軽の池

近鉄・橿原神宮駅の近くにあるのが石川池(剣池、軽の池)。「軽の池の浦 うらみ行きみる鴨すらに 玉藻のうへに 独り宿なくに」(軽の池の浦を泳ぎ回る鴨ですらも玉藻の上に独りで寝ることはないだろうに…)という紀皇女(きのひめみこ)の歌が万葉集に掲載されています。池のほとりに孝元天皇陵がありますが、ホンマかどうかは分かりません。

軽の池
軽の池

南北に走る上ツ道が山田道になって東西を走るようになり軽で下ツ道と交差します。交通の要衝ですので飛鳥時代には「軽市」と呼ばれる市場があり、繁華街で出会いの場でもありました。柿本人麻呂も妻を軽市でゲットしたようで、妻が亡くなると軽市の雑踏の中に亡き妻の面影を求める歌を残しています。

軽には懿徳天皇・孝元天皇・応神天皇が宮を置いたと日本書紀に書かれていますが、懿徳天皇・孝元天皇は欠史八代(実在が怪しまれる)なので、ホンマかどうかは分かりません。

雷丘城

山田道を山田寺を超えて、ずっと進むと飛鳥資料館があり、さらに先に進むと水落遺跡のちょっと先に雷丘(いかづちのおか)があります。

雷丘城

柿本人麻呂の「大君は 神にしませば 天雲の雷の上に 庵りせるかも」で有名ですね。雷丘の近くにあったのが推古天皇の小墾田宮(おはりだのみや)です。雷丘へ徒歩かレンターサイクルで向かうと東側から登ることができ、上に登ると雷城の遺構を見ることができます。久しぶりに飛鳥へ行ったので城跡を見てきました。

戦国時代、飛鳥は戦場となり雷丘も城郭に改良されました。郭との間の空堀や帯郭が残っています。飛鳥時代の遺構はこの時に破壊されてしまったようです。近くには雷ギヨン城があります。

山田寺

蘇我倉山田石川麻呂は蘇我氏でありながら、乙巳の変では中大兄皇子、藤原鎌足側につき新政権では右大臣に任じられます。そこで建立を開始したのが山田寺です。上ツ道から山田道に入る所に安倍寺の建立がはじまり、山田道沿いの飛鳥入口にあたる部分に山田寺が建立されます。

山田寺
山田寺

ところが謀反の噂が流れ、石川麻呂に孝徳天皇の軍勢が差し向けられても抵抗せず、山田寺で自害します。石川麻呂は冤罪だったと言われますが諸説あります。なんか山背大兄王の事件とよく似ていますね。

■山田寺仏頭
山田寺の建立は中止されていましたが、石川麻呂の孫で天武天皇の皇后の菟野皇女(持統天皇)の尽力もあって完成します。興福寺の僧兵が力を持つようになると山田寺に押し入り、本尊を強奪してしまいます。その後、火事などがあり仏頭だけ残り、現在、興福寺国宝館に公開されています。行くたびに「山田寺から奪い取りやがって」と見ています。

■東回廊
山田寺はやがて荒廃していきますが、現在も水気が多いこともあり倒れた東回廊が、そのまま地中に残っていました。復原された形で飛鳥資料館に展示されています。

船場総研・総会

日曜日、船場総研・総会を開催。

大阪産業創造館
大阪産業創造館

会場は大阪産業創造館の会議室です。いつも大阪府よろず支援拠点で行っているので新鮮味がないですなあ。
船場総研というのはNifty-Serve時代からある中小企業診断士・勉強会「船場勉強会」のOB組織。最近は高齢化が問題になっています(笑)。
船場総研は昨年、コロナ禍でも3回のイベントを開催。今年も3回ぐらいはやろうと計画を立案。一つは貝塚巡りです。

総会が終わってから居酒屋探し。堺筋本町はオフィス街なんで土日に休んでいる店が多く、しかも17時前なんで居酒屋難民状態。ようやく見つけて一杯やりました。

畝傍山

【奈良まほろば検定 模擬試験問題】
問 大和三山で山頂や山腹に神社がないのは
ア.畝傍山 イ.天香具山 ウ.耳成山

とっても簡単な問題ですね。正解は「畝傍山」です。天香久山の頂上には国常立神社、耳成山は頂上手前に耳成山口神社があります。ちなみに耳成山口神社の裏手に山城跡が残っています。

