柳の渡し

六田城に向かうには美吉野橋を渡ります。吉野川にはいくつか橋がかかっていますが、昔は渡しでした。美吉野橋近くにあったのが柳の渡しです。六田(ムダ)と対岸を結んでいました。渡し跡には江戸時代の石灯篭や道標が残り柳も植えられています。

柳の渡し
柳の渡し

柳の渡し以外にも桜の渡し、椿の渡し、桧の渡しがありました。柳の渡しは景勝地だったようで万葉集に「音に聞き 目にはいまだ見ぬ 吉野川 六田の淀を 今日見つるかも」という歌が残っています。

吉野からさらに奥に入ると修験道の大峯奥駈修行があります。修行では75の靡(なびき)と呼ばれる行場を巡ります。柳の渡しが北の起点で75番目の靡になっていました。昔は、多くの行者が吉野川で禊ぎをして大峯を目指したそうです。ちなみに1番の靡は熊野本宮大社です。

六田城

六田と書いて「ムダ」と呼びます。南北朝時代、吉野城を守る支城として丹治城、飯貝城、六田城、一の坂城がありました。一の坂城は吉野山への参道途中ということもあり遺構は消滅しています。丹治城、飯貝城は先日、登ってきたので最後の六田城に行ってきました。

六田城
六田城

六田城は牟田寺の背後にある尾根に築かれています。寺の後ろに墓地があり、そこからひたすら直登すると尾根へ出ます。便利なのがGoogleマップ、城はさらに西側と表示されます。尾根を西へ進むと主郭がありました。郭は2つあり、こじんまりとしていますが、土塁を設けた二重堀切などが楽しめます。また攻め込みにくい高い切岸を実現しています。

船場総研・新年会

パソコン通信時代から続く船場勉強会(中小企業診断士の勉強グループ)のOB組織が船場総研です。OBが勉強会に出ると、うるさくって勉強の邪魔になるとできた別組織です。久しぶりに街歩きでもしようと計画していたのですが、コロナ禍の影響で結局、オンライン開催になりました。

フライングトースター
フライングトースター

船場総研メンバーもだいぶ歳をとっていますから、まずは病気の話題から(笑)各自の近況報告やらビブリオトークやらを行い、画面にフライングトースターのスクリーンセーバーが映ると、ATコマンドをたたいて400bpsのモデムでアクセスした話など若いメンバーには全然、ついていけない話題に(笑)。

スクリーンセーバーというのはCRTディスプレーの時代、画面の焼き付けを防ぐために開発されたものです。闇夜に夜行性の動物の目が次々と画面に浮かぶスクリーンセーバもありました。画面からは狼の遠吠えや虫の音が聞こえ、深夜、残業している時にスクリーンセーバが動くとまるでジャングルで仕事をしているような印象でした。

カンボジア自転車プロジェクト

カンボジア自転車プロジェクトの報告が届きました。

知り合いの安田さんが2016年から行っているプロジェクトです。カンボジア農村地域の中学生たちに日本の中古車自転車を送るプロジェクトで、中学校までの距離はカンボジアの場合10キロ~20キロ。自転車がないと徒歩で数時間かけての通学となります。夜など女生徒にとっては大変です。

学校でたくさん勉強して自分の人生を切り開き、家庭を支えたいと言うカンボジアに中学生に少しでも教育チャンスが拡がるようにReadyForの仕組みを使って中古自転車を送る支援をしています。またメンテナンスが必要なので各中学校に自転車クラブが作られ補習が行われています。

合同会社エムアイティエスでも協力しており、どこかの中学校の自転車クラブに看板がかかっています。

天王寺砦

京阪神スリバチの達人
京阪神スリバチの達人
  • 「京阪神スリバチの達人」を読んでいたら現在の月江寺あたりにあったのが天王寺砦と出ています。あれ、昔は所在不明じゃなかったっけ、勘違いだったのかああ。

    織田信長と石山本願寺の10年にわたる戦争の舞台です。天王寺砦を守っていたのが佐久間と明智光秀。ところが雑賀衆など本願寺勢が天王寺砦を包囲して攻撃をかけ、絶体絶命の窮地に陥ります。

    信長は京都にいて兵も十分ではありませんでしたが、かき集めて3千の兵で本願寺軍1万5千に突撃、明智光秀などを天王寺砦から救援します。この時、信長は敵から撃たれて足を負傷しています。信長が戦で負傷したのは、この一回だけです。よく映画やドラマで描かれるシーンです。窮地を助けてもらったのに明智光秀は本能寺の変で信長を殺しちゃうんですよね。

    そうか、天王寺砦の推定地があったんですね。また行かねば!

