三成と同郷だった田中吉政陣跡(関ヶ原)

田中吉政陣跡
関ヶ原シリーズ 第10回は田中吉政陣跡
徳川家康最後陣跡が関ケ原町歴史民俗資料館のすぐ横にありますが、田中吉政陣跡もすぐ近くにあります。この位置ですので石田三成軍と戦っていたのでしょう。
田中吉政は近江・長浜の出身で石田三成の出生地のすぐ近く。田中吉政の方がひとまわり年長です。もともと浅井家の武将だった宮部継潤に仕えましたが、秀吉の調略で宮部継潤が織田方になったため、そのまま宮部継潤から秀吉に仕えます。そうそう本能寺の変の時、織田勢力の一番西側にある鳥取城を守っていたのが宮部継潤で、秀吉は全幅の信頼をよせていました。
■家康の後、岡崎をおさめたのが田中吉政
小田原の北条攻めが終わった後、秀吉によって家康は関東に移転させられますが、家康の旧領だった岡崎に入ったのが田中吉政です。宮部継潤と同じで、秀吉から信頼されていたのでしょう。
関ヶ原の合戦では家康に味方し、戦いが終わった後、探索を命じられ伊吹山中で逃亡中の石田三成を捕まえます。同郷ということもあり三成を手厚く扱ったようで、秀吉から三成がもらった脇差を田中吉政に渡し、この脇差が現在まで伝わっています。
■関ヶ原のあと、柳川藩初代藩主に
関ヶ原の功で筑後一国が与えられ柳川へ入ります。立花宗茂が西軍として大津城攻めを行ったため、柳河の領地を取り上げられ、代わりにあたえられました。柳川藩・初代藩主となります。田中吉政は関ヶ原の合戦から9年後に京都で死去。ところが復帰運動を展開した立花宗茂は旧領の柳川への復帰が成功。柳川藩田中家は2代で終わってしまいます。真田昌幸(幸村の父親)が立花宗茂と同様に復帰が認められていれば、来年の大河ドラマ「真田丸」はなかったでしょう。

本多忠勝陣跡(関ヶ原)

本多忠勝陣跡
関ヶ原シリーズ。今回は本多忠勝陣跡。
■桑名藩の初代藩主
本多忠勝といえば酒井忠次、榊原康政、井伊直政と並ぶ、いわゆる徳川四天王の一人です。三重県人としては桑名藩・初代藩主として有名で、桑名城跡の九華公園には鹿角の兜をかぶった本多忠勝の像があります。すぐ隣が中食で有名な柿安本店。最後は桑名で亡くなっています。
桶狭間の戦いで徳川家康が丸根砦、鷲津砦に囲まれた大高城に兵糧を入れますが、この時が初陣でした。武田信玄との戦いとなった一言坂の戦いで徳川軍が大敗しますが、本多忠勝は殿(しんがり)を守り、無事に徳川家康を逃がします。武田軍からは「家康に過ぎたるものが二つあり、唐の頭に本多平八」とたたえられます。唐の頭というのは家康が愛用していたヤクの毛で作られた兜のことで、本多平八とは忠勝のことです。
蜻蛉(とんぼ)切という名前の槍を愛用し、鹿の角の兜がトレードマークで、「蜻蛉が出ると、蜘蛛の子散らすなり。手に蜻蛉、頭の角のすさまじき。鬼か人か、しかとわからぬ兜なり」という本多忠勝をうたった川柳が伝わっています。関ヶ原では徳川本陣にあって、本多本隊は嫡男の忠政が率いていました。
■真田信繁(幸村)の親戚だった
本多忠勝の娘が上田の真田信之に嫁いでいたため、信之は東軍に味方します。この信之の弟が真田信繁(幸村)で、関ヶ原の戦後処理で真田昌幸・信繁(幸村)親子の助命を真田信之と共に家康に嘆願します。結果的に助命されて九度山に流されます。大河ドラマ「真田丸」にも絶対に、この嘆願シーンが出てくるでしょうねえ。

