伊丹探訪

ファイティング・コンサルタンツという中小企業診断士の集まり。発足から20年が経過したため当初の目的はなんのその、高齢化とともに歴史探訪&飲み会グループへと変貌しています。そのくせ飯森山城へ登れば、「しんどい!」など非難ごうごうで、山の辺の道は目的の1/3程度歩いたところでリタイアでした。

ファイティング・コンサルタンツ
ファイティング・コンサルタンツ

今回は伊丹探訪ということでJR伊丹駅に14時集合。駅すぐそばに有岡城の本丸跡を見学。荒木村重が織田信長に反旗をひるがえし有岡城の戦いが行われたところです。仲介に動いた黒田官兵衛が1年ちかく幽閉されました。次に岸の砦跡(猪名野神社)と総構えを見学という超お手軽コースです。わずか30分で終了ですので、これなら文句ないでしょう。

ということで16時前から老松酒造で一杯やってから長寿蔵へ、ここは白雪の酒蔵跡をレストランに改造したところで飲んでおりました。伊丹は清酒発祥の地で、山中鹿之助の子孫が伊丹で酒造りをはじめ濁り酒から清酒へのイノベーションが行いました。ここから江戸にお酒が送られ「下りもの」と珍重されました。やがて江戸でも酒造りを行い、これが「下らない」の語源になっています。

C57

JR加茂駅の近くに保存展示されていたのがC57。懐かしいですね。Cなので動輪が3つあります。ちなみにD51はDなので動輪が4つになります。中学校への通学でディーゼル機関車が引っ張る客車に乗っていましたが、時たま蒸気機関車の時があり迫力がありました。

C57
C57

紀勢本線は単線なので駅と駅の間は閉塞区間になります。閉塞区間に入る時は必ず通票がはいった輪っか(タブレット)が必要でした。急行や特急が駅を通過する時はホーム入口あたりで、そこまでの閉塞区間の輪っかを立っている棒にひっかけて、ホームの端あたりで駅員が高く、次の閉塞区間の輪っかをあげ、車掌が通り過ぎながら腕で掴む職人技を見ることができました。今は信号にすべて変わってしまいましたね。

蒸気機関車では機関助士がこの輪っかを渡したり受け取ったりしていて迫力ありました。

紫香楽宮跡駅

紫香楽宮の最寄り駅は信楽高原鉄道の紫香楽宮跡駅。JR草津駅の貴生川駅から二両編成の列車に乗り込みます。車内はほぼ満員ですが、紫香楽宮跡駅で降りたのは私一人だけ。ローカル線アルアルで一番前のドアしか開かないので前の方にはいたのですが、さすがに誰も降りないのには驚きました。

紫香楽宮跡駅
紫香楽宮跡駅

紫香楽宮や甲賀寺巡りをする人はいないようで、巡ってみても車で来ている人もいませんでした。そんなに信楽のタヌキがいいんですかねえ。帰り紫香楽宮跡駅から乗り込んだのも私一人だけ。車内は信楽観光した乗客で満員でした。

紫香楽宮

何もない農地なんですが、ここが紫香楽宮の中枢施設となる宮殿や長さ100mを超える朝堂などがあったところです。

紫香楽宮
紫香楽宮

聖武天皇が天平12(740)年に恭仁京を作り始めた時、離宮として紫香楽宮の造営をすすめます。2つも宮を造るとなると国家財政がもたないので、難波京を都にすると宣言。ところが紫香楽宮の建設はすすめられていて甲賀寺で大仏造顕の詔を出して大仏を作りはじめます。結局は情勢が悪くなり平城京へ戻ります。なんで、そんなに遷都したのか昔からようわかっていません。

わずか数年で遷都されたため長く幻の都となっていました。どこに宮があったのか諸説ありましたが2000年に宮町遺跡で朝堂西脇殿を発見されました。

紫香楽宮 朱雀大路

甲賀寺跡は高台にあり北に向かって下っていくと新宮神社遺跡があります。発掘調査が行われ幅12mの道路や掘立柱建物跡が確認されました。これが紫香楽宮の朱雀大路になります。調査場所は高速道路の下に眠っていますが、山には切通しを作って大路を通していました。

