恵方巻

恵方巻
恵方巻

今日は節分です。

節分って季節を分けることなので春夏秋冬の4回あるんですが、なぜか立春だけが有名になっています。季節の分かれ目には鬼(邪気)が発生しやすいので、陰陽師の時代からあったのが追儺(ついな)行事、これが豆撒きになっていきます。こっちは伝統行事なんでわかるんですが、よく分からないのが恵方巻。

その年の恵方(2019を年は東北東)向いて無言で巻き寿司を食べると縁起が良いという風習ですが、全国的になったのは最近のことです。もともとは関西にあった風習のようですが、これに目をつけて昭和の始まりから販促が行われ、これが幸運巻寿司となります。

写真は上本町の鮨店・美登利が配っていたプロモーション用チラシ。「その年の恵方に向かって巻寿司の丸かぶりをすると大変幸運に恵まれる」と書いてあることは今と変わりません。これがコンビニなどの影響で全国に広まり、恵方巻として定着します。

というわけで立春と恵方巻とは関係ないんですが、やっぱり食べてしまうんだろうな~あ。さあ、恵方巻を買ってこようっと。

訳語田幸玉宮(敏達天皇)

訳語田幸玉宮(敏達天皇)
訳語田幸玉宮(敏達天皇)

【敏達天皇】 
敏達天皇といえば仏教伝来で有名な欽明天皇の子供で、奥さんは額田部皇女(後の推古天皇)でした。大連は物部守屋、大臣は蘇我馬子が勤め廃仏派、崇仏派で争っており、次の用明天皇時代に蘇我馬子・聖徳太子vs物部守屋の戦いが起きます。崇仏派が勝利して聖徳太子が建てたのが大阪の四天王寺です。

敏達天皇は廃仏派で、廃仏派が優勢となり、物部守屋がインドから百済経由で伝わった仏像を難波の堀江へ打ち捨てます。これを本田善光という人物が拾って本尊としたのが信州にある善光寺となります。

【訳語田幸玉宮】 
さて敏達天皇の宮は訳語田幸玉宮(おさたのさきたまのみや)と言い、桜井の戒重にあったと言われています。欽明天皇の宮(磯城嶋金刺宮)、用明天皇の宮(磐余池辺雙槻宮)も同じ桜井にありました。訳語田幸玉宮跡は後に西阿の戒重城、織田の戒重陣屋となるところです。 

【大津皇子の邸宅に】 
訳語田幸玉宮の後は大津皇子の邸宅となり、大津皇子は天武天皇が崩御すると密告により謀反を計画したと捕えられ訳語田(おさだ)の自邸にて自害します。鵜野讃良皇后(後の持統天皇)の策略ではないかと言われている事件で、「天上の虹」の世界ですなあ。