松平忠吉・井伊直政陣跡(関ヶ原)

松平忠吉・井伊直政陣跡
関ヶ原シリーズもいよいよ佳境に入ってきました。(笑)
第8回は松平忠吉と井伊直政陣跡。
■女城主によって井伊直政が誕生
陣跡はJR関ヶ原駅のすぐ近くにあります。松平忠吉は徳川家康の四男で、井伊直政の娘婿。井伊直正はご存じ徳川四天王の一人です。来年の大河ドラマは真田丸ですが、再来年の大河ドラマは井伊直虎で柴咲コウが演じます。井伊家の当主が戦死し、父親も謀略で殺され、後継ぎの虎松(2歳)だけしかいない状況になった時、出家して尼になっていた女性を井伊家の当主に据え中継ぎにします。女城主となり名前を直虎にし井伊家を守ります。虎松を教育し、育て今川家を見限り、徳川家康につきます。この虎松が後の井伊直政となります。
■井伊の赤備え
武田信玄が滅んだ後、家康が武田遺臣を配属したのが井伊直政。武田の赤備えで有名な山県隊も配下となったため、軍装を赤備えにします。これが井伊の赤鬼と怖れられます。大坂の陣では武田二十四将であった真田信繁(幸村)の赤備えと井伊家の赤備えが真田丸で激突します。きっと来年の大河ドラマでこのシーンも出てくるでしょう。
■そして彦根へ
松平忠吉は関ヶ原が初陣。先陣は福島正則が命じられていましたが、井伊直政は松平忠吉を引き連れて福島正則を出しぬき、宇喜多勢に一番槍をつけています。合戦の終盤となると島津の退き口が始まり、徳川軍による追撃がはじまりますが松平忠吉、井伊直政ともに、この追撃で重傷を負います。先陣と追撃の功により井伊直政は高崎城から石田三成の所領だった佐和山城が与えられます。佐和山城ではなく、もう少し街中に新しい城を造りますが、これが「ひこにゃん」で有名な彦根城となります。ちなみに高崎と名付けたのが井伊直政です。

島津義弘陣跡(関ヶ原)

島津
関ヶ原シリーズ第7回は島津義弘陣跡です。
「島津の退き口」 敵前突破という前代未聞の撤退を行った島津義弘の陣跡です。
戦国時代の九州といえば大友、島津、鍋島の三国志状態でしたが島津義弘は兄の島津義久とともに九州中を席巻。ところが秀吉の九州征伐で敗退してしまいます。負けたあとは秀吉に従い、文禄の役や慶長の役にも参加し、泗川の戦いでは明・朝鮮の大軍を寡兵で破り、武名をあげました。島津義弘は親豊臣派ですが、兄・義久は反豊臣派。家臣団も分裂していて義弘に本国の島津軍を動かす決定権がありませんでした。やむなく300の兵で関ヶ原に参加せざるをえません。
■関ヶ原の戦い
もともと義弘は家康側につく予定でしたが、亀寿という女性が豊臣方への人質として伏見におり、養父が義久という関係から亀寿の命を第一に考えて西軍につかざるをえなくなります。ただ出陣した限りは戦うつもりでした。島津軍は西軍の作戦上、二番手でしたが一番手が負けた時には全体の勝敗も決まっていて、なんともしようがなかったようです。
■島津の退き口
そこで島津の退き口となりますが、敵味方を識別するようなものは捨てて、乱戦のなかで撤退し壮絶な戦いとなりました。殿(しんがり)をつとめたのが甥の島津豊久で、戦死してしまいます。
島津義久は伊勢街道を抜け、伊勢の国を鈴鹿山脈沿いに逃げますが、この時、水口岡山城主で同じ西軍だった長束正家が道案内を派遣しています。信楽からなんとか大坂へたどりつき、人質を救出して船で九州へ向かいますが、ここで黒田官兵衛の水軍と海戦になってしまい、まさに踏んだり蹴ったり。現在の日向市にようやたどり着き、陸路を佐土原城へ、ここは関ヶ原に戦死した島津豊久が城主でした。ここから山間の道に入り薩摩にたどり着きます。
■後日談
この「島津の退き口」から50年ほど経った頃、薩摩の若者が長い距離を歩いて、島津の退き口を生き延びた武将・中馬大蔵のもとへ話を聞きに行きます。居住まいをただした武将は若者たちを前に「関ヶ原ともうすは・・・」と言ったきり、涙を流し続けて絶句した逸話が残っています。

