確定申告

確定申告
確定申告

朝から家にこもって、ひたすら確定申告。E-Taxですが毎年、進化していて、だいぶ分かりやすくなりました。
初期の頃なんかユーザーがJavaをインストールしたり、いろいろなソフトの設定をしないと使えないと、とんでもない代物でしたが、まあまあ分かりやすくなっています。
とりあえず確定申告が終了したので、次は合同会社の決算をしないと、こっちがなかなか大変です。

鬼ノ城

鬼ノ城
鬼ノ城

岡山で仕事だったので、ついでに鬼ノ城へ行ってきました。古代の朝鮮式山城です。

白村江の戦いで唐・新羅の連合軍に大敗し、国家存亡の危機に陥ったため全国に造られた山城の一つです。大阪では高安城が造られました。

麓に砂川公園があり、レンターサイクルを置いて、ひたすら3.5kmの道を登ります。案内では東海自然歩道とあったのに歩いてみたら細い車道になっていて、時たま鬼ノ城に行く車に追い抜かれます。割とだらだらとした坂道なんで、帰りのことを考えたらレンターサイクルを持ってきたらよかった。道沿いにお地蔵さんがマイルストーンのようにあり、これを見学できるのは徒歩者だけですね。

鬼ノ城は発掘調査され西門などが復元されています。門は全部で4つあり、周囲を1時間ぐらいで巡ることができま、これがなかなか楽しめます。眺めはとってもいいですねえ。

五条野丸山古墳

五条野丸山古墳
五条野丸山古墳

近鉄・岡寺駅のすぐ近くにあるのが五条野丸山古墳。奈良で最大、全国でみても第6位の巨大な前方後円墳です。よく整備されて、上まで登れます。

丸山古墳には2つの石棺があり、被葬者は蘇我稲目などの名前があがっていましたが、飛鳥都塚古墳がどうやら蘇我稲目の墓のようですので、欽明天皇&堅塩媛(きたしひめ)堅塩媛(きたしひめ)の夫婦墓説が濃厚です。

欽明天皇といえば百済から仏教が伝わり、蘇我稲目と物部尾輿による崇仏派、排仏派の争いを巻き起こすことになります。任那が滅亡した時でもあり半島情勢が大変な時の大王でした。

さな建設業にも役立つITを活用した 業務効率化、生産性向上

桑名商工会議所
桑名商工会議所

桑名商工会議所・建設部会で「小さな建設業にも役立つITを活用した 業務効率化、生産性向上」という長いタイトルでセミナーをしてきました。

前半の建設部会そのものが、すこしおしたので若干、短めに調整してセキュリティの話までしてきました。

五条野城

五条野城
五条野城

近鉄岡寺駅近くに丸山古墳があったのを思い出し、それぐらい見ていこうと坂を登り始めると、あったのは八咫烏神社でした。一本道を間違えていました。

祭神は賀茂建角身命(かもたけつぬみのみこと)で、別名が八咫烏です。神武天皇を熊野から大和まで案内した導きの神様です。

戦国時代、この八咫烏神社は城として活用されました。五条野城で、国民だった五条野氏の居館跡と考えられています。1475年に越智氏・古市氏とともに筒井方と戦って破った記録が残っていますが詳しいことは分かっていません。八咫烏神社の周囲を土塁と堀が巡っていたようで痕跡が境内に残っています。

川原寺

川原寺
川原寺

岡寺から坂を降りてくると右に見えるのが川原寺跡です。発掘調査され一塔二金堂式の伽藍配置が復元されています。川原寺の右奥にあったのが飛鳥板蓋宮で、焼けた時に仮宮として川原宮が造られ、岡本宮に移った後に川原宮跡地に川原寺が創建されたと伝わっています。

城登りで疲れ果てましたので飛鳥板葺宮は素通りです。

お寺の奥に見えるのが甘樫丘。そう蘇我蝦夷の邸宅があった所です。飛鳥板蓋宮で蘇我入鹿がクーデター(乙巳の変)で殺された当日、この辺りは大騒ぎとなり、蘇我を攻める軍隊が終結していたでしょう。「韓人が鞍作(入鹿)を殺した!」という古人大兄皇子の発した言葉が、古代史の謎として諸説を生み出すことになります。

