高屋神社

東高野街道をゆく

水盛城跡から東高野街道を北上すると高屋という地域に出ます。街道沿いにあるのが高屋神社で式内社(延喜式神名帳に名前が出ており古くからある神社)です。祭神は安閑天皇で安閑天皇陵がすぐ近くにあります。もう一人の祭神が饒速日命(にぎはやひのみこと)で、物部氏の祖神ですねえ。あとから安閑天皇を祭るようになったのでしょう。

高屋は物部氏の系譜である高屋連の本貫地になっています。河内国は物部氏の本拠でしたので、饒速日命を祭る神社が点在しています。面白いことに東高野街道が石川沿いを流れていて蘇我氏の一族である石川氏の本貫でもあります。乙巳の変の後、蘇我倉山田石川麻呂が台頭しましたが、中大兄皇子に攻められて山田寺で自害しました。

高屋神社は明治になってから白鳥神社に合祀されました。朝の連続テレビ小説「らんまん」でも問題になっていた合祀です。昭和になってから旧社地に復興されました。

枚岡祭り

枚岡祭

14日、15日は枚岡神社の秋郷祭で今年は土日にうまくあたりました。いつも見ている枚岡駅横の踏切へ近鉄電車の合間をぬって太鼓台を次々に通していきます。枚岡神社は高台にあり、東高野街道と交わる一の鳥居からずっと坂になっていて踏切前に太鼓台をあげるのがまず大変です。踏切を超えると最後の急坂が待っています。その後は枚岡神社の境内に入っていきます。

秋郷祭は14日、15日と日程固定でしたが土日の曜日固定に変わる話が出ているそうです。理由は担ぎ手不足で、地元の企業よりも大阪へ通うビジネスマンが中心になったためだそうです。ウチの子供たちは太鼓をたたくからと小学校を自主休校し、先生も黙認しておましたが時代は変わったようです。

野崎参り

野崎観音

上方落語「野崎参り」の舞台といえば野崎観音。飯森山城の麓にあります。東高野街道から急坂をあがった上にあり、山門から大阪平野を眺めることができます。野崎観音の本尊は十一面観音で、別名が居眠り観音。なんでも寝たがりの人には観音様がまとめて寝てくれるという、ご利益があるそうです。その分は働けということでしょうか、なんとパワハラな(笑)。実際は観音さんの集まりに本尊が居眠りして遅刻したそうで、そらあきまへんがな。

江戸時代、大和川の付け替え前は深野池という大きな池があり、天満橋の八軒家浜から屋形船で参詣することができました。落語の「野崎参り」は屋形船で大坂から参詣する2人と堤防を歩いて参詣する人との喧嘩を描いています。野崎参りには「振売喧嘩」という風習があったそうで、手を出さず、口だけで喧嘩するそうです。

船に乗った者と土手を歩く者で口喧嘩して、喧嘩に勝てば、その年の運がエエそうで、運定めの喧嘩だそうです。船が着いて、土手に上がったら、仲直りしもって、踊りながらどっかで酒を飲むという風習です。そう、うまくいくんですかいなあ。

大仙古墳

三国ヶ丘駅

三国ヶ丘駅近くでお仕事。三国ヶ丘というのは、和泉、河内、摂津の国境にある丘のことを言います。まとめて呼ぶと摂河泉(せっかそん)になります。

三国ヶ丘駅はJRと南海の2つがあって便利がよい所です。駅のすぐ近くにあるのが大仙古墳です。昔は仁徳天皇陵と日本史で習いましたが、どうも履中天皇陵ではないかという説があります。古墳ですが、見ても単なる巨大な森ですねえ。まあ広大な古墳で、横をJRが平行に走っていて三国ヶ丘駅から百舌鳥(もず)駅まで一駅分あります。当時は海の近くで巨大古墳が海岸線に沿って3つありましたから、住吉津に向かう外国使節などには、すごいモニュメントに見えました。

しじみ川

しじみ川
  • 北新地に「しじみ川旧跡」という碑が建っているので、関西人なら昔、北新地に川が流れていたことを、よくご存じでしょう。大阪の古い地図をみると堂島川から分かれ北新地を流れていた「しじみ(蜆)川」が記載されていました。
  • 「しじみ川」の北には大坂停車場があります。曽根崎も村だったんですね。川が流れていたので現在も桜橋などの地名が残っています。当時は水運が基本でしたので大坂停車場の前まで蜆川から梅田入堀が開削されました。梅田入堀は堂島川までつながっていて「しじみ川」と交差していました。ここが、出入橋です。「しじみ川」は1909年(明治42年)の北の大火後、瓦礫の捨て場となって一部が埋立てられ大正時代には完全に埋立てられました。

司馬遼太郎 生誕100年

東大阪市政だよりの表紙が司馬遼太郎でした。

東大阪市政だより 司馬遼太郎

東大阪市の広報紙で、今年は司馬遼太郎生誕100年(大正12年生まれ)なんですね。司馬遼太郎記念館の上村洋行館長のインタビュー記事が載っていました。館長は、みどり夫人の弟で当時は小学六年生で、よく司馬遼太郎が実家に遊びにきていたそうです。

