三岐鉄道北勢線・大安駅を南に行った線路沿いに光蓮禅寺があります。広大な伽藍は信長の伊勢侵攻で焼けたようですが、1583年に伊勢の滝川一益を攻めた秀吉が境内に陣を張り、門前に「軍勢押入乱妨之事」という制札を建てたと伝わっています。
光蓮禅寺の裏手にある山の頂上にあったのが梅戸城です。ハイキングコースになっていて楽に登れ、郭跡は光蓮寺山公園になっています。梅戸城はいつ作られた分かりませんが、城主は梅戸高実だったようです。梅戸氏は北勢四十八家の一家で、南近江守護だった六角定頼の弟が梅戸氏の養子となり梅戸高実となりました。六角氏が伊勢へ攻め込むための橋頭保となります。
梅戸城は近江と伊勢を結ぶ八風街道をおさえるために造られ光蓮寺から南に約400メートル程離れた場所に、通行税を徴収した関所があったそうです。この関所も信長の伊勢攻めで焼失しました。梅戸高実の後は次男・実秀が家督を継ぎましたが永禄11年(1568年)に織田信長に攻められて滅亡したという説と朝明郡に領地をもらったという説もあります。