ニッポン未来年表(洋泉社)

ニッポン未来年表(洋泉社)
ニッポン未来年表(洋泉社)

洋泉社からムックの見本誌が届きました。
「徹底予測 AIとITで今後どうなる!? ニッポン未来年表」とタイトルで、とりあえずAIだったら売れるだろうと企画された本でしょう(笑)。
編集を担当していた会社の担当者が途中で倒れて交代するなど、いろいとやり取りが大変でした。
けっこう大雑把な内容での原稿依頼でしたが、最終的に人事分野になって”AIで採用などがこう変わるよ”という原稿になっています。シンギュラリティなどけっこう力をいれて書いた部分は没(泣)。原稿をもとに漫画までできていたとは知りませんでした。
無事に発売にまでこぎつけたようで、書店で見かけたらぜひ立ち読みください。巻末のSTAFFの執筆一覧者に「水谷哲也/エムアイティエス」と記載されています。

三重大学で講義

三重大学
三重大学

三重大学で講義。今週、来週の2週間は図書館担当者から書籍の探し方や図書館の利用法の説明です。
三重大学の蔵書検索ですとOPACがありますが、他にも全国の大学図書館を蔵書検索できるCiNiiがあります。これ以外に三重県内の公立図書館なども含めて三重県内の図書館蔵書を検索できるシステムがあるんですね。これは知らなかった。

百舌鳥・古市古墳群が世界遺産推薦へ

津堂城山古墳
津堂城山古墳

百舌鳥・古市古墳群が近々、世界遺産になりそうですね。百舌鳥(モズ)なんて、よめない人も多そうですが、これで全国的になりそうです。

戦国時代、古墳は城として使わていました。高槻にある今城塚古墳は本当の継体天皇陵と言われていますが織田信長が三好一族と争った時に城と使われたことから今城塚古墳となりましたが、実際は地震の影響によって城跡のように見えたことが判明しました。

今回の世界遺産候補にも2つの城跡が入っていて、津堂城山古墳(小山城)と仲哀天皇陵(大坂夏の陣の真田丸)です。特に仲哀天皇陵(岡ミサンザイ古墳)は最近の調査によって道明寺・誉田の戦いで徳川家康軍を待ち受けるために真田信繁が築いたもう一つの真田丸だったという説が濃厚です。

今回の世界遺産リストには入っていませんが百舌鳥・古市古墳群には他にも大塚山古墳(丹下城)、安閑天皇陵(高屋城)、黒姫山古墳(丹南城)の3つの城跡があります。

芝陣屋

芝陣屋
芝陣屋

山城シーズンが終わってしまいましたので平城巡りをしています。早く寒くならないかな~あ。今回は奈良にある芝陣屋跡です。

有楽町にその名前を残している織田長益(有楽斎)は織田信長の弟です。大坂城で姪の淀殿を補佐していましたが、基本は穏健派で、戦に傾く城内におられず大坂夏の陣までに大坂城を離れ京都に隠棲します。子供は徳川家に仕えることになりますが四男・長政が開いたのが戒重藩。今の桜井駅近くに陣屋がおかれました。第7代藩主の時に芝村に移転し芝陣屋が作られます。芝村は箸墓近くにあります。

芝陣屋跡は現在、織田小学校になっています。小学校横には建勲神社があり織田信長の像がありました。石垣や堀の一部が残っています。織田家は明治まで続きました。

卑弥呼の墓?箸墓

箸墓
箸墓

纏向遺跡にあるのが箸墓古墳です。遠くには二上山も見えます。 

倭迹迹日百襲姫命(やまとととひももそひめのみこと)という舌をかみそうな名前の女性のお墓で実は三輪山の神様、大物主神の奥さんです。もっとも邪馬台国・畿内説では卑弥呼の墓と言われています。 

箸墓は最古級の前方後円墳で造られたのが土器の年代分析などから3世紀中ごろまでさかのぼる可能性が強まり、248年頃に亡くなったとされる卑弥呼の時代と合致するともいわれています。桜井市では「卑弥呼の里」として町おこしをしています。 

