■Iotは”ものづくり補助金”の上限がアップ
「革新的ものづくり・商業・サービス開発支援補助金」が募集中で来年1月17日が締切です。
基本は設備投資に対する補助金で、補助金を呼び水に設備投資を増やし、景気浮揚を狙っています。通常は上限1,000万円の補助金ですが、第四次産業革命型というのがあって3,000万円の補助金上限になっています。
第四次産業革命型って何かというと、今、流行のIot.。つまりモノのインターネットです。自動運転などで注目を集めているコネクテッドカーはまさにIoTです。身近なところでいくと駐車場の監視カメラもネット接続していますのでIoTです。
■監視カメラもウイルスにやられている
カメラという言葉のせいか、安直に考えるユーザーが多いのですがネットにつながるということは情報機器で中身はコンピュータです。当然、ウイルス感染はするし、あやつられます。実際、今年10月には多数の防犯カメラなどからアメリカのサービス会社に大規模な分散型サービス妨害が行われています。
ジョーシスというサイトに連載しているセキュリティに関する記事です。
→ 監視カメラが攻撃をする?
月: 2016年12月
厳しいマイナンバー法違反とは?逮捕者が出ています.
1月からパートやアルバイトを含む全従業員のマイナンバーを法定調書に記載して税務署や年金事務所に提出しなければなりません。いよいよ本格スタートを迎えるマイナンバー制度、しっかり管理できていますか。
既にマイナンバー法違反で逮捕者が出ています。まだ個人情報ファイルの提供違反は出ていませんが、違反第1号となれば大々的に報道され社会的信用が一気になくなってしまいます。
AllAbout「企業のIT活用」最新ガイド記事です
→ 厳しいマイナンバー法違反とは?逮捕者が出ています
家康の墓がある南宗寺(堺)
大河ドラマ「真田丸」、塙団右衛門、木村重成、後藤又兵衛が討死してしまいました。いよいよ最終回は家康本陣への突入です。
堺に南宗寺(なんしゅうじ)という古刹があります。信長よりも前に天下統一をはたした三好長慶が父の菩提をともらうために建立しました。三好長慶の父は三好元長で、細川晴元の重臣でした。ところが元長の力を恐れた細川晴元らが扇動した一向一揆によって殺されてしまいます。三好一族ゆかりの南宗寺は大坂夏の陣で焼失しましたが、現在地に移転して再建されます。
■家康の墓がある南宗寺
南宗寺には有名な家康の墓があります。なんでも大坂夏の陣でカゴで逃げる途中、後藤又兵衛の槍に突かれ、堺まで落ち延びたが、カゴを開けると家康は死んでおり、遺骸を南宗寺に隠したという伝説です。後藤又兵衛は道明寺の合戦で死んでいますので、与太話にちかいのですが、ひょっとするとカゴに乗った家康の影武者が真田軍に殺された可能性があります。
本能寺の変の後、家康が伊賀を命からがら逃避行(神君伊賀越え)しますが、いろいろなルートの話が現地に残っており、敵を攪乱するために家康に見せかけるため地蔵をカゴに乗せて運んだ話が残っています。真田から逃げる時もこの手を使ったかもしれません。
黒門市場で忘年会
恒例のファイティング・コンサルタンツ研究会の忘年会。今年も日本橋・黒門市場の寿司・寿恵廣です。研究会といいながら最近は研究も何もせず九度山へ行ったり、いきなり酒を飲んだりという会になっています。
黒門市場といえば大阪の台所で昔はおせちの材料やカニ、フグなどを売っていましたが、今はインバウンドですね。カニやフグも店頭で焼いて、すぐ食べられる形になっています。大トロのパックを5,000円ぐらいで売っていて、皆さん買って食べていて、なんともうらやましい。聞こえてくるのは英語、中国語、韓国語で時たま日本語の会話があります。
さて13時に寿恵廣に集合。5年ほど見なかった古いメンバーも集合して、8名で宴会。ブリしゃぶかあ始まって、結局は17時まで延々と食べて飲んでおりました。おいしかった!
