下鴨神社のパワースポット

下鴨神社はパワースポットとして有名で、摂社の河合神社では手鏡形の絵馬に描かれた顔にお化粧して願い事を記入する女性がたくさんいます。相生社は縁結びで有名で、こちらも女性がたくさん。

奈良殿神地
奈良殿神地

もっとも知られていないパワースポットもあります。境内には縄文時代から続く原生林・糺の森が拡がっていて、古代の祭祀遺跡が発掘されています。境内からちょっと離れたところにあるのが奈良殿神地で、小川に囲まれた小島(船島)は神様が天鳥船で降臨した所と伝わっています。これ以上のパワースポットはないのですが誰もいませんね(笑)。

下鴨神社の正式名称は賀茂御祖(かもみおや)神社。賀茂氏の神様で賀茂氏の祖は神武天皇を先導し、大和の葛城を通って山城に入ったと伝わっています。葛城といえば鴨氏なので関係があるかもしれません。

慶長天主堂跡

安倍晴明神社、近くにあるのが慶長時代の天主堂跡。

慶長天主堂跡
慶長天主堂跡

信長時代は鯉山や橋弁慶山がある鉾町に南蛮寺がありました。信長の家臣に弥助という黒人武士がいて、最後まで信長につき従います。本能寺の変で明智軍と戦った弥助は捕らえられますが、日本人でなかったため、南蛮寺に預けられます。イエズス会は弥助から本能寺の変などについて聞き、本国に報告しています。それ以降の弥助の消息は分かっていません。

信長のあと、秀吉が天下をとりましたが秀吉が伴天連追放令を出したことで南蛮寺は破壊されてしまいました。戦国時代、戦さの捕虜は人身売買されましたが、海外にもたくさん連れていかれたことが理由の一つにあったようです。

関ケ原の合戦後に家康の天下になると天主堂が復興され、これが慶長時代の天主堂になります。ところが家康の外交顧問だった英国人、ウィリアム・アダムス(三浦按針)が東インド会社の代理人でもあったことから布教ではなく貿易だけをしたいオランダとの貿易に傾斜。10年ほどでキリスト教が禁教となり天主堂も破壊されました。

事業再構築計画(安倍晴明)

事業再構築計画(安倍晴明)

テーマ:「泰山府君祭による寿命延長サービスの提供」

泰山府君祭
泰山府君祭

■事業内容:地獄にいる泰山府君(たいざいふくん 閻魔王の侍者で人のすべての寿命を記した帳簿を記録する担当者)に依頼して帳簿を書き換えてもらい、依頼した人物の寿命を延ばすサービスの提供

■新規性:病気にかかった時、従来、寺社仏閣に頼んで加持祈祷する神頼みしかなかった。新規事業では地獄にアクセスして根源である帳簿を改ざんができ今までにないサービスである。

■競合分析:競合となる芦屋道満や陰陽道の賀茂一族では同様のサービスを提供しておらず、市場にはない。

■市場性:貴族が求めるのは長寿、不老不死という根源的な願いであり、高価なサービスであっても市場性が高い。必要経費は祭壇、硯、筆などの備品で粗利も高い。

安倍晴明神社

一条戻り橋の近くにあるのが安倍晴明神社。そう、映画「陰陽師」の主人公として有名な安倍晴明です。屋敷跡に建てられ、一条戻り橋には式神を潜ませていたそうです。境内にあるのが晴明井で安倍晴明が念力により湧出させた井戸で、病気平癒のご利益があります。

晴明井
晴明井

安倍晴明の、はっきりした出生地は分かっていませんが、有力なのが大阪・阿倍野で阪堺電車・東天下茶屋駅ちかくにある安倍晴明神社です。ひっそりとした神社でお参りする人はそう多くないですね。

聚楽第

聚楽第
聚楽第

聚楽第はわずか8年間しか使われなかった城です。本丸以外に西の丸、南二の丸、北の丸の三つの郭を持っていました。

聚楽第は跡形もありませんが近年、石垣が見つかり話題になりました。ただ堀跡などが高低差として残っていてブラタモリによく出てくる京都高低差崖会が「聚楽第を探し歩く」シリーズをアップしています。住宅街などに痕跡を見つけることができます。

聚楽第が完成したのは1587年(天正15年)で秀吉が、ここで政務をとります。翌年には後陽成天皇の行幸が行われました。1591年に関白職を甥の秀次に譲り、聚楽第は秀次の邸宅となります。ところがよく分からない秀次謀反事件が起きて、聚楽第は破壊されます。どうも朝鮮出兵の反対派が秀次を担ごうとしていた動きがあったようです。秀吉の弟である秀長が病没していなければ起きなかった事件で豊臣家も安泰だったかもしれません。

福長神社

福長神社
福長神社

室町通りにある小さな社です。

福長神社ですが、もともとは宮中の神祇官西院に祀られていた神さまです。秀吉が聚楽第を作る時か壊す時に現在地に移ったとありますが、織田信長が上杉謙信に贈った「洛中洛外図屏風」には現在の場所に福長神社が確認されるとあります。ということで洛中洛外図屏風をずっと見てみたのですが、どこにあるか分かりません。