もっとも諸星大二郎の「妖怪ハンター」では耳成山が卑弥呼の古墳になっていましたが

ここが邪馬台国?纏向遺跡

纏向遺跡
纏向遺跡

奈良盆地には楼閣が描かれた土器が見つかったことで話題の唐子・鍵遺跡があります。環濠集落でしたがこの唐子・鍵遺跡が自然消滅した頃に纏向遺跡が作られます。 

三輪山のふもとに広がる広大な日本最初の都市で邪馬台国・畿内説では纏向遺跡が邪馬台国最有力候補となっています。特にJR巻向駅のすぐ近くで発見された大型の掘立柱建物群は卑弥呼の王宮ではないかと話題となりました。先日、行ったら案内板もできて柱跡もわかるようになり、きれいに整備されていました。 

纒向大溝と呼ばれる運河による水運があり、関東から九州までの各土地の土器が出土しているため、全国各地から権力者が集まっていたと考えられています。ひょっとすると国会のような会議を開いていたかもしれません。今は単なる奈良の田舎ですが、ここが大和政権発祥の地でした。 

藤ノ木古墳

藤ノ木古墳
藤ノ木古墳

法隆寺の近くにあるのが藤ノ木古墳。

1985年、発掘調査で未盗掘だったため石室にファイバースコープを入れたところ金色に光る遺物が映り、テレビ報道などで大騒ぎとなった古墳です。しかも朱塗りの家形石棺に成人男性2人が合葬されていて、「なんで男が二人、一つの石棺に入っているの!」と一大センセーションを巻き起こしました。

被葬者の一人は蘇我馬子に暗殺された穴穂部皇子で、もう一人は同じように東漢駒が蘇我馬子の命令で暗殺した崇峻天皇もしくは宅部皇子ではないかと言われています。蘇我と物部との争いの一環で亡くなった2人でした。

出土した黄金の靴などは橿原考古学研究所の附属博物館にありますがレプリカがすぐ近くの斑鳩文化財センターに展示されていて係員に頼むと丁寧に説明してもらえます。

檜前寺

於美阿志神社
於美阿志神社

最近は古墳の話題が多いということで今回はお寺「檜前寺」です。

飛鳥の中心部から少し離れているので観光客も若干、少ない地域です。真弓鑵子塚古墳、与楽乾城古墳など真弓丘にある被葬者は東漢氏とみられていますが、東漢氏が根拠地としていたのが飛鳥の檜前(ひのくま)です。応神天皇の時代に阿智使主が百済から日本へ渡来して与えられた土地で、東漢氏の祖となり氏寺が檜前寺でした。

686年の日本書紀に檜前寺の記載があるので、この時期にはできていたようです。江戸時代に本居宣長が訪れた時には庵のような状況になっていたようです。近くにはキトラ古墳や高松塚古墳があります。発掘調査の結果、塔を挟んで南に金堂、北に講堂が位置し、中門は西側に位置し、回廊でつながる、ちょっと変わった伽藍配置になっていました。礎石跡などが残っています。

現在は檜前寺跡に於美阿志神社(祭神は阿智使主とその妻)が建っています。

与楽乾城古墳

与楽乾城古墳
与楽乾城古墳

飛鳥から越智に抜ける街道沿いにあるのが与楽乾城(ようらくかんじょ)古墳です。ずっと山奥に向かって与楽古墳群があります。 

掘削されたこともあり、だいぶ崩れていましたが整備されていました。奈良県では高さ最大(5.1mのドーム型玄室)の横穴式石室を持つ古墳で入口は鉄扉で閉じられていますが、近づくと内部に電気がついて石室内を見ることができます。ただ、ほとんど観光客が来ない場所で、地元住民は車で移動しますから貝吹山へハイキングで行く人ぐらいしか立ち寄らない古墳です。あとは古墳マニアですね。 

被葬者は東漢氏の首長墓といわれています。真弓鑵子塚古墳など、ここらへんは東漢氏の死者の谷だったんですなあ。