小西行長陣跡(関ヶ原)

小西行長陣跡
しばらく途切れていた関ヶ原シリーズです。お待たせしました!
そんなシリーズ誰も待っていないって。(笑)
まあ、そうおっしゃらずに、第六回は小西行長陣跡です。
小西行長はもともと堺の薬種商人出身で家は朝鮮人参などの輸入にも携わっていました。やがて岡山の商人の家に養子に入ったことから宇喜多直家の元を訪れるようになり、ヘッドハンティングを受け家臣となります。秀吉の毛利攻めの際、宇喜多直家が秀吉側につくことを決めた時、秀吉との交渉にあたったのが小西行長。才能を見込んだ秀吉は小西行長を家臣にし、やがて大名にまで上りつめます。最終的には秀吉軍のロジスティックスと水軍の長にもなりました。小西家は貿易の利もあり一家でキリシタンになっており小西行長もキリシタンでした。
秀吉との関係がおかしくなるのはバテレン追放令が出たあたりからで、追放された高山右近を自身の領地だった小豆島に匿います。領地を失っても信仰を捨てない高山右近に感銘をうけたようです。文禄の役では先鋒をつとめ、石田三成と共に明との講和交渉を行っていますが秀吉に内緒で交渉したため、秀吉の逆鱗に触れることとなります。貿易もしていた小西家ですので外交に関して秀吉とはだいぶ感覚が違っていたようです。秀吉から心が離れ、秀吉が死んだ頃には領土(熊本の南の宇土)があった九州全土の支配を考えていました。ここらへんは黒田官兵衛と同じですね。
関ヶ原の合戦が起きた時、九州を領有する絶好の機会と考え三成に味方します。小西行長の陣は宇喜多秀家の陣の隣でした。秀家は最初に家臣に取り立ててもらった宇喜多直家の息子ですので感慨深いものがあったのでしょうね。
小西行長の陣跡のすぐ近くに関ヶ原の開戦の碑が建っていますが、実際に開戦があったのはもう少し南の宇喜多秀家陣で、ここで東軍の福島正則軍とぶつかり関ヶ原の合戦がはじまりました。

宇喜多秀家陣跡(関ヶ原)

宇喜多秀家陣跡
関ヶ原シリーズの第五段、今回は宇喜多秀家陣跡。
大谷吉継、小西行長の陣の間にあったのが宇喜多秀家の陣。陣跡は少し高台にあり、西軍最大の1万7千人で関ヶ原の戦いに臨みましたが、戦力的にはいまいちだったようです。原因は宇喜多騒動。
宇喜多秀家がまだ子供の頃、親である宇喜多直家が死んでしまいます。秀吉が可愛がり、養女(前田利家の娘)の豪姫と結婚させます。また秀吉の猶子になっていたこともあり、畿内にいることが多く、領国経営は国元の重臣にまかせていました。ところが秀吉が没すると、重臣間の対立が表面化。
当主である宇喜多秀家に敵対し兵を率いるものも出る始末。調停に乗り出したのが大谷吉継と徳川四天王のひとり榊原康政ですが、家康としたら豊臣方の宇喜多家が分裂する方が好都合なので、榊原康政に手をひかせます。大谷吉継だけでは調停は難しく、結局は豊臣家の筆頭大老である徳川家康の裁断になります。宇喜多家では主だった重臣がいなくなり明石全登が家宰として宇喜多家中を取り仕切ることになります。
調停で家康が恩をうった重臣は東軍側として関ヶ原に参戦。宇喜多秀家は東軍の福島正則隊と激戦しますが、小早川秀秋の裏切りで側面をつかれて敗退。明石全登が斬り死にしようとした秀家を諫めて大坂へ退くように進言し、殿軍を務めます。紆余曲折があり鹿児島に逃れた宇喜多秀家や八丈島に島流し。これが八丈島の流人第一号となります。キリシタンだった明石全登は大坂の陣で真田信繁、毛利勝永らと共に家康と戦い、散っていきました。

