源氏ゆかりの芝ケ森

柴ケ森

弥富を歩いていると柴ケ森という場所がありました。源氏に縁がある場所です。平治元年(1159 年)に平治の乱で平清盛と戦い、敗れた源義朝が逃亡する時に立ち寄った場所です。今は住宅地ですが当時は水運の地でした。舟に積んだ柴の下に隠れて当地に来た義朝は、もう大丈夫だと柴を川辺に下ろします。この柴から芽が出て、森となり柴ケ森と呼ばれるようになりました。今は武家の神である八幡神社になっています。

■源頼朝の助命
平治の乱で勝利した清盛を中心に平氏一門が中央政界を席捲することになります。尾張までたどりついた源義朝は知多郡野間の長田忠致を頼りますが、裏切られて殺されます。平治の乱では13歳の源頼朝も戦っていますが、清盛の継母である池禅尼が頼朝の助命を願い、伊豆へ流されることになします。これが平氏にとっては誤算となりました。

頼朝の母の実家は熱田大宮司家で。上西門院統子(後白河上皇の姉)に奉仕しており、かっては頼朝も奉仕をしていた。池禅尼も上西門院と関係があり、頼朝の母方の縁者から働きかけがあったようです。

足助

足助の町並み

足助は山の中の街ですが、古代から街道が集まる交通の要衝です。信濃と結ぶ伊那街道、美濃と結ぶ美濃街道、尾張国への伊保街道、岡崎に向かう足助街道が通っています。ですので足助城は境目の城として今川、武田、松平(徳川)が争うことになります。江戸時代は足助陣屋がおかれました。跡地には何もありませんが徳川四天王で有名な本多忠勝の子孫である本多家が領していました。

足助川下流域両岸に発達した河岸段丘上に商店街が整備され、足助の町並みは国の重要伝統的建造物群保存地区になっています。愛知ではほかに有松が、三重では関宿が指定されています。バスで田舎道をずっと走っていくと急に伝統的な街並みが登場します。香嵐渓という紅葉の名所があるようですが、足助城以外に用事はないので街並みをざっと見てバスで豊田に帰ってきました。

旭光

旭光

深溝城の復元模型などを見に行った幸田町郷土資料館ですが、屋外にいろいろと面白いものが展示されていました。その一つが旭光という戦闘機。リンゴの品種みたいな名前ですねえ。

F-86セイバーという機種でジェット戦闘機の第一世代になります。昔、プラモデルで作りました。アメリカ製ですが日本やイタリアでも生産されたそうで、派生型も含めて1万機ほどが造られたそうです。航空自衛隊での愛称が旭光(きょっこう)だそうです。

ちょうど「小牧・長久手合戦 秀吉と家康、天下分け目の真相」 (角川新書 平山優著)を読んでいて「家忠日記」の記載がたくさん出てきます。家忠は深溝松平氏で本拠地が深溝城。幸田町郷土資料館へ行くのは歴史好きだけですが、行くと戦闘機やヘリなどが屋外展示されていて目が点になります。こちらを目的に行くマニアもいるそうです。

中央構造線(長篠露頭)

中央構造線(長篠露頭)

昔、地理で習ったのが中央構造線とフォッサマグナ。フォッサマグナは日本中央部を南北に横断する溝で、西には糸魚川-静岡構造線があります。中央構造線は日本列島を東西に約1,000km走る断層で衛星写真をみると四国の真ん中を通る山脈がそのまま紀伊半島につながっているのが分かります。これが関東までつながっていますが長篠城ちかくに露頭しているところがありました。

行ってみたら豊川の川沿いの崖でした。(笑)黒い地層と白い地層できれいに分かれていました。

岩瀬文庫

真田丸

愛知県西尾市にあるのが岩瀬文庫。西尾市は岡崎の近くにあります。

この西尾出身の実業家・岩瀬弥助が創設した私立図書館が岩瀬文庫です。このほど所蔵する絵図や地図をネット上で閲覧できるデータベースの運用を始めました。無料でしかも事前登録などもいらず、そのまま見ることができます。全国の古地図もあり、大阪のを見ていると大坂の陣の絵図も出てきました。

→ 岩瀬文庫

大坂城の配置を見ていると真田左衛門とあり、これが真田丸ですね。真田丸の正面には加賀の前田利常が陣をはり、井伊掃部は彦根の井伊直孝ですね。伏見城や聚楽第の絵図もあり、なかなか楽しめます。

覚王山 日泰寺

日泰寺
名古屋市市営地下鉄・覚王山駅の由来は日泰寺の山号からきています。覚王とは御釈迦さんをあらわします。
■御釈迦さんの本物の遺骨
寺院の塔は舎利をおさめるためのもので、薬師寺の東塔(国宝)の解体修理では江戸時代の舎利容器が見つかりました。本物の御釈迦さんの遺骨は無理なので、それに代わるものが納められていますが、日本で唯一、本物の御釈迦さんの遺骨があるのが日泰寺。
そもそもは明治になりイギリス人によって御釈迦さんの遺骨が入った舎利容器がインドで発掘されたことに起因します。古代文字を解読すると舎利容器が御釈迦さんのものと判明。この舎利が仏教国であるシャム国(現在のタイ)に、送られます。
一部が同じ仏教国であるセイロン、ビルマに分与されました。この話を聞いた日本からも申し出があり、遺骨が分与されて納められたのが日泰寺です。明治の終わり頃の話です。
■日泰寺境内から少し行ったところに安置
日泰寺は日本と泰(タイ)ということで命名されています。日本で唯一、いずれの宗派にも属さない寺院になっています。
日泰寺境内に塔がありますが、御釈迦さんの舎利はここではなく、少し行った、奉安塔にあります。境内にあるものばかりと思っていたので、先日、専門家派遣のついでに奉安塔へお参りに行ってきました。写真の奥にあります。

