柴田勝家が生まれた下社城

下社城
織田信長の宿老である柴田勝家。
映画やドラマでは必ず出てきて、直情で猪突猛進な姿で描かれます。最後は秀吉と対立し、賤ヶ岳の戦いでは前田利家の裏切りにより敗退。しかし恨みがましいことを利家には言わず、北の庄城でお市の方と共に自刃します。その柴田勝家が生まれたのが下社城。
名古屋地下鉄・東西線の上社駅を降りて、高級住宅街などを抜け、20分ほど歩くと明徳寺があり、かなりの高台になっています。城の遺構は残っていませんが柴田勝家の生まれた下社城跡です。寺からは周囲がよく見え城跡ということがよく分かります。勝家は織田信秀(信長のお父さん)の家臣でしたが、信秀が亡くなると織田信行(信長の兄弟)の家老となります。
織田信秀が最後に住んだ末森城は信行が継承しました。勝家の下社城(上社駅)から末森城(本山駅)までは4駅と近いので、勝家は下社城から末森城まで通っていたのでしょう。やがて信行は信長と対立して自刃することになります。
勝家は信長に仕えることになりますが、信長の清州城は名古屋駅の向こうですので、この時は清洲の屋敷に住んでいたのでしょう。上社駅近くには上社城跡、一色城跡などが残っています。今は2つとも寺になっています。

小牧山城

小牧山城
織田信長が美濃攻めのため家臣ともども引っ越ししたのが小牧山城。
四日市の岡田家(イオン)には「大黒柱に車をつけよ」という家訓があります。店の屋台骨を支える大黒柱に車をつけておいて、いつでも動かせるようにしておけという家訓ですが、戦国時代に実行したのが織田信長。清洲→小牧山→稲葉山→安土と居城を常に狙う市場近くに変えていきました。もっともお父さんの織田信秀も尾張国内だけでしたが、次々と居城を移していました。
小牧山城は遺構の残りがよく堀切や郭跡が随所に残っています。麓には屋敷跡が見つかり土塁や堀が復元されています。その中で他に比べて格段に広い屋敷跡があり、これが織田信長の居館跡と言われています。麓の居館と山上の城、稲葉山城(岐阜城)とまったく同じ構図です。織田信長は岐阜攻めに際してシュミレーションしていたのかしれません。
写真は主郭跡に建つ城風の博物館。その下に見える石垣は織田信長時代のものです。

犬山城

犬山城
全国にたくさんのお城がありますが、個人が所有しているお城として有名だったのが犬山城。
江戸時代、犬山城の城主だった成瀬家が明治以降も代々、所有していたのですが、現在は財団法人犬山城白帝文庫が所有・管理しています。成瀬家の時代、不動産登記には「城郭」と記載されていたんですかねえ。
30年ぶりぐらいに犬山城を訪ねました。天守に上がると遠く稲葉山城(岐阜城)が見れます。川をはさんだ向こう側にこんもりとした山が見え、ここの頂上にあったのが伊木山城、また犬山公園駅を出て川を渡った岩山には鵜沼城がありました。
犬山城は国宝の天守が有名ですが、三光稲荷神社の裏手に戦国時代の空堀が残っています。あれだけ見事な空堀が残っているのも珍しいですね。ただ案内板もないので、観光客は素通り、もったいないなあ。もっとも案内板があってもタダの土の堀ですので、結局は素通りするだけでしょう。(笑)
■犬山城城主
犬山城を造ったのは織田信康(織田信長の叔父)。目的は美濃攻めで、犬山城の下を流れる鵜飼で有名な長良川を超えれば美濃で。犬山城は国境に造られたお城でした。
織田信康が稲葉山城攻めで討死にすると、信康の子である織田信清が城主となります。ところが途中で信長と仲たがいし美濃の斉藤龍興と手を結んだことから、犬山城は丹羽長秀に攻められて落城。美濃攻めの拠点となります。
小牧・長久手の合戦では秀吉方の池田恒興が犬山城を攻略して入り、小牧山城の家康と対峙しました。池田恒興は美濃攻めの後、犬山城の城主でしたので勝手知ったる城だったのでしょう。

