岐阜バス

岐阜駅前に赤く小さなバスがとまっていました。なんと無人バスで2023年11月から2028年まで5年間、運行するそうです。平日は10~16時まで運行していて毎時0分、30分に岐阜駅を出発しています。岐阜城の麓にある歴史博物館前にも停車するので観光客にも便利ですね。ただ土日は本数が減るそうです。

定員は10名で原則、予約制です。あとで案内を見たら空席がある場合は、予約なしでも乗車できるそうで、今度行く機会があれば乗ってみようっと。岐阜は駅前のバスが充実していて、ひっきりなしに来るので、わざわざ時間を予約して乗る人は限られるでしょう。また市内を走っているところを見ましたがチンタラ走っていました。急ぐ人には不向きですねえ。

さて岐阜バスですがICカードが使えると思って、読み取り機にかざしたら「ブー!」。岐阜バスが発行しているICカードしか使えないそうです。JRといい岐阜へ行くのはけっこう大変です。

2024年3月2日より、岐阜バスでも全国の交通系ICカードが利用可能になるそうです。

堂島グランドビルにマクドナルド

堂島グランドビル

リンクスウメダへ向かう前に、懐かしい堂島グランドビル前を通るとマクドナルドができていました。以前はみずほ銀行だったところです。

大学卒業後に入社したのがSRA関西支社で、堂島グランドビルと信号を渡った古河ビルにオフィスがありました。当時は上新庄に住んでいたので阪急梅田駅が最寄り駅でしたが梅田地下ダンジョンを通って雨に濡れずにオフィスまでいけました。

1980年代の堂島グランドビル1階には第一勧業銀行が入っていて便利でした。その後、みずほ銀行になって今度はマクドナルドです。小さな書店もあり、堂島はNTTや富士通などIT系企業が多かったので情報系の本が充実しており雑誌「Bit」と「UNIX Magazine」をよく買っていました。

堂島グランドビル地下1階にあったのが紅茶の名店「ムジカ」です。堂島地下街には民宿センター(?)でしたっけ、全国の民宿予約ができるお店があって便利でした。まだインターネットもない時代で民宿やホテルは電話予約が当たり前の時代です(笑)。その近くにはドムドムバーガーがあったなあ。今は昔の話です。

朝ドラ「ブギウギ」 油日神社

油日神社

NHK連続テレビ小説「ブギウギ」をずっと見ているのですが、いよいよ終戦の年である1945年が舞台でした。富山に慰問に来ているスズ子が歌った場所が神社の境内です。古びた神社で「鎮護」という扁額がかかっています。

どっかで見たことある神社だなと思ったら、次に楼門と回廊が映って、ピンポン!甲賀にある油日神社でした。室町時代の楼門、回廊、拝殿、本殿は重要文化財になっていて甲賀忍者の談合(話し合い)が行われた神社として有名です。

ロケ地としても、よく使われていて「るろうに剣心」、「わろてんか」などに登場しています。ですがNHKの大阪放送局からは遠い、山深いところにあり、片道2時間ぐらいかかりますねえ。

初詣2024

枚岡神社

河内一之宮の枚岡神社へ。昼ぐらいに行くと混雑していますが、朝はさすがにすいていますね。

河内は物部氏の土地で物部系の神様が多いのですが、なぜか枚岡神社は中臣氏の神様です。歴史はめちゃくちゃ古く、奈良の春日大社は枚岡神社の天児屋根命と比売神を勧請したので元春日とも呼ばれています。

枚岡神社は、ふだんはすいていて集客力はいまひとつ。近くにある物部の神様である石切神社はお百度参りなどで、いつも賑わっています。

稲田騒動(淡路島が兵庫県になったわけ)

御城番屋敷

淡路島といえばパソナではなく稲田騒動が有名です。明治3年(庚午の年)に起きたので庚午事変とも呼ばれています。

■全員解雇
昔、日本史で習いましたが明治2年に版籍奉還が行われます。藩が、所有していた土地【版】と人民【籍】を朝廷に返還させました。地方分権から中央集権国家にする流れでもありますし、古代のように大王が土地と民を支配する世の中に戻すともいえます。藩主はそのまま県知事に移行しますので、まだソフトランディングでした。