司馬遼太郎が、みどり夫人と結婚したのが1959年で下小阪に引越してきたのが1964年です。当時は布施市でした。3年後の1967年に布施・河内・枚岡の3市が合併して東大阪市となります。当時の家が現在の司馬遼太郎記念館になっています。

司馬遼太郎は東大阪市の名誉市民になっていますが、住んでいた河内小阪といえば東大阪の西のはずれで、ちょっと行ったら大阪市生野区です。東大阪商工会議所も西のはずれの河内永和にあるし、東大阪市役所も荒本という、これまた西のはずれにあって東の枚岡は無視されていますね(笑)。それだけ布施市が中心だったということでしょう。

反正天皇陵

反正天皇陵

方違神社のすぐ隣にあるのが反正天皇陵(田出井山古墳)です。反正天皇は「倭の五王」のうち珍に比定され、実在した天皇と考えられています。きれいな歯並びだったそうで瑞歯別皇子(みつはわけのみこ)という名前が日本書紀に記録されています。

日本書紀では仁徳天皇陵、反正天皇陵、履中天皇陵の順に墓を造ったとあり、近年の研究では上石津ミサンザイ古墳、仁徳天皇陵、田出井山古墳の順に造られたようので、それでいけば現在の仁徳天皇陵(大仙古墳)が反正天皇陵という確率が高くなります。となると方違神社の隣にあるのは履中天皇陵かも。

方違神社

堺で仕事だったので方違(ほうちがい)神社へ寄ってきました。

方違神社

昔、方違え(かたたがえ)という風習がありました。仕事先から東の方向にある自宅へ帰ろうとしたら、東の方角に方違えの対象となる神様がいると、真っ直に家へ帰ると差しさわりがあります。そこで、いったん他の方角にある知人宅などで一夜を明かして翌朝家に帰ると、東への移動を避けられます。家に帰らず、飲みに行く時の言い訳じゃないのかとも思いますが(笑)昔はけっこう信じていたようです。来年の大河ドラマ「光る君へ」は紫式部の物語のようですが、源氏物語の「帚木」に光源氏が方違えするシーンが出てきます。

堺にある方違神社は「どの方角にも属さない」神社で方角の厄を取り除くそうです。ですので、家の普請、転宅、旅行等には最適です。このあたりは摂津、河内、和泉の境界で、どこの国にも属さない方位の無い清地であると言われたことが発端のようです。ですので堺や三国ヶ丘の地名が今も残っています。

太子堂

太子堂

八尾での仕事の帰りに太子堂へ寄ってきました。ここは物部守屋が滅んだ地で、住宅街にポツンと大聖勝軍寺があります。

587年に丁未の乱が起きます。日本史では崇仏派の蘇我馬子と排仏派の物部守屋の戦いと習いましたが、実際は物部氏の勢力地には阿刀(あと)氏や鞍作氏など崇仏派もいて、しかも渋川廃寺まで作っていたので本当は王位継承をめぐる争いだったようです。ただし渋川廃寺は丁未の乱の後に建立されたという説もあります。

初戦は餌香川(えがのがわ、今の石川)と旧大和川の合流地点でした。近鉄・安堂駅の近くですね。蘇我軍が物部軍の先遣隊を破り、聖徳太子は高井田横穴墓群がある高井田から指揮していたといわれています。戦場は河内国渋川で大聖勝軍寺には守屋塚などがあり、寺の南にある光蓮寺が守屋軍の砦といわれています。ただ守屋が討たれたのは衣摺(きずり)で、もう少し北にあり光泉寺には守屋の稲城跡の碑が建っています。大聖勝軍寺とは4.5kmも離れていますので広範囲な戦場だったようです。

仏教を信仰した聖徳太子にとって物部守屋を滅ぼしたのは、かなり打撃だったようで、各地に鎮魂のためのお寺を作っています。四天王寺は元は玉造にあったそうで、一帯が物部守屋の土地で邸宅跡に作られたそうです。玉造のすぐ横の「森ノ宮」は「守屋の宮」が変わったのではという説もあります。信濃も物部氏が支配する土地で、善光寺には守屋柱があり、ここも鎮魂の寺になっています。

異界彷徨

異界彷徨

大阪歴史博物館で開催されている特別企画展「異界彷徨 ―怪異・祈り・生と死―」へ。常設展のチケット(大人600円)で見ることができます。河童や天狗など盛りだくさん内容でしたが、目的は百鬼夜行図です。

京の大路を夜な夜な練り歩く化け物を書いた絵巻です。日本では付喪神(つくもがみ)と呼び、長い年月を経た道具に精霊が宿ると考えますので、絵巻には琴など様々な道具の化け物が描かれています。

面白かったのが蕪村妖怪絵巻で、与謝蕪村が妖怪絵巻を書いていたんですね。手拭をかぶって踊るマタネコや「のっぺらぼう」など、なかなかユーモラスですね。6月26日(月)まで開催されています。