織田信長が歩いた道が残る勝幡城

勝幡城
名古屋市新事業支援センターの窓口相談が終わってから名鉄で勝幡(しょばた)駅へ。駅から少し歩いたところに勝幡城跡があります。
織田信長は那古野城(現在の名古屋城の前)で生まれたという説がありましたが、最近の学説では勝幡城で生まれた説が有力です。二重の堀で囲まれていた館城で、江戸時代まで城跡は残っていたようですが、尾張藩が日光川を開削する時に城をぶっこわしてしまったようです。ただし縄張図を残したため、どんな城だったかが現在まで伝わりました。
主郭の半分は現在の日光川になり、半分は住宅街になっていますが、城西や城之内などの地名が残っています。岩波新書から「信長の城」(千田 嘉博著)が出ていて、現在の地図と勝幡城跡を重ね合わせて考察していますが、住宅街にある小さな小道が勝幡城の虎口につながる道と判明。城跡にはなにも残っていませんが、織田信長や織田信秀、柴田勝家らが歩いた道が残っていました。
感慨に浸って織田信長が歩いた道を歩いていたら夕立が!落ち武者のごとくずぶぬれになりました。

徳川家康が攻め落とした丸根砦

丸根砦
大高城がのぞめる小高い丘の上にあるのが丸根砦。鷲津砦と共に織田信長が大高城を封鎖するために築いた付城です。
砦を守っていたのは佐久間盛重。松平元康(後の徳川家康)が率いる岡崎勢に攻め寄せられ、佐久間盛重は清州城の織田信長へ急使を送ります。
そして、「人間五十年、下天のうちをくらぶれば夢幻のごとくなり」と敦盛の一節を舞い、茶漬けを食べながら、「螺(ほらがい)を吹け、具足をよこせ」と映画やドラマでよく描かれる信長が出陣していくシーンとなります。
清州城を飛び出した信長は熱田神社で兵がまとまるのを待ち、大高方面へ進軍。やがて信長の目には丸根砦と鷲津砦の陥落を告げる二筋の煙が上がるのが見え、善照寺砦に向かいます。
佐久間盛重らが玉砕した丸根砦ですが、今は住宅地の中に郭跡などが遺構として残っています。もっともマニア以外には単なる土の広場なんですが。

家康が捕虜生活を脱した大高城

大高城
日が長くなってきたので、名古屋市新事業支援センターでの窓口相談が終わってから東海道線に乗って大高城跡に行ってきました。
住宅街の中にあるこんもりとした小山が大高城跡。「大高城跡公園」という矢印のついた小さな看板の所を曲がり民家と民家の間を通る細い路地を登ったところにあります。看板がなければ、絶対に気づきません。
大高城は桶狭間の合戦の前哨戦が行われたところです。大高城は今川義元が奪った城で尾張の最前線。織田信長は周りに砦を築いて対抗します。戦国時代は城のすぐ近くが海岸線でしたが、この海からの補給を砦網で塞いでしまい大高城は孤立してしまいました。
そこで今川義元が大高城を救援するために起こしたのが桶狭間の合戦の発端と言われています。この時、徳川家康が大高城に兵糧を入れる役目を命じられ、丸根砦を落として、見事に兵糧入れに成功します。
やがて大高城へ届いたのが今川義元が織田信長に敗れたという知らせ。撤退して岡崎城へ向かうことになり、家康にとっては、長い捕虜生活から開放され新しい門出となった場所となりました。

名古屋城がそこにあるワケ

熱田台地
名古屋のテレビ塔がある久屋大通公園から少し歩くと下り坂になっていて台地の上に建っていることがよく分かります。熱田台地と呼ばれている台地で、北の端にあるのが名古屋城。南の端にあるのが熱田神宮です。関ヶ原の合戦のあと、清洲を治めた徳川家康は一大プロジェクト「清洲越し」を決断します。清洲は湿地帯で地震による液状化の跡も残っていて、地震対策のために高台移転を決定したようです。

この時、参考にしたのが大坂城。大坂城の前は石山本願寺があり要衝の地で、信長も攻めあぐねました。石山本願寺は上町台地の北に位置し、北、東、西の守りが比較的にやりやすく、攻めるとすれば台地続きの南側。

大坂城では、ここに惣構を築きました。大坂冬の陣では真田幸村が惣構のさらに外側に真田丸を築き、結局、家康側は惣構の中に攻め込むことができませんでした。国土地理院の標高地形図を見ると一目瞭然ですね。

名古屋城の北側は崖になっていて、しかも湿地帯、江戸時代は矢田川が流れていました。西側には堀川、東側には精進川が流れ、天然の堀になっていました。大坂城と同様に南側に二の丸、三の丸をつくり惣構にしました。

信長の妹が城主夫人だった小林城(名古屋)

