武衛陣(二条城)

武衛陣

織田信長が足利義昭を奉じて上洛し、信長が岐阜に戻ると本国寺を御座所にしていた足利義昭を三好三人衆が襲います。大河ドラマ「麒麟がくる」では光秀が足利義昭を守って戦うシーンが出てきます。岐阜にいた信長は大雪の中、わずか10騎で救援に駆け出します。三好三人衆の攻撃をなんとかしのぎましたが、守りを固めるため信長は武衛陣があったところに二条城を建設します。

■武衛とは
武衛とは天子を守る武官で、将軍のことです。大河ドラマ「鎌倉殿の十三人」で頼朝が豪族から、最初は「佐殿(すけどの)」と呼ばれます。これは右兵衛権佐(うひょうえのごんのすけ)という官位に頼朝がついていたからです。ところが平治の乱が起きたため、わずか15日で解任されます。「佐」が位をあらわし伊豆に流された時に官位はありませんが坂東武者たちは敬意を込めて佐殿と呼んでいます。

坂東の支配が確立していくと坂東武者たちは頼朝を「武衛」と呼ぶようになります。実質的に兵衛府(唐名が武衛)のトップ(督)だと、いう意味です。頼朝も悪い気はしなかったでしょう。

■武衛陣
室町時代になると兵衛権佐の官職は斯波氏の当主が任じられるようになり、同家を武衛家と称するようになりました。斯波氏の館があったところが武衛陣と呼ばれるようになります。館と言いながら櫓を備え堀もあった城郭でした。斯波氏は管領として室町幕府を支えましたが応仁・文明の乱の頃から弱体化しました。尾張の守護でもありましたが、補佐する守護代の織田氏にやられるようになり、やがて守護代の家来だった織田信長が台頭していくことになります。信長にとって武衛陣に二条城を建てる時、感慨深いものがあったでしょうね。

妙顕寺城の遺構が発見される

妙顕寺城の遺構が初めて確認されたと報道がありました。

大政奉還の舞台となったのが現在の二条城ですが、この前にいろいろと二条城があり妙顕寺城は秀吉が築いた二条城です。まずは武衛陣という、もともとは斯波氏の屋敷で将軍御所となった場所があります。武衛陣の近くに作られたのが織田信長が足利義昭のために築いた二条城です。ルイス・フロイスが初めて織田信長と出会ったのが、この二条城の工事現場でした。信長が足利義昭と敵対した後に作ったのが二条新御所になります。

■妙顕寺城
本能寺の辺の後、信長が造った二条城新御所の西側にあった妙顕寺を移転させ、1583年(天正11年)に城を造りました。今も古城町という地名が残っています。信長が本能寺の変で亡くなったことを教訓に堀や天守閣を備えた強固な城でした。今回、遺構が見つかったのが、この城になります。

二条という土地は足利将軍の武衛陣があったこともあり、武家政権の聖地になっていました。ですので信長、秀吉、家康はこの地に城を作ることになります。

ヤマトタケル(伊吹山)

伊吹山

新幹線からよく見える伊吹山です。9合目から最後の標高100メートル少しを40分ほどかけて登れば山頂に着きます。標高が高いので涼しいかなと思っていましたが、山の上も暑さが厳しく登っていると汗だくになります。以前は麓から登れましたが大雨で道が崩れて登山道は閉鎖されています。

伊吹山といえば日本武尊ですね。山頂に像があります。東征の後、素手で伊吹の神と対決しに行きましたが敗れて病身になってしまいます。大和を目指しますが能煩野(亀山)で力つきて亡くなります。日本武尊は東奔西走して戦いますが、宋書倭国伝に倭王武(雄略天皇?)の上表文が掲載されており、先祖代々、東は毛人を征すること55国。西は、衆夷を服すること66国。渡って海北を平らげること95国とあるので、これが日本武尊に反映されているようです。

松原でセミナー

松原商工会議所

2日前に大阪府よろず支援拠点へ出ると

「水谷さん、金曜日行ける?」
「行けるって、どこへ?」
「河内松原!」
「エッー、大和川を超えるの!」

大阪人にとって大和川はルビコン川のようなものです(笑)

なんでもセミナーで講演予定のコーディネータが急遽、行けなくなったということでピンチヒッターが回ってきました。タイトルは「インフレ時代の必須スキル!下請け製造業の価格交渉術」でITじゃないやん。
「コンテンツは揃っています」と言われてもですなあ。抵抗していたんですが、結局、長い物には巻かれろということで引き受けることに。

大和川を渡って松原商工会議所でセミナーをしてきました。終わった!終わった!