石田三成陣跡

笹尾山
関ヶ原シリーズの第四弾。
石田三成の陣跡、笹尾山です。佐和山城に隠居していた石田三成ですが、徳川家康が上杉攻めで大坂城を空けた時にクーデターを起こします。徳川家康は公儀(豊臣方)の仕事として福島正則など豊臣系大名を引き連れて東北に向かっていました。
ここで前田玄以・増田長盛・長束正家と組んで、徳川家康を弾劾する「内府ちかひの条々」を全国の大名に送ります。これで石田三成方が公儀(豊臣方)となり、徳川家康方が賊軍となりました。早い話が幕末に長州と薩摩が組んで起こしたクーデター「王政復古の大号令」と同じです。このクーデターで長州と薩摩が公儀(錦の御旗))となり徳川慶喜が賊軍となります。ただ違っていたのは鳥羽伏見の戦いなどで徳川軍が負けたこと。
関ヶ原の戦いでは公儀の側である石田三成側が負けてしまいました。鍵をにぎったのが松尾山城を占拠した小早川秀秋。石田三成の当初の構想は大垣城の攻城戦で、関ヶ原の南宮山に布陣した毛利の軍隊を後詰にする予定で、松尾山城には総大将の毛利輝元に入ってもらう予定でした。ところが毛利輝元はこれで戦国の世に戻ると領地確保などを優先。もっとも関ヶ原の戦いが長びくと真田昌幸、黒田如水、上杉景勝ら、主だった武将は考えており、領地確保に動いていますので、まさか1日で終わるとは誰も思っていなかったようです。
徳川家康に通じている小早川秀秋が松尾山の城兵を蹴散らして陣取ったため、南宮山の後詰がきかなくなってしまいました。仕方がないので関ヶ原へ移動して布陣することになります。

大谷吉継陣跡(関ヶ原)

大谷吉継墓
関ヶ原シリーズ・第三弾です。(笑)
大谷吉継は秀吉の天下統一に従軍し、やがて敦賀城主となります。白い頭巾姿で有名で敦賀市のゆるキャラ「よっしー」は大谷吉継をモチーフにしています。
秀吉が亡くなった後、前田利家と徳川家康が一触即発となった時、福島正則らと共に徳川家康の屋敷を守る方にまわっていますので、徳川派でした。上杉討伐軍に参加するために三成の居城である佐和山城に立ち寄った時に旗揚げの話を聞かされ、翻意するように三成が説得しますが、意志が固いので西軍に加わります。家康は大谷吉継が西軍に加わっていると聞いて、かなり驚いたようです。
敦賀に帰り、戦準備をするとともに東軍の前田利長を牽制するため、大谷の水軍が金沢を攻撃するぞと偽情報を流し、混乱させます。前田利長は実際、関ヶ原に来れませんでしたので、効果はありました。この大谷隊の陣ですが、まっすぐ松尾山の小早川秀秋の陣を見すえていますので、最初から裏切りに備えていました。ところが一緒に率いていた脇坂安治・朽木元綱・小川祐忠・赤座直保が途中で東軍に寝返り、総崩れ。脇坂安治は同じ秀吉の御馬廻り衆の一員で同僚でしたが、うまくいかないものですね。朽木元綱は信長が金ヶ崎城からの撤退戦で絶体絶命の危機に陥った時に朽木越えを助けた武将です。
大谷吉継は自刃し、側近の湯淺五助が首を埋めます。この五助は勇猛な侍として有名でした。ところが埋め終わった時に藤堂隊の藤堂仁右衛門(藤堂高虎の甥)に発見されます。五助は自分の首の代わりに大谷吉継の首の場所を口外しないことと、供養を頼んで討たれました。約束通り藤堂仁右衛門は家康に聞かれても首のありかを口外せず、戦が終わってから墓を建てています。
来年の大河ドラマは「真田丸」ですが、大谷吉継は片岡愛之助が演じるんですね。真田信繁(幸村)の奥さんがこの大谷吉継の娘と伝わっています(諸説あり)。大谷吉継の息子は義兄弟となる真田信繁らとともに大坂城へ入城し、大坂夏の陣で討死。湯淺五助を討ち取った藤堂仁右衛門は大坂の陣の八尾・若江の戦いで長宗我部盛親隊に敗れ討死にしています。