洛中洛外図屏風は、もともと剣豪将軍として有名な足利義輝が狩野永徳に発注したものです。足利義輝は三好一党に殺されてしまったので、信長が上杉に”よいしょ”するために送ったものです。つまり室町幕府時代には室町通りに福長神社があったことになります。今は小さな通りですが室町通りといえば幕府に面したメインストリートでした。昔は大きな社でしたが火事で焼失してしまい、今は小さな祠がある神社になっています。

カンブリ

関西文理学院
関西文理学院

大学受験が華やかな頃、京都にあったのがカンブリ(関西文理学院)という地元の予備校です。本部の建物がまだ健在でした。

かって京都人文学園という民間教育運動がありました。スタートしたのは第二次世界大戦直後の1946年です。

■京都人文学園
一般教養を中心に自由な校風だったようです。「行動する思考人」の育成を目指していました。生徒が自治して、男女共学、無試験、無規則で革新的な教育を行っていたそうです。自由学園とも関係があり、旧制高校みたいな雰囲気ですかねえ。ただ学園を続けるのは大変だったようで1950年に閉校になりました。

■関西文理学院
ただ働いていた青年たちが教育理念を受け継いで夜間部を発足させ、これが社団法人京都勤労者学園となります。また赤字を解消するために1951年に予備校を創設。これが関西文理学院へと続きます。

京都人文学園の初代学園長は新村猛で、あの広辞苑を作った人物です。学園本部に当時の資料がいくつかあり、新村猛の自筆を見た時は感激しましたねえ。あの資料は長浜バイオ大学に引き継がれているのでしょう。

バイオカレッジ京都(立命館・広小路キャンパス)

バイオカレッジ京都
バイオカレッジ京都

関西文理情報会計専門学校から少し南にあったのがバイオカレッジ京都。現在は長浜バイオ大学・京都学舎になっています。

もともとは関西文理学院・広小路校という予備校があったのですが、浪人する学生が減ったこともあり鞍馬口校に集約し、宝バイオと提携して作ったのがバイオカレッジ京都です。今は長浜バイオ大学になっています。

■「二十歳の原点」の舞台
もっと遡ると立命館大学・広小路キャンパスがあった場所で、たぶん学生会館でした。広小路キャンパスには法学部、文学部、産業社会学部があり、学生運動、華やかりし頃で高野悦子「二十歳の原点」の舞台です。

と言っても古い本なので知らない人も多いでしょう。勤めていた学園の上司が高野悦子の同級生だったという話を聞いたことがあります。出町の「ほんやら洞」や荒神口の「しあんくれーる」も無くなってしまいましたね。

関西文理情報会計専門学校

独立する前に勤めていたのが関西文理情報会計専門学校。今はなくなってしまい跡地は帝国データバンクになっています。河原町今出川を少し下ったところで出町輸入食品の近くです。

コンピュータと簿記を教える専門学校で、当時は情報処理技術者試験・第2種と第1種合格を目指すコースでした。言語はCOBOLやC言語などで汎用機での実習もやっていましたね。途中で京都国際ビジネスカレッジという名前になり最後はビジネスカレッジ京都という校名でした。

昼からの授業に出てこない学生を近くのパチンコ屋に見に行くこともありましたね。「先生、フィーバーしちゃって、やめられません!」「お前な~あ。」

10年ほど勤め、後先考えずに独立してしまいました(笑)。

秀吉が最後に造った京都新城

■秀吉が最後に造った京都新城
去年、京都・仙洞御所内で発掘調査が行われ京都新城の石垣や堀跡などが見つかり大ニュースになりました。秀吉が最後に造った城で、秀頼を公家武士として生き残らせるために作った等、色々な説が出ています。

仙洞御所(京都新城)
仙洞御所(京都新城)

関ケ原の合戦の1年前、大坂城西の丸に徳川家康が入りますが、入れ替わりに西の丸に住んでいた高台院(秀吉の奥さん)が京都新城に移ります。関ケ原の合戦前に戦闘に使われるのを防ぐために京都新城の防御施設が破棄され、高台院は退去します。

石田三成が関ケ原を一望できる玉城に豊臣秀頼を総大将として迎える予定でしたが、大坂方で秀頼出陣を反対する層が壊したという説もあります。立花宗茂らが大津城を攻め、関ケ原の合戦に間に合いませんでしたが、京都新城を中継として使えないので大津城は落とすしかなかったですね。

■京都新城の解体
関ケ原の戦いの後は、京都新城に、また高台院が住みました。高台院が亡くなり、後水尾天皇が譲位で仙洞御所を作る時に解体されます。西本願寺にある飛雲閣は聚楽第からの移築と考えられていましたが、どうも京都新城の解体によって移築されたようです。これで京都新城は幻の城になってしまいます。