和邇駅

近江の渡来人といえば和邇氏がいます。強風でよく止まる湖西線に和邇(わに)駅があります。大津市の北側です。

和邇駅
和邇駅

古代、和邇氏の拠点でした。和邇氏は渡来人といわれ奈良の東北部を基盤にしていました。現在も天理市に和爾町という地名が残っています。和邇氏は6世紀頃に春日氏、小野氏、粟田氏、柿本氏、大宅氏、櫟井氏に分かれます。和邇氏は琵琶湖の物流をおさえていたため湖西線には和邇駅の隣に小野駅が残っています。小野といえば遣隋使で有名な小野妹子は小野駅周辺を地盤とした豪族でした。

春日神社の地は本来、春日氏の氏神だった榎本神社があったのですが藤原氏に乗っ取られてしまい春日神社の摂社になってしまいました。

穴太野添古墳群

穴太野添古墳群
穴太野添古墳群

壺笠山城へ行くには穴太野添古墳群の横を通っていきます。穴太野添古墳群は琵琶湖を見下ろす高台にあり眺めは抜群。このあたりに180基以上あります。古墳からはドーム状の天井をもつ形態の石室やミニチュア炊飯具(カマド・カマ・コシキ・ナベ)の副葬品などが見つかっており渡来人の墓といわれています。

■日本への亡命者が多かった
渡来人の来訪で多かったのが白村江の戦いの後。百済から多くの渡来人が亡命してきました。日本書紀に「鬼室集斯ら男女7百余人を近江国蒲生郡に遷居」とあり、蒲生に渡来人の一団がいました。鬼室集斯は白村江の戦いで活躍した百済の将軍、鬼室福信の子で,近江朝廷では学識頭になっています。東京の狛江市なども高麗からの渡来人が集団移転したのがきっかけです。南宋が滅んだ時も亡命者がたくさんいました

■渡辺党
天満近くの大川近辺に住んでいたのが新羅系渡来人のツゲ氏で、このツゲ氏が平安時代後期に「渡辺」と名前を変え、摂津の武士団である「渡辺党」となります。茨木童子で有名な渡辺綱も渡辺党です。豊臣秀吉が大坂築城に当たり替地を命ぜられ大川から移転。この時に氏神だった坐摩(いかすり)神社も移転しました。

茨木童子

かって日本には鬼がいました。と言っても竈門炭治郎じゃないですよ。

茨木童子
茨木童子

鬼といっても「カミ」ともよむので、もともとは山神のようなイメージだったのでしょう。鬼退治といえば大江山が有名です。酒呑童子という鬼が大江山にいて悪さをすることから勅命が下り、源頼光が坂田金時(金太郎のモデル)、渡辺綱らを引き連れて鬼退治する物語です。

酒呑童子には家来がいて、その一人が茨木童子。茨木出身ともいわれ源頼光の鬼退治でも生き延びました。

京都の異界スポットに一条戻橋があり、安倍晴明が橋の下に式神を潜ませていたとして有名な橋です。この橋に大江山の鬼退治の参加メンバーである渡辺綱が通りかかると若い美女が道に困っていました。そこで馬に乗せてやると、女は突然、鬼の姿になって、空中に飛び上がり渡辺綱を愛宕山に連れ去ろうとしましたた。刀で鬼の腕を切って難を逃れます。

米原湊

JR米原駅は琵琶湖からかなり離れた位置にありますが、駅にあるのが米原湊の碑。”なんでこんな内陸部に港が”と思いますが昭和初期まで米原駅西側には入江内湖が拡がっていました。昭和19年から昭和25年にかけて干拓が行われ今のような田園地域になりました。

米原湊
米原湊

古代から戦国時代にかけては朝妻湊が使われていました。入江内湖の北側にあり琵琶湖に面しています。船運が現在の高速道路のようなものでしたから北陸方面からの物資は塩津、海津、今津から坂本、大津へと運ばれ尾張や美濃からの荷物は米原にある朝妻湊が使われました。木曽義仲の出陣でも秀吉が京の大仏殿建立のための木材運搬に使われています。

しかし江戸時代に入り彦根藩主となった井伊氏が米原湊を御用港として保護し、湖上交通が制限され朝妻湊は衰退していきます。

田中のまるまた

皆さんも同じだと思いますがJR東海道線に乗ると沿線にある山崎城跡、勝竜寺城、松永久秀屋敷跡などが気になり、ずっと車窓を見ることになります。そして茨木駅を過ぎると東側に見えてくるのが緑地帯で、ここに茨木城がありました。そう戦国時代、中川清秀が城主だったお城です。賤ヶ岳の戦いで討死してしまいました。

