同じで重要な仕事だと叱責しています。秀吉にとって子飼いの武将だったので気安さが伝わる内容になっています。

翌年、秀吉より淡路洲本で3万石を与えられ洲本城を整備しました。淡路水軍を率いて九州攻め、小田原攻め、文禄・慶長の役に参戦しています。関ケ原の戦いでは西軍に属していましたが事前に家康と内通しており、本領安堵になっています。後に伊予大洲藩に転封となりますが洲本時代が24年間ありました。

■洲本城
東西800mに及ぶ広大な城で東の丸から西の丸まで歩きましたが、広い!広い!また水軍の城なので城下には港が見えます。洲本城の魅力は2条になった登り石垣がある点です。登り石垣とは頂上から麓まで延々と続く石垣で松山城や彦根城にも残っています。規模は小さいですが周山城などにも登り石垣があります。

伊賀丸山城

伊賀丸山城

伊賀でお仕事だったのですが午後の予定がキャンセルになったので、伊賀鉄道で丸山駅へ出て丸山城に登ってきました。丸山城は駅近くの山に築かれています。小川沿いの道を歩いていくと、以前はなかった案内板があり、ここから山道を登って城に入れます。

丸山城は天正伊賀の乱(織田信長による伊賀攻め)のきっかけとなった城です。伊勢国司だった北畠家にムリヤリ養子に入ったのが織田信雄(「どうする家康」では浜野謙太が演じていました)で、信長にいい所を見せようと伊賀侵攻の拠点として丸山城を築き始めます。天守台まで備えた壮大な城でしたが、完成間際に伊賀衆によって落城させられます。怒った織田信雄が8,000の兵で伊賀を攻めますが、これまた敗退してしまいます。信長からは親子の縁を切ると叱責されてしまいます。

丸山城はたくさんの郭で構成された城で、最終的に伊賀国が滅んでから改修されたようです。食い違い虎口など織豊時代の技巧的な城造りになっています。

隠岐支城Ⅱ

隠岐支城Ⅱ

甲賀の隠岐城塞群もいよいよ最後です。隠岐支城Ⅱは隠岐支城Ⅰの目の前の丘上にあり、砂坂城の東側にあります。隠岐支城という名前がついていますが本当に隠岐氏の郎党の城かどうかは分かっていません。ただ隣接した形で密集していますから同族なのでしょう。隠岐城塞群は隠岐城、隠岐支城Ⅰ、隠岐支城Ⅱ、隠岐支城Ⅲ、隠岐支城Ⅳ、砂坂城、打越城からなっています。あとで調べるとすぐ近くに大佐治北城、神保城がありましたが、こちらは行けていません。

■隠岐支城Ⅱ
城の北側から切岸(早い話が崖)をよじ登っていきます。郭まで到達すると郭と郭の間には見事な堀切になっていました。ようやく主郭まで登ると、なんと畑になっていました。後で南側にまわると分かったのですが城跡には小道が整備され住宅がいくつか建っていました。なんだ、苦労せずに城に到達できたんだあ。

隠岐支城Ⅰ

隠岐支城Ⅱ

砂坂城の東側に隣接してあるのが隠岐支城Ⅰです。砂坂城を降りて東側にある丘を登っていくと、切岸がありました。直登して郭に入れましたが竹藪で全体は見通せません。いったん降りて山道を進んでいくと農道があり、ここから郭に簡単に登れました。郭に入って進んでいくろ土塁があり、先ほど登った郭の段が見えました。