教養としてのコンピュータサイエンス講義

教養としてのコンピュータサイエンス講義

古書店を巡る時の鉄則は「買わずに後悔するより買って後悔しろ」です。別の古書店で、同じ本がより安く売っているのを見つけても、最初に見つけた時に買っておかないと、次に巡りあうことはありません。新刊でも同じで、出版の回転が速いので見つけた時に買っておかないと棚から消えてしまいます。で、どうなるかというとツン読の山になります(笑)。

せっせと山を崩そうと格闘中で、「教養としてのコンピューターサイエンス講義」をようやく読了。著者はカーニハン教授です。今から40年以上も前にSRAというITベンダーに入社した時、読んだのが「プログラミング言語C」、「ソフトウェア作法」、「プログラム書法」です。プログラマのバイブルで、カーニハン教授の著作です。あの頃は若かったなあ(笑)。読み終わって、よく見たら翻訳者が同じSRAに新入社員で入った同僚でした。

8ビットが1バイトになりますが、1956年にIBMのコンピュータアーキテクトであるワーナー・ブッフホルツが作った言葉だと初めて知りました。

拡張子

拡張子

学生にWindwsの拡張子について話をしても、どうも通じない。

よく考えたら学生は私物パソコン持ち込みですので、エクスプローラのデフォルトが「登録されている拡張子は表示しない」にチェックが入っていて拡張子が表示されていません。そら話が通じないはずです。

チェックをはずしてもらって拡張子を表示。さっそくメモ帳で作成したファイルの拡張子「txt」を「doc」に変えて、アイコンをワードに変更してもらいました。「魔法みたいだ!」という声が学生からあがってました。今年の新入生は素直ですなあ(笑)。新しい学習指導要領で「情報」の授業が始まっていますが、高校まで拡張子について習っていないんですね。

天正寺城

天正寺城

天正寺城

淡河城北側にある天正寺山に築かれたのが天正寺城で、日本城郭体系によると永禄4年(1561)に淡河氏領に有馬則頼が侵入して築いた城とされています。淡河氏はもともとは北条氏の一族で、地頭職として淡河に赴任した時に淡河氏と名前を変えたようです。

三木合戦となり天正寺城は淡河城西付城とあわせて淡河城攻めの付城として使われます。淡河城一帯が見える見晴らしのよい所にあります。城は、その後は使われなくなったようで城跡に愛宕神社が祀られることになりました。

階段を登り、次に山道を登りきると頂上に愛宕神社があり、ここが主郭になっています。少し下って尾根筋を進んでいくと二重堀切があり、他にも郭がありました。郭に入るところが土橋になっているところがありますが、後世に改変された可能性があります。

曜日別交流会

大阪中小企業診断協会の曜日別交流会。

マイドーム大阪

昔は火曜、水曜、木曜の3グループで開催していましたがコロナ禍後は水曜の1グループだけの開催です。新年度は水、木の2グループになるそうです。

月1回集まっていますが昨日が最終日でした。マイドーム大阪8階の会議室に集まり、1時間ほどのセミナーの後、堺筋本町の居酒屋で「てっちり」で1年間の打ち上げです。ヒレ酒も飲んでフグを堪能しました。20時前に店に入って22時過ぎまでやっていたので、結局、飲み会の方が長いいつもの結果になりました。

淡河城西付城

淡河城西付城

淡河西付城

淡河城の南南西に築かれた付城です。天正7(1549)年に織田信長が越前衆と丹羽長秀に淡河城を攻める付城を構築するように命じましたが実際に付城を造ったのは秀吉のようです。三木合戦では淡河城の城主である淡河弾正は三木城の別所長治に味方し、淡河城は毛利方の花隈から三木城への兵糧の中継基地になっていました。

淡河城西付城の土塁などはずいぶん低くなっていますが、3つの郭から構成されており土橋なども残っていました。秀吉は3つほどの付城を造り、淡河城は落ち、三木城への補給路の一つが閉ざされることになります。三木の干殺しと呼ばれる三木城の周りに、たくさんの付城が造られて国史跡になっていますが。三田城にしろ淡河城にしろ付城で囲んで戦うというのが織田信長の常道でした。

