平城京 南門

平城京南門が・出来上がりました。
「なんと、りっぱな平城京」で覚えた平城京遷都は710年。藤原京から移り、長岡京に遷都するまで70年ほどの都でした。

平城京南門
平城京 南門

大極殿正殿と朱雀門が出来上がっているので、南門を含めた3つが縦に並んで見られるようになります。計画によると築地回廊、東西楼(南門の東と西にあった建物)、内庭広場も随時、復原整備されるんですね。

■幕末からの保存活動
遷都後の平城京はだんだん廃れ、長い間をかけて田んぼなどになっていました。江戸時代末期に藤堂藩の飛地が古市にあり、古市奉行所に勤めていた北浦定政が自ら考案した測量車を使って奈良盆地をくまなく調査。地図の上に平城京を復元します。これが「平城宮大内裏跡坪割之図」。平城京は碁盤の目のように区画されていましたが、水田のあぜ道などや古い地名を調べて比定していきます。

ペリーの黒船来航などで騒然としたいた時に、こんなフィールドワークをやっていたんですね。明治になってから関野貞が大極殿の基壇を見つけ、棚田嘉十郎によって奈良大極殿保存会が設立され、保存運動がすすみ、現在の平城旧跡歴史公園が誕生します。

水主城

木津川のほとりにあるのが水主城(御厨子城)。現在の法念寺近辺にあり、あたりには北垣内、西垣内、南垣内という地名が残っています。北垣内あたりでは昔の小字が「シロノ内」と言っていました。地名以外は何も残っていません。

水主城
水主城

枇杷庄城から徒歩10分ぐらいです。畠山の家督争いの舞台で文明15年、畠山政長方であった水主城が畠山義就方の斎藤彦次郎によって攻め落とされています。水主という地名は、全国にあり「水主衆(水夫)が集住する町」に由来します。木津川で物資を運ぶ港が近くにあったのでしょう。古代から水主直(みぬしのあたい)という豪族がいたので最初に水主城を造ったのかもしれません。

残念塚

大河ドラマ「晴天を衝け」、あれよあれよという間に鳥羽伏見の戦いが終わり函館・五稜郭の戦いまで進んでしまいました。カッコよく土方歳三が出てましたねえ。

鳥羽伏見の戦いで徳川慶喜は大坂城でもう一戦するチャンスがありましたが、部下をみすてて逃亡。大阪湾の制海権を幕府の軍艦が握っていたのですが、どうもイギリス側から局外中立を守らないかもしれないと脅しをうけていた模様で内戦となりフランスとイギリスの代理戦争になることを怖れた説があります。自分がいなくなった時にまつりあげられそうな松平容保(会津藩藩主)、松平定敬(桑名藩藩主)も連れていきます。

幕末の京都で幕府の政権を担当した一会桑の面々ですので、逃亡するにしても慶喜は用意周到です。主戦派の松平定敬は留守中に桑名藩の家老連中が恭順に決定したため、函館戦争にまで参加しています。最後の新選組に桑名藩藩士が多いのは藩主についていった主戦派の連中が参加したからです。

■残念塚
主がいなくなった大坂城では、逃げるしかなく兵士も船などに乗って江戸に向かいますが、潔しといない面々が残り城に火を放ち、次々と自刃していきました。新政府軍は焼け焦げた建物の中から遺体を回収し、武士の鑑と称賛し埋葬します。これが大阪で「残念塚」と呼ばれる城中焼亡埋骨墳で大阪城公園のはずれにあります。

残念塚
残念塚

■150年前、とてもヤバい国だった
カブールからガニ大統領がさっさと逃げ出し首都が陥落したニュースを見てサイゴン陥落を思い出した人も多いと思いますが、鳥羽伏見の戦いみたいだなと思っていました。今から150年ほど前の日本はとてもヤバい国で、「攘夷」と叫んで丸腰の商人や婦人が惨殺され、大使館が焼き討ちされるなどテロが日常茶飯事でした。あまりに危ない国なので多国籍軍を組織して砲撃したりしています。

ワクチン接種 2回目

昨日、大阪商業大学へ行って2回目のワクチン接種を行ってきました。

ワクチン接種
ワクチン接種

接種2回目で流れも把握しているためスムーズに終わりました。1回目では「風呂は入ってもいいけど飲むのはダメ」と女医さんに言われましたが、今回の男性のお医者さんは「風呂に入ってもいい」と言うだけ。「何か質問はありますか」には藪蛇になるとダメなので「何もありません」と答えました。

2回目の副反応がきついと聞いていたので、日曜、月曜と予定をいれなかったのですが1日たっても腕が少しだけ固くなっただけで、熱も何も出ません。ウーン、これは副反応が出るほど若くないということなのかな~あ。

