近くの石切劔箭神社にお参りに行くと大祓の茅の輪が境内にありました。年末ですねえ。
2017年の三大ニュースです。
■合同会社エムアイティエスを設立
3月3日に合同会社エムアイティエスを設立。自分で自分に役員報酬を出すのですが売上をあげないと資本金を食いつぶすことになり、もっとしっかり働きなさいよ、俺!
■「バグは本当に虫だった!」出版
2月にペンコムから「バグは本当に虫だった!」を出版。本屋に自分の本が平積みになっているのを見るのは感激でした。
■山中城踏破
秀吉の小田原城攻めで立ちはだかったのが箱根の名城・山中城。槍の勘兵衛こと渡辺了が攻め入って一番乗りの功名をあげた記録が残っています。前から行きたかったのですが東京へ行くついでに寄ってきました。障子堀が見事でした!
月: 2017年12月
積善寺城(貝塚)
積善寺城跡 JR阪和線の和泉橋本駅の近くにあります。
遺構は何も残っておらず住宅地になっていますが、長屋門のある家があったり、狭い通りなど古い町並みを残しています。主郭があったのが明教寺付近と言われています。表札には根来という名前がかかっていました。Googleマップでは明教寺が積善寺城跡となっていますが、少し離れた安楽寺境内が主郭とも書かれており、ここらへん一帯が城跡だったようです。
積善寺城はもともと三好一族と争った時の砦として作られ、近木川沿いの千石掘城などとともに、根来衆の出城でした。基本的に平城で秀吉の紀州攻めでは三重の濠をめぐらした城に根来衆9,500人が立て籠もって戦いました。結局、城は落ちず和睦開城となったようです。
千石堀城(貝塚)
秀吉の紀州攻めで有名なのが千石堀城の戦い
貝塚にある高井城から近木川を超えたところに千石堀城があります。貝塚こすもすの里の裏手に拡がる丘の上にあるのですが、城に入るところが分からなく、紀泉鉄道を通す予定で掘削した跡の道から藪に入ると登城できました。かなり大きな主郭で、帯郭が巡っています。写真は堀切横にある虎口ですが、写真ではよく分かりませんね。
千石堀城には秀吉と対峙した根来衆は鉄砲で武装し守っていました。
秀吉軍は豊臣秀次、堀秀政、筒井順慶、長谷川秀一らで二の丸まで攻めましたが本丸は攻めあぐね多大な被害を受けます。このまま持久戦になるかもと思われましたが、筒井隊が放った火矢が城郭を焼き、たまたま火薬箱に引火して大爆発が起きます。豊臣秀次軍が本丸に突入し、根来衆が討ち取られてしまいます。
藤ケ森城(安濃)
津で午前中にセミナーの仕事が終わったので、もちろん午後の予定は何も入れず、城巡りです(笑)。
安濃には伊賀の国人領主のように城塞が密集しているところがあります。まず目指すのは藤ケ森城。標高30メートルほどの丘の上にあります。坂道を上るとすぐに主郭の中へ入ることができます。整備されていて藪が少ないのがいいですねえ。主郭は楕円形で、けっこう広く単郭になっています。近くにある浄土寺城、今徳城、連部城を見渡すことができます。
藤ケ森城を誰が造ったのか城主が誰だったのか分かりません。秀吉の家来の砦という説もあります。ちょっと行ったところに伊勢国で最大の城だった安濃城があり、長野氏一族だった細野藤敦が信長に敵対していました。安濃城は信長の伊勢攻めの舞台となったところで、藤ケ森城は位置からいくと安濃城攻めのための付城だったかもしれません。
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紀州攻めの舞台 高井城(貝塚)