黒田長政・竹中重門陣跡(関ヶ原)

黒田長政・竹中重門陣跡
新幹線からも見える小高い山の上に黒田長政・竹中重門陣跡があります。
関ヶ原をおおっていた霧が晴れた時、ここから狼煙が上げられ、東軍の攻撃がはじまりました。黒田長政は大河ドラマでは松坂桃李が演じていましたが黒田官兵衛の息子です。竹中重門は秀吉の軍師だった竹中半兵衛の息子。
荒木村重の謀反が起きた時、荒木村重がこもる有岡城(伊丹城)へ説得に行った黒田官兵衛は反対に捕えられて牢につながれます。幼い黒田長政は信長に人質に出されていましたが、なかなか帰ってこない黒田官兵衛を、さては裏切ったと思った信長は人質だった黒田長政を殺すように命じます。これを救ったのが竹中半兵衛。信長には殺したと言って、黒田長政を匿います。
というのが通説なんですが、ウソでしょうね。黒田官兵衛が帰ってこなくても黒田家の家臣は信長方として行動していますので、信長が次期当主となる黒田長政を殺す必要性はなく、そんなことをしたら黒田家も離反してしまいますので、まあ物語のたぐいでしょう。竹中半兵衛は黒田官兵衛が助けだされる前に三木城攻めの付城だった平井山で病死しています。
関ヶ原の戦いでは竹中重門は最初、西軍として行動していましたが、黒田長政の説得で東軍に寝返り、黒田軍の寄騎として戦いました。関ヶ原周辺は竹中氏が領主でしたので地理に明るく、家康から西軍諸将の探索と捕縛を命じられ、小西行長の捕縛に成功しています。また戦死者を埋葬し、これが首塚になっています。

桃配山(関ヶ原 徳川家康陣地)

桃配山
壬申の乱で関東(鈴鹿関の東側で現在の桑名)に逃れた大海人皇子は尾張氏を味方につけ、大友皇子の近江軍と激突したのが関ヶ原の土地。
この時、関ヶ原を見渡せる山に登り兵士に魔除けの桃を配りました。それ以来、桃配山という名前となります。近江軍を破った大海人皇子は軍勢を二手に分け、湖東と湖西から大津京を目指します。
若き家康が今川義元のもとで人質生活をおくっていた時に教えを受けたのが大原雪斎。雪斎は今川軍の指南役でもあり、今川義元の教育係も務めた禅僧です。薫陶を受けた家康が読んでいたのが論語、中庸や史記などの歴史書、六韜などの兵書です。当然、壬申の乱などの過去の歴史についても学んでいました。
関ヶ原に布陣することになった時、まっさきに思い出したのが桃配山の故事。関ヶ原の戦いをもとに天武天皇となった大海人皇子にあやかり、最初の陣地としました。