田中のまるまた
田中のまるまた

この緑地帯の所でJRが高架になっていて、ここにあるのが「田中のまるまた」です。日本で最も古い高架の一つでしょう。できたのは東海道線が開通した1876年(明治9年)で、現在も生活道路として使われています。

先日、茨木で仕事があったので足をのばして行ってきました。自転車や歩行者用通路ですが、見た通りにかなり年季が入ったトンネルです。土台になる部分には、高槻城・石垣が使われているそうです。

草津駅内に東山駅がある

JR東海道本線の草津駅内に東山駅という別の駅があるのをご存知ですか。

東山駅
東山駅

草津駅の北側(琵琶湖方面)に構内訓練線があります。東山駅と少し離れた所に三上駅があります。東山駅は京都の東山からの命名でしょう。三上駅は近江富士と呼ばれる三上山からのようです。

訓練線には踏切もあり、電車のシミュレーションを実際の線路で行うためのものです。線路上には足で漕ぐレールバイクが何台かあり、運がよいと草津駅の発車待ち時間に訓練風景に出くわすことがあります。

脆弱性を見つけて賞金稼ぎ

賞金稼ぎという職業があることをご存知ですか。

バグと違ってプログラムに脆弱性がひそんでいてもプログラム自身はちゃんと動いていますので、脆弱性があることが分かりません。

そこで作られたのが「脆弱性報奨金制度(バグバウンティプログラム)」です。脆弱性を見つけると報奨金が得られる、まさに賞金稼ぎです。All About「企業のIT活用」最新ガイド記事です。

→ 脆弱性を見つけて賞金稼ぎ

吉野口駅

巨勢寺跡は吉野口駅北側にありJRと近鉄が分岐する、ちょうど間にあります。田舎なので特に柵もない線路だけの場所です。

吉野口駅
吉野口駅

近鉄・吉野線は1時間に2本ありますがJR和歌山線は1時間に1本です。吉野口駅は近鉄、JRの共用駅で、それぞれホームを行き来するだけで乗り換えできるようになっていて、近鉄は飛鳥から橿原神宮へ向かい、JRは西にそれて御所から大和高田へ向かいます。

近鉄、JRともにほぼ同時に吉野口駅を出発しますので、巨勢寺跡にいると両側を通りすぎる近鉄とJRを同時に堪能できます。

巨勢寺跡

近鉄・JR吉野口駅から少し歩いた丘にあるのが巨勢寺跡。

巨勢寺跡
巨勢寺跡

飛鳥、御所、五條、吉野へそれぞれアクセスできる便利よい場所にあります。巨勢寺の創建は聖徳太子と言われ、飛鳥時代の瓦が出土しています。

巨勢氏の氏寺だったようで巨勢氏は武内宿禰の次男が祖で蘇我氏と関係があったのでしょう。蘇我馬子が物部守屋を滅ぼした時には巨勢氏は蘇我連合軍に加わっていました。巨勢氏は朝鮮半島との外交・軍事に従事していました。

巨勢寺跡近くに檜隅と呼ばれる地域があり、ここは東漢氏の本拠でオンドル跡が見つかっており、渡来系氏族が多く住んでいました。国際都市だったようです。

環濠集落 今井町

八木西口駅から少し南に行ったところに今井町があります。堀に囲まれた環濠集落で、称念寺を中心に作られた寺内町です。

今井町
今井町

戦国時代は町中で武装し、石山本願寺とともに織田信長と敵対していましたが、石山本願寺が信長と和議を結んだことから明智光秀と懇意だった堺の津田宗及の取り成しで信長と和議を結びます。信長も堺と同様に栄えていた今井を発展させた方が経済的においしいと考え武装解除を条件に和議が認めらます。信長自身が今井環濠に来たようで本陣跡が残っています。今井は堺と同様に自治権が認められ江戸時代を通じて発展していきます。

環濠集落を構成していた堀はだいぶ失われてしまいましたが、町の通りなどが微妙に曲がっていて堀跡が分かります。また堀跡や土塁の一部が南西角に残っています。観光客のお目当ては町屋巡りで、堀跡をひたすら歩いている酔狂な人間はおりませんなあ。