続けて禄制改革が行われます。武士への給与支払いを辞めて、その代わり公債を与えるので自分たちで何とかしろということですね。今でいえば県庁職員で安泰だと思っていたら、いきなり退職金を出すかわりに全員、失業ということです。公債をもとに慣れない商売に手を出して失敗する「武士の商法」が続出しました。

■淡路独立運動
稲田家はもともと蜂須賀小六の客分で、蜂須賀家の阿波入府にあわせて筆頭家老として淡路に入ります。家臣の意識は蜂須賀家と同格でしたが時代が過ぎるにあわせて蜂須賀家が主という振る舞いに変わっていきます。幕末、徳島藩は佐幕派なのに稲田家は尊王派という確執もあり、引き金となったのが禄制改革です。

徳島藩家臣は士族ですが、稲田家は卒族(下級武士扱い)となり、納得いかない稲田家では淡路を徳島藩から独立させる動きになります。徳島藩の一部過激派が淡路に乗り込んで戦いとなります。これが稲田騒動です。この騒動によって淡路は本来の徳島県ではなく、兵庫県に属することになり本日に至っています。

■松阪の御城番屋敷もお家騒動から
江戸時代、松阪は紀州藩の土地で、幕末に騒動が起きました。紀伊田辺に住んでいた紀州藩主直属の家臣に対して直臣(藩主直属)から陪臣(藩主の家来の家臣)になるように命じられます。本社のエリート街道を歩いていたのが、子会社へ転籍しろと命じられたのと同じですので抗議しましたがダメで、武士の誇りを選んで浪人しました。

浪人生活は6年にもなりましたが、あきらめずに伝手を頼って徳川慶喜などに嘆願。ようやく復帰がかない、新しい赴任先となったのが松阪城の御城番。騒動を起こしたので、紀州から離れたところへ行けということでしょう。ところが今度は明治維新が起きてしまいました。苦労して勝ち取った武家屋敷を守っていくため合資会社苗秀社を設立。皆で団結して時代を乗り切り、苗秀社は今も続いています。

幕末から明治にかけて、武士は失業というハードランディングを乗り越えるのに必死でした。

大阪城のライトアップ

大阪城

昨夜、大阪城を歩いていると天守閣が赤くライトアップされていました。

大変だあ!大阪城にかけつけなければ!!
と大阪人なら考えますが、インバウンド客以外に誰もいませんでした(笑)。そういえば、もう一つの印である瓢箪がなかったなあ。
12/1は世界エイズデーでレッドリボン運動をやっており、大阪城を赤色にライトアップしていたようです。

■プリンセス・トヨトミ
今は新刊の「ヒトコブラクダ層戦争」が出ていますが、万城目学の小説に「プリンセス・トヨトミ」があり、映画化もされています。大阪国という、日本政府も密かに認めているもう一つの国家があり、400年にわたり大阪人は秘密を守り続けています。ただし大阪城が赤くライトアップされ、瓢箪が配られると緊急事態発生ということで大阪人は大阪城へ向かわなければならないという奇想天外な物語です。

プリンセス・トヨトミは小説ですが、実際にバーチャル上ですが関西電子共和国(VRK)という別国家があり、国民に一員でした。関西電子共和国は亡くなってしまいましたので、レコンキスタをしなければ!

江戸川乱歩生家

犯人はお前だ!