畝傍山の麓に畝傍山口神社があります。越智氏(南朝方で戦国時代は筒井氏や十市氏と戦いました)が貝吹山城を造る時に神社を見下ろすのは恐れ多いということで麓にあった畝傍山口神社を山頂へ移します。貝吹山の方が畝傍山より10mほど高いのでホンマの話がどうか分かりませんが、畝傍山口神社の説明に書いてありました。

二上山
二上山

昭和になり畝傍御陵や橿原神宮などが整備される時に見下ろすのはまずいという話になり、また麓に遷座されることになります。ですので畝傍山山頂には神社がありません。畝傍山は大和三山の一番西側なので二上山などが見られます。

龍田道

古代官道シリーズの最後です。

南北方向に並ぶ古代官道が上ツ道、中ツ道、下ツ道です。東西を結ぶのが横大路ですが、北にもあります。天理市の櫟本から法隆寺近辺を結んでいたのが「北の横大路」で斑鳩を超えると龍田道になります。難波津・四天王寺と斑鳩・法隆寺を結ぶ街道として整備されました。

龍田道
龍田道

「北の横大路」は龍田神社を超えると大和川沿いの龍田道をすすみます。峠という土地がありますが、名前と違って標高100mもないので楽の登れます。飛鳥時代は竹内街道よりも急ではない龍田道がよく使われ、聖徳太子や遣隋使の裴世清、聖武天皇などもよく利用していました。

八木札ノ辻

古代官道ファンの皆さん!そんな人はいないって(笑)。

八木札ノ辻
八木札ノ辻

いよいよ下ツ道です。藤原京の西端と平城京の朱雀大路をまっすぐ結ぶ官道でした。一部が残っていて今の国道24号の約250m西方を並行して走っています。この下ツ道は江戸時代になると中街道と呼ばれるようになります。横大路は伊勢街道(初瀬街道)と呼ばれ、飛鳥時代からずっと使われています。

この下ツ道と横大路が交差するところが近鉄八木駅のすぐ近くにあります。交差点は「八木札ノ辻」という名前で伊勢参拝や大峯山への巡礼客などでにぎわっていました。交差点角にあったのが旅籠で、現在は整備され八木札ノ辻交流館という名前で客間や坪庭などの見学ができます。

三重大学 対面授業

本日から対面授業になったので、久しぶりに三重大学へ。2年間、オンラインでしたので、浦島太郎状態。教室の機器も変わっていたし、工事中だった建物がしっかり建っていました。学生と初めて対面で会いましたが、ほとんどが2003年生まれでした。若いな~あ(笑)。

中ツ道と横大路の交差点

藤原京から平城京を結んでいたのが上ツ道・中ツ道・下ツ道の3つの官道です。

■中ツ道
中ツ道は字の通り上ツ道と下ツ道の間にあり、南は藤原京の東端から北も平城京の東端を結んでいました。さらに南へ行くと香具山を迂回し、飛鳥の橘寺へ至るため、近世は橘街道と呼ばれていました。さらに南に向かうと吉野へ通じています。壬申の乱の舞台ですねえ。

中ツ道と横大路の交差点
中ツ道と横大路の交差点

■横大路
横大路は東西の官道で三輪山の南から葛城市の二上山付近まで、ほぼまっすぐに整備されました。三輪から東側は伊勢街道となり、近世は伊勢参りに使われ伊勢街道と呼ばれていました。二上山から西側は竹内街道につながり、堺に至ります。ここから難波大道が出て難波京にいたります。

中ツ道(橘街道)と横大路(伊勢街道)が交差するところです。今はなんてことのない交差点ですが飛鳥時代はインターチェンジみたいな場所でした。

山田道

飛鳥にある軽の衢(かるのちまた)を通り、安倍、磐余の間を結んでいたのが官道・山田道です。飛鳥資料館の前の道になります。飛鳥を出ると2つの丘陵の間を通るため途中で曲がり、古代・安倍寺の前に出ます。安倍からは北にまっすぐ延びて、桜井の戒重(かいじゅう)から「上ツ道」になります。当時は幅20mほどの大道で、現在の県道とほぼ同じところを通っていました。戒重が上つ道と横大路の交差点になっていました。

山田道
山田道

桜井には大和川沿いに海柘榴市がありました。難波津から入った一行は大和川をさかのぼり、斑鳩宮前を通って海柘榴市あたりで上陸しましたので、ここから山田道を通って飛鳥の宮を目指します。遣隋使とともに来日した裴世清もこの道を通ったのでしょう。