キューレーションサイト
キューレーションサイトがデタラメ、パクリ問題で大荒れです。
キュレーションとは博物館などで働く学芸員(キュレーター)に由来しています。博物館は膨大な所蔵品を所蔵していますが、展示しているのは所蔵品のごく一部。来館者が興味をだくようにテーマを決めて展示するものを選び出して展示します。まさに学芸員の腕の見せ所。
初期のキューレーションサイトも同じように膨大な情報の中から整理・収集し役立つ情報に仕立て直していました。独特のコメント付きで一つのテーマを分かりやすく深堀していました。これはなかなか役立ちました。
ところが途中から広告目当てのトンデモ・キューレーションサイトが増加。おまけにクラウドソーシングでは安い価格でとりあえず記事を大量に集めようという輩が登場し、粗製乱造になってしまいました。
やっぱりコツコツとオリジナル記事を書かないといけませんねえ。AllAbout「企業のIT活用」ではオープン以来、累積で379本、書いていますが12月にもう1本書くので380本で年を越しそうです。
若江の戦い 木村重成
後藤又兵衛が道明寺の戦いで討死した同日、北方の若江では木村重成が討死しました。
大河ドラマ「真田丸」では白石隼也が演じています。東高野街道を南下する家康、秀忠を狙って側面からの攻撃を考え、長宗我部盛親とともに八尾・若江に布陣します。木村重成は若江村を担当しています。当時、大坂城の東側は付替前の大和川が流れ、池も多く湿地帯になっていました。
豊臣方の狙いを見抜いた藤堂高虎が迎え撃ちます。木村隊、長宗我部隊はよく戦い、藤堂方の武将が次々に戦死、兵の半分を失う壊滅的な状況となります。後年、名張藤堂家の祖となる藤堂高吉(丹羽長秀の三男)が踏ん張っているところに、井伊直孝が応援にかけつけます。
■来年の大河ドラマ 井伊直孝が救援に
真田丸を攻撃した赤備えの井伊隊で、来年の大河ドラマ「井伊直虎」に出てくる井伊直政の次男です。真田信繁が真田丸の櫓から「向こうにも、ここにいたるまでの物語があるのだろうな」と来年の大河ドラマにエールをおくっていた人物です。
木村重成自身も槍をとって戦いましたが討死しました。首が家康に届けられたところ、頭髪に香が焚きこめてあり、家康が感嘆したという逸話が残っています。藤堂と井伊はこの戦いでの被害が多く、翌日の先鋒を辞退しています。
木村重成の墓は若江城跡近く、第二寝屋川の横の公園にあります。陣を置いたのは少し北にある蓮城寺になります。(若江鏡神社のすぐ近く)
小松山(後藤又兵衛)
大河ドラマ「真田丸」の次週予告を見ていたら、真田信繁が伊達政宗に向かって「関東勢百万と候え、男はひとりもなく候」と叫ぶシーンが出ていましたので、木村重成も後藤又兵衛も討死するんですね。
難波から大阪近鉄線に乗って八尾、柏原を過ぎると大和川を渡って、すぐ河内国分駅に着きます。河内国分駅のすぐ西にある小山が小松山で道明寺の戦いが行われたところです。今は住宅街になっています。奈良から大軍が移動するには王子から大和川沿いに隘路を進むしかありません。大阪側の出口が河内国分になります。徳川軍が出てきたところを迎え撃とうと後藤又兵衛が出陣し、この小松山で幕府軍を叩きましたが、新手が次々にあらわれる徳川軍にはかなわず討死します。
小松山は河内国分を見下ろす位置にありますが、すぐ西側にあるのが石川でその先には誉田御廟山古墳など巨大古墳が連なっています。山崎の合戦で明智光秀が陣をひいたのが恵解山古墳のように、当時、古墳は城代わりとして使われていました。石川を堀にし、古墳群に防衛ラインをひくのが本来の戦略でしたが、どうも後藤又兵衛が一人だけ突出してしまったのではないかというのが最近の学説です。大河ドラマで後藤又兵衛が「死に場所を探しに来た」というセリフがありましたが、あれは伏線なんでしょうね。
大河ドラマ「真田丸」 鉄壁の防衛ライン(岡山)
大河ドラマ「真田丸」を見ていたら最新の城郭研究の結果が反映されていました。それが真田の新しい防衛ライン。堺雅人が図を示していました。
大坂冬の陣で活躍した真田丸を破却された真田信繁はさらに南側に新たな防衛陣地を築きます。西側は大坂冬の陣で家康が陣を置いた茶臼山。東側は同じく秀忠が陣を置いた岡山です。大坂の陣で徳川側が勝ったので御勝山と呼ばれるようになりました。写真は現在の御勝山で後円部の一部しか残っていません。
茶臼山と岡山を陣城に改修し、2キロほどの間に堀を造ります。堀跡が見つかっていましたが和気清麻呂が古代に大和川の付替えをした時のものと考えられていましたが、どうも大坂の夏の陣で真田信繁が造ったようです。
新しい真田丸の古図が見つかったと話題になった「浅野文庫所蔵 諸国古城之図」ですが、茶臼山の陣城についても書かれており、そこにあったのが武田流の丸馬出しで、同じ丸馬出しが岡山にもありました。岡山を守っていたのが大野治長です。
防衛ラインで家康軍を止めて戦闘部隊と本陣との間に間隙ができたところで両側の丸馬出しから出撃して本陣を狙うという作戦でしたが、味方が敵につられ防衛ラインを超えて攻めてしまったため、策は瓦解してしまいました。
第48回BLAST研究会
足利義昭、信長ゆかりの若江城
河内国若江郡(現在の東大阪市)にあったのが若江城。残念ながら碑しか残っていません。
織田信長に京から追放された15代将軍足利義昭が送り届けられたのが若江城。信長の命を受け羽柴秀吉が警固しながら三好義継が守る若江城に足利義昭を送り届けます。足利義昭は、ここから毛利の鞆へと落ちていきます。この後、織田信長が佐久間信盛に若江城攻略を命じ、若江城は織田信長の城となります。若江城は信長の大坂での拠点で、石山本願寺との戦いでは最前線基地でした。
明智光秀らが守っていた天王寺砦が石山本願寺に攻められて、もうじき落城しそうと言われた時に信長は若江城で軍勢が揃うのを待っていましたが、時間がないため、わずかな手勢を引きつれて若江城から出陣し、本願寺勢を強襲して天王寺砦を助け出します。石山本願寺との和睦が成立した後、必要がなくなり若江城は壊されてしまいます。もともとは河内守護となった畠山基国の守護所から出発した城で200年にわたり使われました。
大坂夏の陣では、若江城あたりで八尾・若江の戦いが行われ、若き木村重成が討死します。