台風でセミナーが延期に

木曜に四日市でセミナーを予定していたのですが、月曜日に主催者から連絡がはいり台風が近づいているので木曜開催が延期になりました。

台風が木・金にきそうなので電車が動かないと困るので金曜の予定もついでに変更。今朝のニュースを見ていると、どうも台風が近畿に近づいているのは土曜日のようですね。ウーン、せっかく時間が空いたので原稿書きしよっと!

柴島城

柴島城

阪急柴島駅、京都線と千里線が交差する淡路駅の隣駅です。淡路駅は平面駅で開かずの踏切問題などがあり、高架工事をしていますが、めちゃくちゃ大がかりで、ずっとやっています。柴島駅あたりでも工事が続いています。

この柴島駅近くにあったのが柴島城。淀川改修工事などで大幅に変わりましたが昔は地名通りの島でした。実際の柴島城は碑があるところから南にいった柴島中学校あたりにありました。

平城ですが、歴史の舞台に登場します。天文18年(1549年)に起きた江口の戦いで三好氏の内紛でした。三好長慶と三好政長との戦いで付近にあった榎並城や堀城などの攻防戦が行われ、政長側が守っていた柴島城を長慶軍が落城させます。最終決戦が江口城での戦いだったので江口の戦いとい呼ばれ、最終的に三好長慶が勝ちました。

おやぢの会(海藤花)

海藤花

「おやぢの会」という夏と年末の年2回集まる面妖な会があります。平均年齢が高いため私でも若手になっています(笑)。

門外不出の裏側の話などが続々と出てくる危ない会でもあります。昨夜は北新地にある海藤花(かいとうげ)というお店が会場。何回か来たことがあるのですが、北新地は同じようなビルばかりなんで毎回、場所を忘れてGoogleマップに頼っています。昨夜は鱧づくし料理で最後のデザート以外はすべて鱧でした。鱧しゃぶの後の雑炊が絶品でした!

ウクライナは今

知的生産の技術研究会・関西

テーマ:ウクライナは今
講 師:日本ウクライナ文化交流協会会長 小野元裕氏
場 所:大阪産業創造館

小野元裕

8月24日は33年目のウクライナ独立記念日。そしてロシアが侵攻してから913日目になります。

■ウクライナ人とは
もともとウクライナと交流するために立ち上げた日本ウクライナ文化交流協会ですが、女性や子供の避難民が来日したことから受け入れた自治体から連絡が殺到。ウクライナ語をきちんと通訳できる人材が少ないなか紹介におわれることになります。次に生活支援ですが、ウクライナ人を知らないためにいろいろな摩擦が発生。特に女性は化粧してきれいな服を着ていなければテレビのインタビューにもこたえないという美意識があります。避難民なら、もっと着の身着のままの姿ではという日本人の意識とギャップになります。

また支援する側がやりたいのは「自分のしたい支援」で、本人が必要とする支援とあいません。例えば、1、2回使って洗った下着などが届いたりしますが日本人でもそんなものはいりません。また枚方パークの入場券が届いたりもしたそうです。ウクライナ人は辛い物はダメでカレーは無理。また熱いものも食べないので鍋もダメ。現地のボルシチは冷めて出てくるそうです。

■日本人の関心が薄れる
侵攻1年ぐらいは寄付なども集まりましたが、だんだん減っていきます。現地は寒く発電所などがやられているので使い捨てカイロを現地に送る運動をスタート。デヴィ夫人なども協力してもらい、現地で重宝したそうです。

動きとして自分の兄弟や親戚が戦っているのに日本にいてもよいのかといった罪悪感からウクライナへの帰国が増えています。キーウでは爆撃があってもすぐに修復しています。子供たちのトラウマがひどく、その対策ですがマスコミにとっては絵にならないので、その分、報道が減っているそうです。

細川ガラシャの墓(崇禅寺)

細川ガラシャの墓

崇禅寺にある足利義教の首塚は疑問がありますが、その隣に細川ガラシャのお墓があります。

■細川ガラシャ
明智光秀の娘で「麒麟がくる」では芦田愛菜が演じていました。細川忠興に嫁ぎますが、秀吉が明智光秀を討つと、謀反人の娘を嫁にしているのはまずいので通常は離縁なんですが、細川忠興は、どうも惚れ込んでいたようで遠隔地に隠したりしています。秀吉が死に、関ヶ原合戦前に石田三成方が細川家の屋敷に押しかけ人質にとろうとします。細川ガラシャはキリシタンで自死ができませんので、自らを家臣に殺害させて、屋敷に火をつけ亡くなります。この影響で他の屋敷から人質をとる動きが弱まります。細川屋敷方は大阪城のすぐ南にあり、今は越中井という屋敷にあった井戸が残っています。

宣教師が遺骨を集め、細川家菩提寺である崇禅寺に納めたとされています。有名な辞世の句が「散りぬべき時 知りてこそ 世の中の 花も花なれ 人も人なれ」です。