奈良湖の亀石

亀石
亀石

多武峰城塞群の出口が飛鳥の岡寺となります。帰りは近鉄線に出るしかないので、久しぶりに飛鳥をぶらつき、ついでにユーモラスな顔をしている亀石を見てきました。

古代、奈良湖があった時代、當麻の蛇と争って負けたことから水を吸い取られ奈良湖の亀が皆、死んでしまいました。哀れに思った村人によって造られたのが亀石だそうです。亀石の頭は南西を向いていますが、西(當麻)を向いた時に、奈良湖が復活するといわれています。万城目学あたりが小説に書きそうな題材です。

飛鳥や當麻は高台で奈良湖はもっと標高の低い郡山などの一帯のはずなので、亀石の奈良湖伝説はあまりあてにならないですね。

上居城(多武峰城塞)

上居城
上居城

談山神社・西口から飛鳥へハイキングコースが整備されていますが、そちらではなく旧の多武峰街道に入ります。もっとも街道とは名ばかりの山道です。念誦崛(ねづき)城を過ぎて少し行くと道が分岐していて万葉展望台まで1kmと立札があります。この道が飛鳥の岡寺と多武峰を結ぶ街道で、道沿いに6つほどの城があります。城名がついていませんが字名が上居なので上居城とでも言うしかなさそうです。

山城にはてんで役に立たないGoogleマップではなく、地理院の地図とGPS追跡システムをアプリに入れているので山城探しはバッチリです。6つの城を巡ろうと考えましたが、どう考えても街道から直登するしかない城が3つあったので早々にあきらめました。

この中で一番、見やすいのが万葉展望台で、飛鳥や二上山、當麻などを一望できます。この展望台が城の主郭でした。郭の周りには堀切や他の郭もあり、楽しめます。もう一つ岡寺近くに街道の両方に拡がる城があり、郭がいくつも広がっています。一番、飛鳥に近い城なので、この城が最前線でしょう。実は飛鳥の岡寺にも城があります。岡寺前の県道15号線を少し南に行くと次の丘陵になります。県道から丘陵下の常谷寺へ向かう階段があり、この階段横から岡城の空堀に入れます。郭は単郭で、多武峰城塞群とは関係あったのでしょう。

冬野城(多武峰城塞)

冬野城(多武峰城塞)
冬野城(多武峰城塞)

談山神社・西口から冬野へ向かう山道があり、これをどんどん登っていくと冬野城へ行けます。もっとも冬に、こんな山道は登る酔狂な人はおりません。冬野城は多武峰城砦群の中でも最大の規模で、南の吉野方面への備えの城になっています。平安時代末期には早々と築かれていたようです。多武峰は各峰に城が造られ、記録に残るだけで三度の多武峰合戦が行われました。

南北朝時代、多武峰は南朝の遺臣に占領されてしまい反幕府の拠点にされてしまいます。永享9年(1437年)から始まる「大和永享の乱」(越智、箸尾両氏の幕府軍への抵抗戦)では幕府軍に焼かれて全山全焼してしまいます。他にも永正3年(1506年)の幕府に派遣された赤沢朝経に対する大和国人一揆の抵抗戦(十市氏、越智氏、箸尾氏)、永禄2年(1559年)からはじまる松永久秀に対する十市氏の抵抗戦でも攻城戦となりました。

山道を登り冬野にたどり着きましたが、郭がある電波塔に入る道は塞がれていて入れません。集落の人に聞いたら登るしかないということなので、結局、郭まで直登でした。波多神社の境内があるところが郭の一つですが、境内の先に堀切を隔てて主郭がありました。たくさんの郭が造られており、各尾根筋には堀切がいれられています。見事なのが談山神社へつながる尾根筋で、3つの大きな堀切で尾根筋を断ち切り、そのまま山の下まで続く竪堀がありました。すごい工事だったでしょうね。