上城戸

上城戸

下城戸と対になるのが南を守る上城戸です。下城戸と上城戸ではさまれた地域が一乗谷になります。上城戸は土塁と堀で構成され、土塁の長さは100mを超え、高さは5mあります。大宰府を守る水城のような感じですね。賤ヶ岳の合戦で秀吉が作った東野山砦から堂木山砦まで結んだ土塁もこんな感じだったのでしょう。

上城戸の山側には平坦地が作られ櫓があったようです。あとで確かめると上城戸の外側に美濃から逃れてきた斎藤龍興や近江の浅井氏などの有力武将の屋敷もあったようです。その先には足利義昭が滞在した安養寺跡もありました。上城戸でUターンしたんですが、もうちょっと先まで足をのばせばよかったなあ。

下城戸

下城戸

いよいよ一乗谷へ

入口は下城戸です。安波賀から一乗谷に入るところが最も狭まっていて、ここに造られたのが下城戸です。土塁は山裾の川まで続いており、北側には幅10mほどの堀があり、一乗谷に入るには下城戸を突破するしかありません。枡形になっていて防御は完璧です。

朝倉宗滴邸

朝倉宗滴邸

朝倉宗滴という人物がいます。朝倉家の歴代当主を支えた歴戦の勇士でゲーム「信長の野望」にも登場します。

朝倉宗滴話記で有名です、数多くの戦闘体験をもとにした教訓で戦国武将の心得がよく説かれています。例えば、名将とはいちど大敗北を喫した者だという言葉があり、失敗した大将は、反省し、作戦の立て方を練り直すことで磨かれるといった意味です。朝倉宗滴自身は自分は勝ち戦ばかりで敗けなかったので名将になれなかったと謙虚なのかマウントをとっているのか、よく分からないことも言っています。「武者は犬とも言え、畜生とも言え、勝つことが本にて候」、どんな手段を使っても勝たなくてはいけないとも言っています。

一乗谷入口が安波賀という港になっていて、ここに朝倉宗滴邸があります。越美北線沿いにあり、近くの西山光照寺跡は案内板がありますが、こちらは何もありません。Googleマップは優秀でちゃんと表示され、三方を土塁で囲まれた区画が邸宅跡でした。

京都バスが福井を走っている

福井駅

福井駅に降り立ち、びっくりするのが動く恐竜ではなくバスロータリに並ぶバスです。「なんで京都バスが福井を走っているの!」と思ったら京福バスという名前でした。

京都バスとまったく同じカラーになっています。調べてみると京都バス、京福バスとも京福グループであり、経営不振など紆余曲折があって京阪グループ傘下になっています。嵐電や叡電という京福電鉄も走っていますね。

■京福になったワケ
京都と福井を結ぶ鉄道計画があったのではなく、京都は祇園を始め夜間の電力需要が多く、福井は織物工場が稼動する昼間の電力需要が多いため、互いの電力を融通するために「京福送電線」が作られたところから京福になったそうです。

越前全国オフ 2日目

お菓子

2日目は全国から各自が持ち寄ってきた、お菓子をつまみながら近況報告です。一人5分なんですが、しゃべりたがりが多いのでタイムキープしないと、なかなかおさまりません。次回の予定(信州になりそう)を大体、決めたらお昼となり散開です。

もう一泊して観光したかったんですが、LECの仕事が1年も前から入っているので、なくなく福井から帰ってきました。

今日はLEC梅田で1日、講義をし、さっき帰ってきました。疲れた~あ!

ACT2020 越前全国オフ

さわやか

インターネットがまだ普及していない時代、パソコン通信Nifty-ServeのなかにFlic(資格)フォーラムがありました。いろいろな会議室があるなか中小企業診断士の勉強会があり、オンラインだけでは面白くないので各地にオフライン勉強会が作られ、やがて全国オフが行われることになります。この全国オフの残党がいまだに続いています。

今回は越前が舞台。金曜の昼間に武生にある「うるしや」に全国から集合。越前ソバを堪能した後、鯖江商工会議所、小林大伸堂(ローズストーン)、サンオプチカルを見学した後、鯖江の神明苑に宿泊。夜の宴会では「ATコマンドでモデムの音を消すにはどうしたらよいか」「9600bpsは早かった」など、ほぼ化石化した会話が続きます。

