空白の4世紀(西山古墳)

船場総研の待ち合わせ時間が午後でしたので少し早い目に天理へ。まずは天理ラーメンです(笑)。彩華ラーメンと天理スタミナラーメンの2つがあるのですが、商店街にあった天スタを食べてきました。本当は豊田城へ登ろうと考えていたのですが、朝まで雨でしたので、さすがに山道は無理だなとあきらめ、西山古墳を目指します。

天理スタミナラーメン

■空白の4世紀
西山古墳は天理高校の敷地内にある日本最大の前方後方墳です。長さは183mと100m超えになっています。変わっているのが形で1段目は確かに前方後方墳ですが、その上に前方後円墳がのるハイブリッド型になっています。なんで、こんな変わった古墳を造ったんですかねえ。石上神宮が物部氏の武器庫で天理といえば物部氏の本拠でしたので、被葬者は物部氏とみられています。

西山古墳

西山古墳が造られたのは「空白の四世紀」と言われる時代です。邪馬台国の時代から100年以上、中国の歴史書に倭が登場せず、「空白の4世紀」と言われています。先日、日本最大の円墳である富雄丸山古墳から、だ龍文盾形銅鏡と2mを超える蛇行剣が発見されましたが、こちらも「空白の4世紀」に造られました。富雄丸山古墳も100mを超えています。

天理へ

船場総研という中小企業診断士のオンライン勉強会である船場勉強会のOB組織があります。2018年に設立20周年でしたので、今年はちょうど25年目ですかねえ。なんせニフティサーブという今は死語になってしまったパソコン通信から誕生した組織です。

ルレーヴ

年に何回か集まっていますが昨日は天理探訪。天理駅に集合し、天理本通り商店街を通って石上神宮へ。お参りのあと、近くの「ルレーヴ」というカフェ&フレンチレストランでお茶です。古民家を改装し、店内も凝ったインテリアになっています。全然、お店に似合っていない一団で今日のケーキなどでお茶です。その後は主目的である「なら歴史芸術文化村」へ。道の駅やマリオットホテルもあるのですが、文化財修復・展示棟があって仏像などの修復風景を見ることができます。

最後は天理駅前に移動して、これまたすごい個室で宴会。船場総研のメンバーも高齢化していますので病気や年金の話が多くなってきています(笑)。

枚岡祭り

枚岡祭

14日、15日は枚岡神社の秋郷祭で今年は土日にうまくあたりました。いつも見ている枚岡駅横の踏切へ近鉄電車の合間をぬって太鼓台を次々に通していきます。枚岡神社は高台にあり、東高野街道と交わる一の鳥居からずっと坂になっていて踏切前に太鼓台をあげるのがまず大変です。踏切を超えると最後の急坂が待っています。その後は枚岡神社の境内に入っていきます。

秋郷祭は14日、15日と日程固定でしたが土日の曜日固定に変わる話が出ているそうです。理由は担ぎ手不足で、地元の企業よりも大阪へ通うビジネスマンが中心になったためだそうです。ウチの子供たちは太鼓をたたくからと小学校を自主休校し、先生も黙認しておましたが時代は変わったようです。

ドムドムバーガー

ドムドムバーガー

本日は大阪府よろず支援拠点のお仕事で、日本政策金融公庫吹田支店へ出張相談です。JR吹田駅前にドムドムバーガーがあったのでランチに行ってきました。懐かしいですねえ。40年ほど前、大学を卒業して入社したSRA関西支社が堂島にありました。なんせ残業が多いIT業界でしたので、残業前の夜食買いによく行っていたのがドウチカにあったドムドムバーガーです。よく食べたなあ!あの頃は世俗にまみれず純粋に働いていたなあ(笑)

ドムドムは店舗の減少で、珍しい存在になっており三重県は桑名駅前にあった店がビル建て替えでなくなってしまい、県内には無くなりました。大阪も直営は吹田と堺の2店舗だけですね。FCが高槻に1店舗あります。

水盛城

水盛城

東高野街道をゆく

近鉄・古市駅から一駅、河内長野訪問へ行くと喜志駅があります。東に向かうと大阪芸術大学や聖徳太子のお墓(叡福寺)などがあります。また河内源氏の本拠でもありました。喜志駅の近くを東高野街道が走っているので北上を開始。東高野街道は高台を通るようになっていて河岸段丘の上を通る道になっています。

街道の途中、Googleマップで見つけたのが水盛城跡という表示。行ってみたら何のことはない住宅街で遺構は何も残っていませんでした。城の一帯は東高野街道から、さらに高台になっていて平山城だったようです。高屋城の南を守る出城として使われていたようです。すぐ隣に三角縁神獣鏡などが見つかった庭鳥塚古墳(前方後方墳)があり、古墳は高台の眺めがよい所に使われているので櫓台になっていたのでしょう。

野崎参り

野崎観音

上方落語「野崎参り」の舞台といえば野崎観音。飯森山城の麓にあります。東高野街道から急坂をあがった上にあり、山門から大阪平野を眺めることができます。野崎観音の本尊は十一面観音で、別名が居眠り観音。なんでも寝たがりの人には観音様がまとめて寝てくれるという、ご利益があるそうです。その分は働けということでしょうか、なんとパワハラな(笑)。実際は観音さんの集まりに本尊が居眠りして遅刻したそうで、そらあきまへんがな。

