田屋氏館跡

田屋氏館跡

海津衆・田屋氏の山城が田屋城ですが、こちらは詰めの城で平時は平地に城を構えていました。1652年に田屋氏の館跡に長法寺が建立されたと寺伝にあるそうです。当時は土塁や堀が残っていたそうですが、今は何も残っていません。ただ、奥に土塁の一部が残っていると案内に書いてあったので、見てみましたが、まあ土塁といえるかどうか微妙です。

田屋氏は浅井氏と縁戚で、信長の浅井攻めでは浅井方についたため浅井家とともに没落したようです。秀吉と柴田勝家の賤ケ岳の戦いでは海津を丹羽長秀が抑えていました。田屋城の主郭がけっこう技巧的なのは丹羽長秀が改修した可能性があります。

■大坂の陣では田屋氏の娘が活躍
「どうする家康」で、大坂の陣をやっていますが、田屋氏の娘2人は茶々の侍女となり、長女(海津局)は大坂の陣では千姫とともに逃れ、後に江(秀忠の奥さんで茶々の妹)に仕えます。次女(饗庭局)は方広寺鐘銘事件の際には、大蔵卿局とともに家康のいる駿府へ赴いています。大坂夏の陣で茶々や秀頼とともに亡くなっています。

田屋城

田屋城

海津衆・田屋氏の山城です。田屋氏は浅井方でしたので小谷城落城とともに田屋城も廃城となった模様です。麓に案内札や説明版があり、山城には珍しく、よく整備されています。麓にある獣除けの塀を超えるとずっと山道が続いており、標高310mの頂上を目指して登っていきます。頂上まで登ると山城では珍しく眺望が開けていて湖北の琵琶湖が一望でき、竹生島も見られます。晴れていたら一望でしょうが、あいにく雨まじりの天気でした。

田屋城は同じ高さの土塁で囲まれた郭が5つあり、一段高くなっている奥の丸が主郭です。堀切も見事ですね。郭はチョコモナカのような形で連続しており、奈良の葛城にある佐味城跡を少しコンパクトな形になっていて、ちょっと珍しい形になっています。四日市にある保々西城にも似ています。奥の丸は虎口が内桝形状になっていて高い土塁で囲まれています。けっこう技巧的で浅井氏が滅んでから織田方が整備して、しばらく使っていたのかもしれません。

新保館跡

新保館跡

近江中庄駅を降りてマキノ駅の方へ歩いていくと途中に天満宮があり、ここが新保館跡。土塁でもないかと神社の周りを探しましたが遺構はありませんでした。

足利尊氏の側近が饗庭の地をもらって饗庭氏と名乗りました。一帯には新保氏、田屋氏が地侍として勢力をもっており、この三氏が海津衆と呼ばれています。マキノ町新保は平安時代に新しく荘園として切り開かれた土地で新保には「新しく開墾した土地」という意味があります。新保氏はこのマキノ町新保を本貫としたようです。このあたりは湖西線から琵琶湖にむかって田んぼが規則正しく並んでいます。

■光秀が海から攻撃

海津は琵琶湖の北にあり、ここで船から荷をあげて疋田経由で日本海と結んでいました。古代から物流の拠点になっていたこともあり、戦国時代は六角氏、京極氏、浅井氏が取り合い、最終的に海津衆は浅井氏の支配下になります。信長が浅井氏と対立した時、浅井氏の経済基盤を壊すために明智光秀に命じて船から焼き討ち攻撃をしています。

大阪城のライトアップ

大阪城

昨夜、大阪城を歩いていると天守閣が赤くライトアップされていました。

大変だあ!大阪城にかけつけなければ!!
と大阪人なら考えますが、インバウンド客以外に誰もいませんでした(笑)。そういえば、もう一つの印である瓢箪がなかったなあ。
12/1は世界エイズデーでレッドリボン運動をやっており、大阪城を赤色にライトアップしていたようです。

■プリンセス・トヨトミ
今は新刊の「ヒトコブラクダ層戦争」が出ていますが、万城目学の小説に「プリンセス・トヨトミ」があり、映画化もされています。大阪国という、日本政府も密かに認めているもう一つの国家があり、400年にわたり大阪人は秘密を守り続けています。ただし大阪城が赤くライトアップされ、瓢箪が配られると緊急事態発生ということで大阪人は大阪城へ向かわなければならないという奇想天外な物語です。

プリンセス・トヨトミは小説ですが、実際にバーチャル上ですが関西電子共和国(VRK)という別国家があり、国民に一員でした。関西電子共和国は亡くなってしまいましたので、レコンキスタをしなければ!

知的生産の技術研究会・関西11月セミナー

牧野谷

「チャンネル登録者10万人を突破したユーチューバーが見る風景」

株式会社リブウェルの牧野谷代表にセミナーをしていただきました。牧野谷さんはコンサルが本業で、経営者に言っているだけではダメで自ら実践しなければと、「Youtube 3ケ月で10万人を突破する」と宣言して2019年9月に開始。最初の3ケ月でヒッチハイクなど100本の動画を上げましたが、アクセス数が伸びず低迷することに。

プロダクトアウトではなくマーケットインにしなければと路線変更。中小企業診断士の得意分野である補助金などの情報発信に切り替えます。ちょうどコロナ禍で動画を視聴する年配者が増えたこともあり、翌年6月には1万人を超え、3年弱で10万人(銀の楯)を達成します。スマホからの視聴が多いのですが、大型テレビで見ている割合が多い話や、検索で動画にたどりつく人はほとんどいないなど意外な話題が満載でした。

江戸川乱歩生家

犯人はお前だ!