波寄神社(金山・名古屋)

波寄神社
金山にある名古屋ソフトウェアセンターで会議。
名古屋ソフトウェアセンターは金山駅からけっこう遠く歩いて15分ほどかかります。いつもは「札幌かに本家」の横を通っていくのですが、JR中央線沿いに歩いたほうが少し早くなることを発見。
さっそく中央線沿いに歩くと、金山駅から坂を下ったところの住宅街に波寄神社という小さな神社がありました。地図を見ると一帯は波寄(なみよせ)町という名前。他にも流町交差点というのがあるので、昔は海がこのあたりまで寄せていたのでしょうね。
金山駅は熱田台地の上にありますが、波寄神社はそこから坂を下ったところでしたので昔の海岸線だったのでしょう。熱田神宮から鳴海城へ行く途中ですので、桶狭間へ向かう織田信長もこのあたりの海岸線を通ったのかもしれません。

名古屋駅名物 キシメン酒場

多治見ギンザ商店街
今日は岐阜県・多治見市の企業相談。
日本一暑い町で有名な多治見ですが、今日は風が冷たかったですね。雪をかぶった御嶽山もよく見えました。岐阜県ですが名古屋駅から中央線の快速で行くのが一番、速いのでいったん名古屋駅に出てから多治見へ向かいました。
相談が終わってから名古屋駅へ戻ります。予約していた新幹線まで時間があったので、そのまま名古屋駅ホームにある立ち食いのキシメン屋さんへ。キシメンを食べられますが飲み屋さんにもなっていて電車を待つ間に一杯飲めます。
本醸造酒の熱燗を頼んだら、瓶をキシメンをゆがく湯きりに放り込みます。それはよいのですが、おばちゃん他の注文を聞いているうちに忘れてしまったようで、「お酒まだ?」と聞くと、「ありゃ、忘れていた!」とメチャクチャ熱い熱燗になっていて、やり直し。今度は、バイトの子に「お酒を湯きりに入れたの覚えといて」と頼んでいました。そうそうクロスチェックが大切です。
写真は多治見のギンザ商店街です。

館長 庵野秀明 特撮博物館

特撮博物館
水曜日、デザインセンターでのセミナー前に近くにある名古屋市科学館へ寄ってきました。目的は、「館長 庵野秀明 特撮博物館 ミニチュアで見る昭和平成の技」の特別展。大阪で開催する予定は決まっていないそうです。
平日なので、すいていました。科学館なので通常は家族連れが中心なんですが、特別展に来ているお客さんはオッサンが中心。人のことは言えませんが(笑)
「巨神兵東京に現わる」とメィキングの2本を上映していましたが、メイキングが面白かったですね。おっさん連中の技術者が集まり、楽しそうにワイワイとCGを使わずに、いかに特撮で見せるかをやっていましたが、ほんまに楽しそうです。
科学特捜隊のジェットビートルなどが展示されていましたが、懐かしかったのがマイティジャック。「海底大戦争 緯度0大作戦」のポスターなども懐かしいですね。
会場の最後には怪獣に壊された東京タワーなどがありましたが、中京テレビも主催者の一人なので「チュウキョ~くん」が家に隠れていた、りビルの上に番組表があったりして楽しめます。

弥生時代の城跡 見晴台遺跡

見晴台遺跡
名古屋の笠寺観音のすぐ近くにあるのが見晴台遺跡。
笠寺台地の東端にあり、周囲に比べ標高が15メートルほどある丘の上で、名前の通り見晴らしがよいところです。周りは住宅街になっていますが古代は海でした。縄文時代から人が住み始めましたが、弥生時代には集落が誕生します。東西約120メートル、南北約200メートルの周りを幅・深さとも約4メートルの堀(環濠)で丸く囲んでいました。魏志倭人伝に書かれた倭国大乱の頃でしょう。
堀跡が一部復元されていましたが、底がV字形の尖った形で、戦国時代の薬研堀にそっくり。堀の深さが4メートルもあって、しかも土塁までありました。かなり防御力が高い環濠集落です。発掘によれば集落は200年ほど続いたあと環濠が埋められており、名古屋市周辺の複数の環濠集落でも同様の動きがあるので、統一政権みたいなものが誕生したのかもしれません。
古代の名古屋といえば尾張氏が勢力を持ち、一族の一つが大海氏で大海氏が養育したのが大海人皇子。壬申の乱で勝利できたのは尾張氏のおかげでした。弥生時代に誕生した統一政権が尾張氏や尾張物部氏になったのかもしれません。
ただ不思議なのは桶狭間の合戦の舞台となった鳴海城に近く、見晴台も城をつくるには好立地だったはずですが、なぜか戦国時代の城は作られませんでした。太平洋戦争時代は立地に目をつけて高射砲陣地が作られ、今も土台が残っています。見晴台遺跡には見晴台考古資料館もあり、おすすめです!