三重大学 授業スタート

三重大学

朝から近鉄で津へ向かおうとしたら、大阪線が人身事故で止まっており、大和八木駅で1時間ほど待たされることに。伊勢方面への電車がようやくやってきて、大学に間に合いました。お昼は学食に列ができていました。

三重大学での前期授業が本日からスタート。建物と教室が以前と変わったので機材のセッティングにバタバタ。おまけにチャイムが鳴らない建物でした。教育学部の一回生向け授業なんですが、聞いてみたら2005年生まれなんだそうです。2000年問題も知らないんだあ。 福知山線脱線事故や中部国際空港(セントレア)がスタートした時なんですね。

LEC梅田

LEC

久しぶりにLEC梅田へ出かけて経営情報システムの講座を担当。それにしても暑いですね。教室は、もう冷房が入っていました。

昼休みは茶屋町の丸善へ、しばらく行かない間に店内が大幅に改装していて、コンピュータ書籍などは一番上の階になっていました。私は相変わらず本は買って読んでいますが、世間的には書籍が売れなくなっているそうで、書籍売場をグッズ売場が浸食しています。1階にはミャクミャクコーナーがドーンとありました。

淡河(おうご)城

淡河城

道の駅「淡河」から台地の上にある淡河城を見ることができます。よく見えるのですが城に登っている人は誰もいません(笑)。道の駅近くの小道から川を渡って崖を階段で登っていくことができます。城があった頃は階段ではなく急な切岸で防御を固めていました。台地の上まであがると主郭があり、土塁が取り囲んでいます。虎口もしっかり残っています。天守台があったところには稲荷神社になっていました。土塁から見ると空堀が広く見事に残っていました。

1339年に赤松則祐が淡河城を攻めたという記録があり、この頃には城があったようです。後醍醐天皇が吉野へ移って南北朝時代がスタートした頃になります。戦国期には淡河氏の城となり三木合戦では別所長治側に味方したため秀吉が攻めます。その後は有馬則頼が城主となりましたが1601年に三田へ移ったため廃城になったようです。

ザビエル城

ザビエル城

日本史によく出てくるのが十字架を見つめるザビエルの肖像画です。見つかったのは最近で1920年に茨木市の旧家から見つかりました。

ザビエルは貴族の生まれで、生まれたのはスペイン・バスク地方にあるハビエル城(ザビエル城)。19歳でパリの大学に入学し、そこで出会った仲間たちとイエズス会を設立します。やがて世界に布教に乗り出し、インドのゴアでたまたま出会ったヤジロウと日本へ布教に向かいます。ザビエルが生まれた城がそのままスペイン村に再現されています。

このヤジロウですがザビエルとあった頃にはポルトガル語が堪能でした。キリスト教教理書の翻訳をイエズス会に頼まれ、デウスを「大日」、マリアを「観音」、パライソを「極楽」と訳すことになります。当時は朱印船貿易などが盛んで日本人もよく海外へ出ていました。大友義鎮・家臣の稙田玄佐はゴアに戻るザビエルに同行し、帰りは中国に向かうザビエルにマラッカで別れ鹿児島経由で戻っています。翌年、またゴアに行って帰ってきておりゴアと2往復しています。本人になります。スペインとの通商が目的でした

志摩スペイン村

志摩スペイン村

今は昔、パソコン通信なるものありけり、はばりけり。FLicense(資格)フォーラムに中小企業診断士の勉強会があり、オンラインだけではなくオフライン勉強会が日本の各地にできました。インターネット時代になりましたが、この時のメンバーがいまだに年に1回集まっています。

今回は紆余曲折があって、Vチューバーとのコラボイベントで盛り上がっている志摩スペイン村に決定。ホテルの部屋もキャラクターハウスでした(笑)。全国から集まった、おじさま、おばさま方でスペイン村を楽しみました。夜の食事はいつものごとくワインなどを頼みまくり、食事代より酒代の方が高いといういつもの結果に。ピレーネは65歳以上は乗れないんですねえ。