江戸川乱歩生家

江戸川コナンの決め台詞ですが、江戸川といえば乱歩ですね。東京生まれのイメージが強いのですが生まれは名張です。もっとも2歳の時に亀山に移転し、翌年には名古屋に引越したので本人は覚えていないでしょう。生家は残っておらず初瀬街道から少し入ったところに公園があって案内板が建てられています。ただ三重とは縁が深く、鳥羽で働き、結婚もしました。この頃の経験から「パノラマ島奇談」などが生まれています。2023年は処女作「二銭銅貨」が発表されて100年だそうです。

戦後は日本探偵作家クラブを作ったり探偵雑誌などを創刊して若手を支援する活動が中心になります。ただ子供向けに探偵小説を書いており、怪人二十面相シリーズなどのヒットとなっていきます。以前、名張の木屋正酒造が「幻影城」という地酒を出していたんですが、まだ売っているのかなあ。

名張城

名張

名張駅の西出口を出ると名張中学校、名張小学校、名張藤堂家邸跡あたりが高台になっています。名張川が削った河岸段丘になっていて高さはビルの3階ぐらいですね。この場所にあったのが名張城です。江戸時代になってから名張城跡に名張陣屋が作られ陣屋の一部が名張藤堂家邸として残っています。名張城の遺構は残念ながら地下の石垣だけです。

■筒井定次
伊賀といえば藤堂高虎が有名ですが、信長による伊賀攻め(天正伊賀の乱)の後は乱の元をつくった織田信雄が支配します。本能寺の変後、秀吉は脇坂安治(賤ケ岳七本槍の一人)を伊賀守護にしますが、わずが1年で筒井定次(筒井順慶の養子)を大和から伊賀に国替えさせます。筒井定次は伊賀上野城を築城し、名張は与力の松倉勝重に名張城を築かせて担当させます。

石田三成の家来として有名な島左近はもともとは筒井の家臣でしたが、伊賀時代に筒井家を離れることになります。天正伊賀の乱で伊賀はせん滅されたので、治めるには難しい土地でしたが秀吉は筒井定次を評価していたのでしょう。「武士の家計簿」などで著名な磯田道史さんの先祖は岡山の侍で天正伊賀の乱にも参加しており、乱の後に自宅の納屋で不審死したそうで伊賀忍者の仕業とおしゃっていました。

油日神社

油日神社は甲賀の総社とも呼ばれています。甲賀に突出した勢力はなく、甲賀五十三家による自治組織でした。堺の会合衆のようなものですね。掟を定め、合議制でした。基本は多数決で、決まらない場合はくクジで決めます。甲賀衆の談合場所だったのが油日神社で、甲賀の総社と呼ばれています。

楼門の左右には廻廊のびていて、時代劇を撮影するには絶好の場所です。というころでドラマや映画のロケ地としても使われています。「るろうに剣心」、「わろてんか」、「必殺仕事人」、「信長協奏曲」などなど。

鹿深の道

鹿深の道

油日城や滝川城は県道131号にありますが、県道には「鹿深の道」という名前がつけられています。って道の途中にあった看板を見て知りました。調べてみると東海道って、いろいろと変遷があったんですね。

江戸時代の東海道は、近江の土山宿から鈴鹿峠を超えて伊勢の関宿に入りますが、古くは甲賀から柘植へ出て、加太越えをして関に入ったようです。難所の鈴鹿峠を避けたのでしょう。もっと古い時代の東海道は飛鳥から名張、伊賀、柘植を通って東国へ向かいました。

■古代の東海道 倉歴(くらふ)道
天智天皇が大津京を作った時に新しく道が整備され、草津で東山道と分岐し、甲賀を通って柘植へ入り、柘植から以前の飛鳥からの道に合流しました。柘植の北側に杣川が流れ、この川沿いのルートが東海道です。途中で倉歴を超えていくので倉歴(くらふ)道という名前だったようです。これが東海道の旧名になります。

大友皇子と大海人皇子が争った壬申の乱では大海人皇子が軍勢を派遣して倉歴道を守らせました。これに対して大友皇子側も軍勢を送り鹿深山を越え、倉歴で戦いになったようで倉部川沿いに古戦場跡があります。倉歴の地名は残っておらず川の名前で残っています。土山と甲賀にはバイパスがあったようで、それが鹿深道になります。

■鹿深(かふか)から甲賀に
日本書紀の敏達天皇13年(584年)に鹿深臣が百済から弥勒の石像を持ち帰ったと書かれています。敏達天皇といえば物部守屋と蘇我馬子が争っていた時の大王で、争いの背景は廃仏・崇仏よりも朝鮮外交の対立といわれています。この鹿深臣の本貫だったのか、どうか分かりませんが、この鹿深(かふか)が「かうか」「こうか」と変化して甲賀(こうか)となったようです。

櫟野大原城

櫟野大原城

甲賀・櫟野(いちの)に築かれた大原氏の城です。大原氏は甲賀五十三家の一つになります。独立した丘陵に築かれた城で、よく整備されていました。登山口に案内があり登っていくと郭と郭の間の堀切を進むことになります。当時は搦手として、この道が使われていたのかもしれません。郭から攻撃されたらひとたまりもありません。道は途中で90度に曲がり郭の虎口につながっています。

櫟野大原城は細長い丘陵の稜線上に、直線的に連立し3つの曲輪が連なっています。真ん中の郭が主郭のようで、高い土塁で囲まれています。もう一つの郭は土塁もありますが、土塁がとぎれていることもあり、こちらが大手道だったかもしれません。郭の中もよく整備されていて登りやすい山城です。