いまだに謎が多い古代山城

「古代山城へのいざない(海島社)」を読んでいるんですが、作者はTOTO滋賀工場長(現在は退任)で、趣味からほとんどの古代山城にも登っていてルポがついています。すごい人がいるものですなあ。

白村江の戦いで唐・新羅連合軍に敗れたことから日本への侵攻が怖れられました。

■朝鮮式山城
そこで北部九州~瀬戸内に山城が造られます。大部分は石垣や版築土塁しか残っていませんが、なかには周囲8kmに及ぶものもあります。亡命百済人の指導で朝鮮様式に築かれたので朝鮮式山城とも言われています。広大な城域をどれぐらいの兵で守ったのかなど、よく分かっていません。戦国時代の山城はもっとコンパクトで少ない人数で守れる形になっています。

鬼ノ城
鬼ノ城

岡山の総社市にある鬼ノ城は山の八合目から九合目にかけて、城壁が2.8kmにわたって続いています。鬼ノ城は発掘調査されて復元されていますが、ほとんどの古代山城はよく分かっておらず、記録にありながら今も見つかっていない城もあります。大阪に造られた高安城も記録だけで、よく分かっていませんでしたが1978年(昭和53年)に「高安城を探る会」が山中で礎石建物跡を発見して、これが古代倉庫跡だと分かりました。

大宰府を防衛するために日本にはないと言われていた羅城(都市を取り巻く城壁)があったのではないかとの仮説から前畑遺跡で土塁が見つかったのは2015年(平成27年)と、つい最近です。

吉野・宮滝遺跡

■吉野宮
大海人皇子が妃の鵜野皇女らと隠棲していたのが吉野宮。どこにあったのか長らく不明でしたが昭和になり地元の郷土史家らが宮滝で古い時代の瓦や土器を採取したことから発見されました。吉野川沿いに広場があり、ここが吉野宮(宮滝遺跡)があったところです。

宮滝遺跡
宮滝遺跡

碑と説明版がありますが、吉野神宮からは離れていて、けっこう辺鄙な所で、飛鳥からは峠を越えて吉野川へ出て川を遡らないと到達できません。ここが壬申の乱の出発地になります。里中満智子の「天上の虹」の舞台ですなあ。

■吉野の盟約
天武天皇として即位した後、皇后となった鵜野皇女や草壁皇子らを連れて吉野宮に行幸して行ったのが吉野の盟約。草壁皇子を次期天皇とし、異母兄弟同士互いに助けて相争わないことを誓わせました。皇位継承で争いが多かったので、それを防ぐ目的がありました。

ところが天武天皇と草壁皇子が相次いで没したことから鵜野皇女が即位して持統天皇になります。その後、通算して33回の吉野宮行幸を行っています。後に続く文武天皇・元正天皇・聖武天皇も吉野宮への行幸をしていますので、聖域になっていたようです。

吉野・本善寺 蓮如上人創建

吉野の飯貝にあるのが本善寺です。石垣の上の高台にあり、飯貝御坊とも呼ばれています。どうみても城郭スタイルですね。裏山頂上にある飯山城を詰城として平地の城の風情です。

本善寺
本善寺

■蓮如上人
本善寺を創建したのが蓮如上人で、蓮如は衰退していた本願寺を再興した人物として有名です。畿内・北陸・東海を中心に布教し、越前に吉崎御坊を作り一向宗の一大拠点となります。山科本願寺や石山御坊(後の石山本願寺)を作り、最後は山科で亡くなっています。「朝には紅顔ありて、夕には白骨となれる」という御文でも有名な人物です。蓮如の3代後が顕如で石山本願寺で織田信長と10年以上にわたり戦いました。

本善寺は大和における浄土真宗寺院の中心になっていきます。当時は天文法華の乱など宗教通しでも争っていた時代で、イスラム国やタリバンどころの騒ぎではなかったですね。石山本願寺なんか堅固な城になっていて信長が10年間も攻めあぐねました。

信長と石山本願寺が戦っていた時に筒井順慶が吉野を攻め、本善寺の大半が破壊されます。江戸時代に本殿などが再興されました。