枇杷庄城

枇杷庄城
枇杷庄城

枇杷庄城は近鉄富野荘駅の南西にあり外野城から徒歩20分ぐらいです。

枇杷庄城は枇杷庄天満宮あたりにありましたが、遺構は残っていません。木津川のすぐそばで、物流拠点でした。周辺には「大堀」という名前の地名が残っています。畠山の跡目争いでは枇杷庄城にいた斎藤彦次郎が畠山政長方に寝返り、畠山義就方の外野城を攻撃して落城させます。

■足利義昭ゆかりの枇杷庄城
時代がすすみ織田信長と対立した足利義昭は信玄の上洛にあわせ宇治にある槙島城で挙兵しますが信長に攻められ落城します。兼見卿記によると義昭は嫡男を人質として信長に差し出し、枇杷庄に退くとあるので、入ったのが、この枇杷庄城だったようです。

信長の命で秀吉が枇杷庄城から河内の若江城に足利義昭を送り届けます。大河ドラマ「麒麟がくる」では、駒が戦に敗れた義昭のもとを訪ねるシーンが出てきますが、場所としては枇杷庄城だったのでしょう。

外野(との)城

堀口
堀口

近鉄富野荘駅の東側にある西富野公会堂あたり一帯にあったお城ですが住宅地になって何も残っていません。ただ堀口、北垣内、南垣内、西垣内、乾垣内という地名が残っています。垣内(かいと)は区画という意味ですが城郭跡の地名としてもよく使われています。

■畠山家の御家争い
このあたりは応仁の乱の舞台で、守護大名である畠山氏の跡目争いの場所でした。事の発端は畠山持国に嫡子がおらず後継者を決める必要があったこと。畠山義就の母親の身分が低いため畠山持富を後継者にしました。ところが畠山持国の気が変わり畠山義就を後継者にすることになります。1450年、義就が後継者となり、持富は異議をとなえませんでしたが2年後に亡くなってしまいます。持富の子である畠山政長が義就に対する不満分子に持ち上げられ、結局はお家騒動に。これが応仁の乱の一因になります。

■落城
河内や大和を舞台に激突しましたが京都の南にある城陽市でも両者は激突します。1485年、外野城は畠山義就方で、伊賀国人衆が守備していましたが、すぐ近くの枇杷庄城の斎藤彦次郎が畠山政長方に寝返り、外野城と寺田城を攻撃して落城させます。

森山遺跡

JR長池駅から住宅街の階段を登って高台に出ると公園があります。ここが縄文時代、弥生時代、古墳時代へと続く森山遺跡です。宅地造成で見つかった遺跡です。木津川を臨む高台ですので物流の拠点でした。竪穴住居などの集落跡が見つかっていますが、面白いのが古墳時代の初頭です。

森山遺跡
森山遺跡

東西40メートル、南北32メートルの方形台状に盛土し、その周囲に幅4メートル、深さ1.5メートルの溝を巡らした遺構が見つかりました。この土地を支配した首長の居館跡のようですが、堀を巡らした郭でまさに城郭の初期の形になっています。

辛来飯

世間一般的には盆休みというのがあるそうですが縁なき衆生でございます。そういえばボーナスなる魅力的な言葉があるようですが、ここ20年ほどお目にかかったことがございません。というわけで雨の中、大阪産業創造館にある大阪府よろず支援拠点に出ております。地下鉄はすいていました。

辛来飯
辛来飯

ランチに出かけるとオフィス街ということもあり緊急事態制限とは関係なく飲食店も盆休みが多いですね。お店が開いていた辛来飯(カーライス)へ。チキンカレー+ウインナー2本です。ここのチキンはチューリップになっています。明日も店をやるそうで、おばちゃんが「おたく明日休み?」とお客さんに聞きまくっていました。

安満遺跡

以前、JRや阪急で高槻駅を出てすぐのところに見えていたのが京大農場の広い緑でした。ところが工事がはじまり、「あ~あ、せっかくの緑が住宅地にでもなるのかな」と思ったら遺跡公園になっていました。

安満遺跡
安満遺跡

安満(あま)遺跡で昭和の初めに京大農場を作る時、遺跡があることが判明しました。安満遺跡は弥生時代の大環濠集落跡で何重もの堀と土塁で囲まれていました。つまり初期の城です(笑)。約2,500年前から800年間にわたって栄え、居住域の東西に方形周溝墓群からなる墓域があり東群では100基以上の方形周溝墓がありました。水田跡と一緒に、スキやクワといった木製品、石包丁などの農耕具もたくさん出土しています。

公園としてきれいに整備されレストランやスターバックスなどもあり高槻市民の憩いの場になっています。