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    名古屋の若宮大通(100メートル道路)を「みそかつ」で有名な矢場とん本店がある矢場町からランの館の方に歩いていくと下り坂になっています。台地の端の高台になっており戦国時代、ここに小林城という城がありました。テレビ塔などがある久屋大通公園の端で、大須商店街の近く。現在は清浄寺という寺になっています。 

    城主は尾張守護だった斯波氏一族である牧氏の城。織田氏に属してこの地域を制圧していました。城主(牧長清)夫人は織田信長の妹でお市の方の姉にあたり、美人のほまれが高く人々から小林殿と呼ばれていました。母親は織田信秀の妹ですので、信長のおばさんになります。織田家と縁が深かったんですね。 

    城主・牧長清は信長に従って、どう戦ったか伝わっていませんが桶狭間の戦いでは丹下砦を守備していたようです。諸国の山に登ることが好きで富士山には3回登っています。大須商店街に富士浅間神社がありますが、ここを再建したのが牧長清。 

    牧長清が亡くなった後、廃城となり尾張藩主徳川光友の剣術師範を務めた柳生兵庫の屋敷となり、元禄時代に清浄寺となったようです。境内には城主夫妻の墓もあります。 

いざという時に砦になる寺 八事・興正寺

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名古屋の繁華街・栄から城下町を斜めに走っているのが飯田街道。碁盤目の街を斜めに通っているので、城下町では珍しい3方向の道が交差する複雑な交差点がそこらへんに生まれます。
飯田街道は徳川家康が作った、尾張名古屋と信州飯田を結ぶ街道で、途中の豊田から南下すると岡崎に到達します。つまり西から攻められ名古屋城が落城すると飯田街道を通って次に岡崎城が狙われます。そこで一気に岡崎を攻められないよう八事に砦が作られました。大坂の陣は終わりましたが、まだまだ戦国時代の気風が残っている頃です。
飯田街道は栄から吹上を通り、最初の山が八事山。八事と言えば現在は高級住宅街ですが、江戸時代は名古屋の東の端でした。八事にあるのが五重塔で有名な興正寺。五重塔は愛知県では興正寺にしかありません。
興正寺は西山と東山に分かれていて五重塔など主要な伽藍は西山にありますが、東山が小高い山になっていて、こちらが砦の役割をもっていました。峠道(飯田街道)に面した所には東山門(黒門)があります。名古屋城から移築された出丸門で、両側が格子になっていて弓や鉄砲が撃てるようになっています。門の前には堀がありましたが、現在は埋め立てられて飯田街道の一部になっています。
東山門を入ると坂になっていて、まっすぐ侵入されないようS字の蛇腹道になっています。もっとも名古屋城を落城させるような敵なら、興正寺は小さな平山城程度ですので簡単に落とされるので岡崎で戦闘準備を整える時間稼ぎにしかなりません。東山は公園となり散歩コースになっています。
興正寺の近くには隼人池があり、江戸時代に尾張藩の家老成瀬隼人が新田開発のために整備したため池です。成瀬家と言えば、犬山城城主で明治維新後も、そのまま城主を勤め、2004年まで国宝・犬山城を代々私有していたことで有名です。

信長が清洲城から小牧城に移った理由

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    名古屋駅前にあるウィンク愛知の会議室で愛知県のマネージャーが集まっての会議。 

    最初は支援事例紹介ということで中小企業基盤整備機構、名古屋市新事業支援センター、豊橋科学技術大学、あいち産業振興機構の順番で発表。休憩をはさんで中部経済産業局から来年度に要求している概算予算と事業の説明。名古屋市新事業支援センターの事例発表を担当しておりました。 

    会議室はウィンク愛知、最上階の18階。ここの窓は床まであるので高所恐怖症にとっては、足がすくみます。 

    その代り眺めはいいですねえ。町のずっと先に見えるのは岐阜の山々。そのうちの一つが金華山があり、山の上には岐阜城(稲葉山城)があります。金華山は山脈から少し離れて前面に出た形になっており、岐阜城からは濃尾平野が一望。信長が天下布武を唱え出したのも岐山になぞらえた金華山から壮大な風景を見たからでしょう。 

    そんな濃尾平野に一カ所だけ小山があります。ウィンク愛知の18階から見ると平野にちょこんと島がある感じで、これが小牧山。他にはありません。信長が平城だった清州城から、より稲葉山城に近い場所に移るとなると小牧山しかありません。18階の高さから見ると、城を移した理由がよく分かります。