枇杷庄城

枇杷庄城
枇杷庄城

枇杷庄城は近鉄富野荘駅の南西にあり外野城から徒歩20分ぐらいです。

枇杷庄城は枇杷庄天満宮あたりにありましたが、遺構は残っていません。木津川のすぐそばで、物流拠点でした。周辺には「大堀」という名前の地名が残っています。畠山の跡目争いでは枇杷庄城にいた斎藤彦次郎が畠山政長方に寝返り、畠山義就方の外野城を攻撃して落城させます。

■足利義昭ゆかりの枇杷庄城
時代がすすみ織田信長と対立した足利義昭は信玄の上洛にあわせ宇治にある槙島城で挙兵しますが信長に攻められ落城します。兼見卿記によると義昭は嫡男を人質として信長に差し出し、枇杷庄に退くとあるので、入ったのが、この枇杷庄城だったようです。

信長の命で秀吉が枇杷庄城から河内の若江城に足利義昭を送り届けます。大河ドラマ「麒麟がくる」では、駒が戦に敗れた義昭のもとを訪ねるシーンが出てきますが、場所としては枇杷庄城だったのでしょう。

外野(との)城

堀口
堀口

近鉄富野荘駅の東側にある西富野公会堂あたり一帯にあったお城ですが住宅地になって何も残っていません。ただ堀口、北垣内、南垣内、西垣内、乾垣内という地名が残っています。垣内(かいと)は区画という意味ですが城郭跡の地名としてもよく使われています。

■畠山家の御家争い
このあたりは応仁の乱の舞台で、守護大名である畠山氏の跡目争いの場所でした。事の発端は畠山持国に嫡子がおらず後継者を決める必要があったこと。畠山義就の母親の身分が低いため畠山持富を後継者にしました。ところが畠山持国の気が変わり畠山義就を後継者にすることになります。1450年、義就が後継者となり、持富は異議をとなえませんでしたが2年後に亡くなってしまいます。持富の子である畠山政長が義就に対する不満分子に持ち上げられ、結局はお家騒動に。これが応仁の乱の一因になります。

■落城
河内や大和を舞台に激突しましたが京都の南にある城陽市でも両者は激突します。1485年、外野城は畠山義就方で、伊賀国人衆が守備していましたが、すぐ近くの枇杷庄城の斎藤彦次郎が畠山政長方に寝返り、外野城と寺田城を攻撃して落城させます。

森山遺跡

JR長池駅から住宅街の階段を登って高台に出ると公園があります。ここが縄文時代、弥生時代、古墳時代へと続く森山遺跡です。宅地造成で見つかった遺跡です。木津川を臨む高台ですので物流の拠点でした。竪穴住居などの集落跡が見つかっていますが、面白いのが古墳時代の初頭です。

森山遺跡
森山遺跡

東西40メートル、南北32メートルの方形台状に盛土し、その周囲に幅4メートル、深さ1.5メートルの溝を巡らした遺構が見つかりました。この土地を支配した首長の居館跡のようですが、堀を巡らした郭でまさに城郭の初期の形になっています。

辛来飯

世間一般的には盆休みというのがあるそうですが縁なき衆生でございます。そういえばボーナスなる魅力的な言葉があるようですが、ここ20年ほどお目にかかったことがございません。というわけで雨の中、大阪産業創造館にある大阪府よろず支援拠点に出ております。地下鉄はすいていました。

辛来飯
辛来飯

ランチに出かけるとオフィス街ということもあり緊急事態制限とは関係なく飲食店も盆休みが多いですね。お店が開いていた辛来飯(カーライス)へ。チキンカレー+ウインナー2本です。ここのチキンはチューリップになっています。明日も店をやるそうで、おばちゃんが「おたく明日休み?」とお客さんに聞きまくっていました。

安満遺跡

以前、JRや阪急で高槻駅を出てすぐのところに見えていたのが京大農場の広い緑でした。ところが工事がはじまり、「あ~あ、せっかくの緑が住宅地にでもなるのかな」と思ったら遺跡公園になっていました。