江戸川乱歩生家

江戸川コナンの決め台詞ですが、江戸川といえば乱歩ですね。東京生まれのイメージが強いのですが生まれは名張です。もっとも2歳の時に亀山に移転し、翌年には名古屋に引越したので本人は覚えていないでしょう。生家は残っておらず初瀬街道から少し入ったところに公園があって案内板が建てられています。ただ三重とは縁が深く、鳥羽で働き、結婚もしました。この頃の経験から「パノラマ島奇談」などが生まれています。2023年は処女作「二銭銅貨」が発表されて100年だそうです。

戦後は日本探偵作家クラブを作ったり探偵雑誌などを創刊して若手を支援する活動が中心になります。ただ子供向けに探偵小説を書いており、怪人二十面相シリーズなどのヒットとなっていきます。以前、名張の木屋正酒造が「幻影城」という地酒を出していたんですが、まだ売っているのかなあ。

油日神社

油日神社は甲賀の総社とも呼ばれています。甲賀に突出した勢力はなく、甲賀五十三家による自治組織でした。堺の会合衆のようなものですね。掟を定め、合議制でした。基本は多数決で、決まらない場合はくクジで決めます。甲賀衆の談合場所だったのが油日神社で、甲賀の総社と呼ばれています。

楼門の左右には廻廊のびていて、時代劇を撮影するには絶好の場所です。というころでドラマや映画のロケ地としても使われています。「るろうに剣心」、「わろてんか」、「必殺仕事人」、「信長協奏曲」などなど。

鹿深の道

鹿深の道

油日城や滝川城は県道131号にありますが、県道には「鹿深の道」という名前がつけられています。って道の途中にあった看板を見て知りました。調べてみると東海道って、いろいろと変遷があったんですね。

江戸時代の東海道は、近江の土山宿から鈴鹿峠を超えて伊勢の関宿に入りますが、古くは甲賀から柘植へ出て、加太越えをして関に入ったようです。難所の鈴鹿峠を避けたのでしょう。もっと古い時代の東海道は飛鳥から名張、伊賀、柘植を通って東国へ向かいました。

■古代の東海道 倉歴(くらふ)道
天智天皇が大津京を作った時に新しく道が整備され、草津で東山道と分岐し、甲賀を通って柘植へ入り、柘植から以前の飛鳥からの道に合流しました。柘植の北側に杣川が流れ、この川沿いのルートが東海道です。途中で倉歴を超えていくので倉歴(くらふ)道という名前だったようです。これが東海道の旧名になります。

大友皇子と大海人皇子が争った壬申の乱では大海人皇子が軍勢を派遣して倉歴道を守らせました。これに対して大友皇子側も軍勢を送り鹿深山を越え、倉歴で戦いになったようで倉部川沿いに古戦場跡があります。倉歴の地名は残っておらず川の名前で残っています。土山と甲賀にはバイパスがあったようで、それが鹿深道になります。

■鹿深(かふか)から甲賀に
日本書紀の敏達天皇13年(584年)に鹿深臣が百済から弥勒の石像を持ち帰ったと書かれています。敏達天皇といえば物部守屋と蘇我馬子が争っていた時の大王で、争いの背景は廃仏・崇仏よりも朝鮮外交の対立といわれています。この鹿深臣の本貫だったのか、どうか分かりませんが、この鹿深(かふか)が「かうか」「こうか」と変化して甲賀(こうか)となったようです。

海住山寺のサンクコスト

海住山寺

恭仁京近くに、海住山寺への案内がありました。山の中腹にある寺ということで、山の方を見ると、確かに中腹に白く巨大な看板のようなものが見えます。ちょっと登れば着きそうだなということで坂を登りはじめます。ようやく白い看板にたどりつくと高台なので眺めがよく加茂の街が一望できます。

■サンクコスト
たどりついた看板に海住山寺と大きく書かれていますが、単に参道の案内で、お寺の場所は、かなり坂を登ったところにあります。「えー、どうする! せっかくここまで登ったんだから最後まで登るか」と考え、坂登りを続けます。この、もったいないと考えることをサンクコスト(埋没費用)といいます。サンクコストとは、過去に払ってしまい、もはや取り戻すことができない費用を指します。今後に関する意思決定では、サンクコストは考慮に入れず、今後の損益をだけを考えるのが合理的な判断するのが王道ですが、そうはいきませんねえ(笑)。

ということでエッチラオッチラ登って五合目を通過。またかなり登って、ようやく海住山寺にたどりつきました。 聖武天皇の勅願で創建した寺のようで国宝の五重塔などがあります。