朱雀大路
朱雀大路

聖武天皇は平城京から北側にある恭仁宮へ移りますが、北、東、西の三方が山に囲まれ南は木津川が流れる要害の地です。とは言いながら大路も基本的に平らです。恭仁京からさらに奥深い紫香楽宮へ移りますが、紫香楽宮は標高が高く北、東、西の三方は完全に山で遮断されて南しか入口がありません。狭い範囲に宮を造ることになったので朱雀大路も山を切り通す必要がありました。昔から大いなる謎になっていますが、なんで聖武天皇は紫香楽宮を造ったんですかね。

甲賀寺

河内にある智識寺(有力氏族ではなく民衆が持ち寄って建てた寺)にあった盧舎那仏に感激した聖武天皇は大仏建設に邁進します。作り始めた場所は紫香楽宮にあった甲賀寺で
す。ところが周辺で地震や山火事などが頻発し(反対運動?)たため平城京に戻って現在の東大寺の場所で大仏を作ります。

甲賀寺
甲賀寺

甲賀寺は紫香楽宮が廃都になった時に、近江国分寺になったようで近江国分寺は塔や金堂などが並ぶ伽藍でした。甲賀寺の建造物が流用されたと思われますが、その割に金堂の大きさが大仏が入るような大きさではなく甲賀寺が本当にこの場所なのか、今も分かっていません。

榎木大明神

空堀商店街近くにあるのが榎木大明神という小さな神社。

榎木大明神
榎木大明神

榎木大明神の向こうは道が落ち込んでいますが長堀通りが走っています。長堀という名前の通り、大坂城の南総構堀がありました。もう少し東にある南総構堀のさらに南側にあったのが真田丸で大坂城から切り離された出城でした。

万城目学氏の小説「プリンセス・トヨトミ」は、この小さな神社から始まります。風情がある神社で、説明をみると楠正成が植えた木だとあります。近くを熊野街道が通っています。

京都守護職の上屋敷跡

京都府庁の入口にあるのが京都守護職上屋敷跡の碑。

京都守護職の上屋敷跡
京都守護職の上屋敷跡

京都の治安は京都所司代、京都町奉行が担当してきましたが幕末になると尊王攘夷派の過激志士が集まり、だんだんと無法地帯になっていきます。なんせ天誅とか言って平気で人殺しをする連中ですので、危ないったらありゃしない。

というわけで幕府は京都所司代・京都町奉行・京都見廻役を傘下におく京都守護職を置きます。貧乏くじをひかされたのが27歳になった会津藩主・松平容保。正規職メンバーでは、だんだん手が足りなくなり、非正規職員の新選組を守護職御預かりとして治安維持にあたらせました。新選組の映画やドラマでは京都中を駆け回っていますが、そんなことはなくエリア毎に担当制になっていて新選組の担当地域は祇園や伏見でした。まあ浪士の逃亡などを理由に管轄破りをすることもあったようです。

会津藩の本陣は金戒光明寺で京都守護職の屋敷があったのが現在の京都府庁の場所。王政復古の大号令によって京都守護職は廃止されます。

上京の堀

応仁の乱で京都は焼け野原となり、戦国時代は現在のような整然とした街ではありませんでした。なんせ自力救済の世界なので上京と下京で、それぞれの街が防衛することになります。街の外周を土塁や堀で囲み、惣構えとしました。上京と下京をつないだ道が室町通です。

上京の堀
上京の堀

京都府警本部の新築工事の際に幅5m、深さ3.5mの堀が検出され上京を守る惣構えの一つでした。戦国時代が終わり、天下統一をはたした秀吉が京都の町を囲む御土居や寺を集中させた寺町通りなど都市改造を行って京都は発展していくことになります。

足利義昭が織田信長に対して挙兵した時に信長は和平交渉しながら幕府や幕臣を支持する商人などが多く住居する、上京を焼き払っています。義昭に圧力をかける狙いでしたが、せっかく復興して街づくりをしたのに、ふんだりけったりです。そうそう当時の本能寺は下京の北西にあり、総構えの外側でした。

御金神社

秀吉の妙顕寺城へ行く途中にあるのが金ぴかの御金神社。

御金神社
御金神社

鳥居が金ぴかになっていて、しかも参拝者が多かったので、ついでに拝んできました。調べてみると個人の屋敷の敷地に金山毘古命を祭神とする邸内社があったのを神社にしたそうです。金山毘古神は古事記の記載で日本書紀では金山彦神になります。鉱山や金属、刃物の神様みたいですねえ。この金属が転じてお金にまつわる神社になったそうです。

金運アップの神様ということで、いろいろなサイトに紹介されていました。でもキャッシュレス社会が進んだら、どうなるんだろう