写真は福井のローカルジュースである「さわやか」。1978年発売の地サイダーで、めちゃくちゃ甘いです。

行くのが大変な蜾嬴神社

蜾嬴神社

蜾嬴神社

絶対によめません!正解は「すがる」神社です。

雄略天皇が養蚕をすすめるために、臣下の「すがる」に蚕を集めるように命じると、蚕(こ)を子(こ)と同じ音だったので、間違って子供を集めて天皇に献上しました。大笑いした天皇は「すがる」に連れてきた子どもたちを養育するようにいい、少子部連(ちいさこべのむらじ)という名を与えます。この少子部連すがるを氏神として祭った神社です。

宗我坐宗我都比古神社の前の道を北上すると、すがる神社があるのですが、Googleマップで調べて近くに行っても道がありません。探しまわると、民家の横に畦道のような道があり、これをたどるとピンポン!神社にたどりつきました。

蘇我氏の故郷

宗我坐宗我都比古神社

近鉄・大阪線と橿原線が交差する八木駅の一つ手前にあるのが真菅駅です。普通しか止まりません。

真菅駅のすぐ近くにあるのが宗我坐宗我都比古神社(そがにますそがつひこじんじゃ)。このあたりは曽我町で蘇我氏の出身地と考えられています。飛鳥へは皆さん行かれますが、こんな神社に行く人は、まずいませんね。

蘇我氏は蘇我稲目あたりから歴史に登場するようになりますが、それ以前についてはよく分かっていません。

ヤマト創世記の葛城氏が対朝鮮外交や渡来人の管理、大王家へ娘を妃として出す役割を担っていました。葛城氏が雄略天皇に滅ぼされると、これらの役割を継いだのが蘇我氏でした。後に蘇我馬子が祖先の地である葛城(天皇直轄地になっていた)を返してほしいと推古天皇に願って拒否された話があります。となると元は葛城で本家から分かれて曽我の地に移ったんですかねえ。

武埴安彦破斬旧跡

武埴安彦破斬旧跡

稲八妻城の最寄駅は近鉄・新祝園駅で地図を見ていると武埴安彦破斬旧跡というのを発見。なんて読むんだあ(笑)

調べると武埴安彦命(たけはにやすひこのみこと)という孝元天皇の皇子だそうです。崇神天皇の時代に四道将軍の1人の大彦命(武埴安彦の異母兄弟)が北陸への派遣途中、天理で不吉な歌を歌う少女に出会います。大彦命は引き返して崇神天皇に報告します。

三輪の大物主神の奥さん伝説がある倭迹迹日百襲媛命が占うと武埴安彦の謀反が発覚します。そんな占いで分かるんですかねえ。ですが本当に武埴安彦が山背から攻め入ってきたそうです。吉備津彦命、大彦命、彦国葺が対応し、武埴安彦軍は敗退。ここで斬首されたそうです。山城国一揆でも戦場になりましたが古代にも戦場だったんですね。住宅地の中に碑だけ建っていました。

稲八妻城

稲八妻城

稲八妻城(いなやつまじょう)

京都の南側・相楽山城で起こったのが山城国一揆です。発端は応仁の乱で1470年以降に相楽地域の武士も東西両軍に分かれて争うことになりますが、やがて厭戦気分が高まり、1477(文明17)年に久世、綴喜、相楽の3郡の国衆が集まり、一揆を起こします。一揆といっても江戸時代の農民一揆ではなく共和国の設立です。

最終的にはうまくいかず、国衆ら数百人が稲屋妻城に籠城し、激しく抵抗しました。稲屋妻城については2つの説があり、その一つである政ケ谷城には先日、登ったのですが、もう一つの説では政ケ谷城の北側にある城山です。

麓に武内宿禰をまつった武内神社があり、神社の裏側から登山道が続いています。ずっと上まで登ると土橋や郭がありましたが、浄水場が山の上に造られており、ここにあった郭は破壊されたようです。途中に展望があり精華町の町を見下ろすことができます。