江戸時代、大和川の付け替え前は深野池という大きな池があり、天満橋の八軒家浜から屋形船で参詣することができました。落語の「野崎参り」は屋形船で大坂から参詣する2人と堤防を歩いて参詣する人との喧嘩を描いています。野崎参りには「振売喧嘩」という風習があったそうで、手を出さず、口だけで喧嘩するそうです。

船に乗った者と土手を歩く者で口喧嘩して、喧嘩に勝てば、その年の運がエエそうで、運定めの喧嘩だそうです。船が着いて、土手に上がったら、仲直りしもって、踊りながらどっかで酒を飲むという風習です。そう、うまくいくんですかいなあ。

大和西大寺

大和西大寺

京都や奈良へ行く時、しょっちゅう乗換しているのが大和西大寺駅。昔、近鉄が「スルッとKANSAI」に加盟する前は大和西大寺駅で途中下車できたので近鉄百貨店などに寄っていましたが、途中下車できなくなってからは乗換でしか使っていません。そうそう生駒駅や布施駅でも途中下車できました。

駅の改札を出て、駅のすぐ近くにある西大寺へ。名前の通り東大寺に対して造られたお寺です。造ったのは聖武天皇と光明皇后の一人娘だった称徳天皇です。西大寺が出来たきっかけは聖徳太子の四天王寺と同じです。藤原仲麻呂(恵美押勝)の乱が起きた時に称徳天皇が対仲麻呂戦の勝利を祈願して、四天王寺の発願をしました。物部守屋との戦での四天王寺の守護を受けて物部氏を倒した故事にならいました。乱がおさまり約束通りに四天堂を建立。これが西大寺に発展していきます。

大伽藍でしたが平安時代の火災などで建物が消失。西大寺の面影を残すのは五重塔基壇だけです。

野崎城

野崎城

野崎観音の裏山にあるのが野崎城。飯盛山の東にある支脈が突き出した地で東高野街道を通る軍勢を上から攻撃できます。飯森山城の出城として使われていました。野崎城は公園にはなっていますが郭跡がよく残っています。

■東高野街道
当時、南北に大和川が流れていたため大量の兵士を大坂に送るには東高野街道を南下し、柏原あたりから西に向かうしかありませんでした。ですので東高野街道は昔から戦場となり野崎近くで行われたのが高師直と楠木正行が戦った四条畷の戦いです。大坂の陣では徳川軍の南下にも使われ、野崎のちょっと北にある岡山(現在は忍陵神社)には徳川秀忠が本陣をおきました。

大坂夏の陣では大坂城の堀がないため野戦に持ち込むしかなく、木村重成が若江から長宗我部盛親が八尾から湿地帯を突破して、東高野街道を南下する徳川軍を横から攻撃します。徳川軍に打撃を与えましたが木村重成が討死します。

飯森山城へ

ようやく涼しくなり、まもなくシーズン到来ですのでリハビリがてら飯森山城へ登ってきました。

飯森山城

麓の野崎から登りはじめましたが、だいぶ体がなまっていますね、途中でけっこう息がきれました。ヒーハー言いながら1時間ほどかけて山頂を目指します。

飯森山城は南北朝時代には築かれていて、高師直軍と楠木正行が戦った四條畷の戦いでは、南朝方の恩地氏が飯盛山城をおさえたようです。それもあって頂上には楠木正行の銅像があります。その後、守護・畠山氏の被官だった守護代・木沢長政が城として整備をし、本格的な山城としてスタートします。石垣の城として整備したのは三好長慶で、織田信長よりも先に天下人になった人物です。

少年の時に父親を殺した細川晴元と手を結び、戦国時代には珍しく、兄弟で役割分担しながら畿内を平定します。しかし嫡子に先立たれるなど晩年は恵まれせんでした。この三好長慶に仕えていたのが松永久秀です。そうそうキリスト教の布教も認めていて高山右近がキリスト教に改宗したのも三好長慶の影響がありました。

三好長慶はこの飯森山城で病死し、御体塚郭に埋葬されていると伝わっています。大きな郭が稜線に連続し、一番北側の出丸からは山城、摂津、河内、大和の国を270度パノラマで見ることができます。

大仙古墳

三国ヶ丘駅

三国ヶ丘駅近くでお仕事。三国ヶ丘というのは、和泉、河内、摂津の国境にある丘のことを言います。まとめて呼ぶと摂河泉(せっかそん)になります。

三国ヶ丘駅はJRと南海の2つがあって便利がよい所です。駅のすぐ近くにあるのが大仙古墳です。昔は仁徳天皇陵と日本史で習いましたが、どうも履中天皇陵ではないかという説があります。古墳ですが、見ても単なる巨大な森ですねえ。まあ広大な古墳で、横をJRが平行に走っていて三国ヶ丘駅から百舌鳥(もず)駅まで一駅分あります。当時は海の近くで巨大古墳が海岸線に沿って3つありましたから、住吉津に向かう外国使節などには、すごいモニュメントに見えました。