南海の貝塚駅から東南に近木川が流れています。この近木川沿いに二両編成の水間鉄道が走っていて終点には水間観音があります。
根来衆はこの近木川沿いにいくつもの出城を作っていました。松永久秀が三好三人衆と対立していたこともあり和泉をおさえるために築いたようです。水間鉄道の名越駅のすぐ近くにあるのが高井城跡。もともとは高井天神廃寺があったようで、寺跡を出城にしたようです。本丸、二の丸があったようですが現在は遺構が残っておらず高台になっているだけです。
秀吉の紀州攻めでは高井城に200名の農民が立て籠もりました。岸和田城に入った秀吉は、すぐに出城攻めを開始。高井城は福島正則軍に攻められ落城したようです。
雑賀衆の本拠地 雑賀城
傭兵集団だった雑賀衆の本拠地が雑賀城で、弥勒寺山城のすぐ近くにあります。
現在の城跡山公園で、階段を登ると妙見堂があり、ここから和歌浦を眺めることができます。尾根沿いに和歌山市側へ行ったところの頂上に少し開けたところがあり、ここが千畳敷と呼ばれ、雑賀城があったところです。城主は鈴木孫市で、織田信長の雑賀攻めでは本陣が置かれました。すぐそばに弥勒寺山城が見えるので織田軍を挟撃することが可能でした。
信長の後に台頭した秀吉は中央集権化を進めて土豪による在地支配を解体しようとします。サラリーマンのように転勤命令で全国に赴任しなければなりません。先祖伝来の土地と切り離されますので、対立することになり、秀吉の紀伊攻めで雑賀衆は壊滅してしまいます。
秀吉の朝鮮攻めで、加藤清正の配下として朝鮮に渡ったものの、朝鮮軍に投降し日本軍と戦ったとされる沙也可(さやか)は雑賀(さいか)ではないかという説もあります。
雑賀攻めの舞台 弥勒寺山城
和歌山市にある和歌浦といえば万葉集にも歌われた景勝地です。ここを本拠にしていたのが雑賀衆。
弥勒寺山城を中心に砦網を築き織田軍と対峙しました。雑賀衆は分裂しており、織田信長軍は根来衆と雑賀三組を先導役に佐久間信盛・秀吉・堀秀政・荒木村重・別所長治等で組織し攻撃します。荒木村重・別所長治は後に信長と敵対しますし、根来衆と雑賀衆は後に秀吉と敵対することになり、めまぐるしく歴史は動きます。
弥勒寺山城近くを流れる雑賀川の渡河を堀秀政勢が行いましたが、さんざんに攻撃され戦線は膠着状態となります。結局は和睦のような形で決着します。
弥勒寺山は秋葉山城という名前で呼ばれており、現在は公園になっています。眺めはよく和歌山市内が一望できます。よく見ると帯郭のようなものが頂上近くに残っていました。
水攻めで有名な太田城
雑賀攻めの舞台となった根来寺
秀吉と家康が直接対決したのが小牧・長久手の合戦。
小牧・長久手の戦いと聞くと、尾張の一部で戦いが行われたイメージですが、応仁の乱や関ケ原合戦と同様に日本中で戦いがあり、和泉、紀伊でも戦いが行われました。
そもそもは雑賀衆と根来衆が家康の誘いにのったことにあります。根来衆、雑賀衆、粉河衆の連合軍総数3万が岸和田城を攻めます。城を守っていたのが中村一氏と松浦宗清で、なんとか守り抜きます。秀吉は急ぎ大坂へ戻り、秀吉自身による雑賀攻めが始まります。根来衆は僧兵1万といわれましたが各地で敗れ、秀吉は紀州の根来寺まで到達します。根来寺では、ほとんど抵抗はなかったようですが、この時に火事になってしまい、一部を残して焼け落ちてしまいます。のちに徳川家が天下をとり紀州徳川家が伽藍を復興させます。
根来寺は寺といいながら堀の代わりになる深い川や一部では土塁も残っており、塔頭も高台に配置され、攻めにくい構造になっています。写真は雑賀攻めを焼け残った大塔で火縄銃の弾痕が残っています。