安満遺跡
安満遺跡

安満(あま)遺跡で昭和の初めに京大農場を作る時、遺跡があることが判明しました。安満遺跡は弥生時代の大環濠集落跡で何重もの堀と土塁で囲まれていました。つまり初期の城です(笑)。約2,500年前から800年間にわたって栄え、居住域の東西に方形周溝墓群からなる墓域があり東群では100基以上の方形周溝墓がありました。水田跡と一緒に、スキやクワといった木製品、石包丁などの農耕具もたくさん出土しています。

公園としてきれいに整備されレストランやスターバックスなどもあり高槻市民の憩いの場になっています。

古代の市役所 嶋上郡衙

今城塚古墳近くにあるのが嶋上郡衙です。ここに儀式の場・庁院や税を納める正倉などが整えられていました。住宅街の小道沿いに案内板はありますが、こんな何もない広場を撮影している人は他におりませんねえ。

嶋上郡衙
嶋上郡衙

郡衙(ぐんが)とは古代の役所のことで律令制度時代に郡の官人(郡司)が政務を執った所です。この辺りは高槻市郡家新町となりますが郡家という地名が残っているのは、郡衙があった場所に多いです。

今でいうと県庁のような国府があり、こちらには国司がいましたが、郡司は在地の有力豪族が勤めて戸籍や徴税を担当していたので今でいう市役所&税務署みたいなものですかね。701年の大宝令によって郡ができましたので、これ以降の行政機関です。

埴輪工場

今城塚古墳の墳丘には膨大な埴輪が並べられていましたが、埴輪を作っていた工房が発見されています。

埴輪工場
埴輪工場

工房は今城塚古墳近くの高台にあり、3棟の大形埴輪工房と周りに18基の埴輪窯が発見され一部が復元されています。窯はなんと登窯になっています。工房で埴輪を成型し、周りの18基の登窯で焼いていました。こうなると分業体制による工場生産ですね。働いていた工人の集落もすぐ近くにあり、職住一致です。帰り道に一杯やる楽しみがないのはいやだなあ。

集落から東海地方の土器が出土していますから、工人のなかには東海地方から来た実習生がいたのかもしれません。また新羅土器も出土しており、日本書紀に新羅人の子孫が住むという「摂津国三島郡埴廬(はにいほ)」という土地名が出てくるので、この場所だと言われています。

最初は太田茶臼山古墳用の埴輪を焼いていたようで、530年頃に規模を拡大して今城塚古墳の埴輪を大量に造っていました。他にも土保山古墳や昼神車塚古墳などの三島の有力者の墓用の埴輪をせっせと作っていました。

8月6日はWWW記念日

1991年8月6日、WWWが発表されたことから8月6日は「ワールド・ワイド・ウェブの日」になっています。

イギリスからセルンに来ていたティム・バーナーズ・リー博士が1990年に研究プロジェクトを立ち上げ、作り上げたのがワールド・ワイド・ウェブです。各研究者のコンピュータに保存されている論文や情報を、相互にリンクさせる仕組みです。コンピュータの機種に関係なく相互に情報交換でき、追加や削除しても大丈夫。つまりハイパーテキスト(WWW)の誕生で、1990年に世界最初のホームページが誕生します。

ティム・バーナーズ・リー博士はハイパーテキスト(WWW)をインターネット上に発表し、世界中に拡がっていきます。WWWはWorld Wide Web(世界中に広がる蜘蛛の巣)の略ですが、名の通り世界中にまたたく間に拡がりました。

特許もとらず使用料も徴収せず、誰もが無償で使える形でワールド・ワイド・ウェブがネットニュースで公開されましたが、テキスト情報しか扱えませんでした。公開されたワールド・ワイド・ウェブに興奮したのがイリノイ大学の学生だったマーク・アンドリーセン。マーク・アンドリーセンを中心に文字だけでなく画像や音声を扱えるブラウザー・モザイクを開発。これまた無料で公開したため、全世界にモザイクが普及します。ティム・バーナーズ・リー博士はこの功績により、エリザベス女王からナイトの称号を授与されています。