鳥谷口古墳

二上山の雄岳と雌岳の間にある馬ノ瀬から奈良側に下ると高台に鳥谷口古墳があります。方墳で石棺が残っています。大津皇子のお墓は雄岳に比定されていますが、実はこの鳥谷口古墳が本当の大津皇子の墓ではないかと言われています。

鳥谷口古墳
鳥谷口古墳

雄岳の墓はこんもりとしていますが古墳かどうかは定かではありません。また鳥谷口古墳の所在地が染野(しめの)という土地で標野(皇室や貴人が占有し、一般の者の立ち入りを禁じた地)からきているのではと言われています。額田王が「あかねさす標野行き野守は見ずや君が袖振る」と近江にあった標野で歌っています。また石棺が加工途中で急ごしらえで造ったようです。

鳥谷口古墳は山の中腹にあり畝傍山などがよく見えるので、二上山を弟と見るという万葉集の歌も矛盾がないようです。大津皇子の辞世の句は磐余の池で詠まれ、磐余の池跡に歌碑が建っています。

貝塚寺内町巡り

貝塚寺内町巡り
貝塚寺内町巡り

船場総研(中小企業診断士の勉強会である船場勉強会のOB組織)の催しで貝塚へ

Nifty-ServeのFlic(ライセンス)フォーラムから誕生していますので、なんやらかんやらで24年も続いています。来年は25周年ですね。

15時に貝塚駅に集合し、ガイドに説明してもらいながら貝塚寺内町を巡りました。海から見るとこんもりと山になっているところがあり、ランドマークになっていました。これが海塚で、転じて貝塚になったそうです。

感田神社から願泉寺、寺内町の北限などを1時間半ほど巡ります。時間は1時間半ほどでしたので駅前に着いたのが16:30頃。17時に予約していた駅前の「やたい寿司」が16時から開店していたので、これ幸いと宴会に突入しました。

二上山城(雌岳)

二上山の雄岳から馬ノ瀬に降りて、今度は雌岳に登ります。雌岳も山城跡で頂上の郭をとりまくように郭が配置されています。雌岳は周りの木が切りはらわれているので河内国、大和国ともよく見えます。二上山城は大和と河内の国境にある絶妙な位置にあり、昔から要の城になっていました。

二上山(雌岳)
二上山(雌岳)

二上山城を築いたのは楠木正成で河内国七城の一つであると考えられていますが裏付けはありません。確実なのは河内守護だった畠山氏が古市の高屋城の支城として二上山城を整備していました。室町時代にいろいろと改修され、合戦の舞台となりました。現在の城郭になったのは木沢長政の時代のようで木沢長政は河内、山城南部の守護代で主家を上回る下剋上を成し遂げた人物です。三好長慶に敗れて討死しますが、死ななければ信長や松永久秀のように著名な戦国武将となったでしょう。

二上山城(雄岳)

最近、奥方は山登りにはまっていますが、こちとら山登りには何の興味もなく、ついていくことはありません。

大津皇子墓
大津皇子墓

先日、二上山に登るということで、ついていきましたが目的は二上山城です(笑)。途中、二上山の麓に岡城があるんですが、岡城に入るには切岸を直登しないといけないので、さすがに文句が出るだろうとあきらめ、ゼイゼイ言いながら山登りを続けます。ようやく雄岳頂上の大津皇子墓跡へ。ここが郭の一つです。墓跡は横に回り込めますので高い切岸を楽しめることができます。

雄岳にある山城は神社のある頂上部から北東と南西の尾根沿いに郭が続きます。

立売堀

大阪の難読地名である立売堀(いたちぼり)の近辺で最近、仕事をしています。

立売堀川
立売堀川

名前の由来は諸説ありますが、その一つが大坂の陣。この地域を陣地にしていたのが伊達政宗。大坂夏の陣では、「道明寺の戦い」で後藤又兵衛らと戦います。遅れて到着した真田信繁とも交戦しますが、後退を余儀なくされます。

陣地にしたので堀を作っていましたが、堀跡を掘り進んで川としたことから伊達堀(「だてぼり」が「いたちぼり」に変化)と呼ばれるようになります。この川の沿岸で材木の立売(たちうり)が行われるようになり字を立売堀と改めますが、読みは「いたちぼり」のままなので難読地名となりました。

江戸時代の大坂は水運が発達し川だらけで、ここから西に流れていたのが立売堀川です。近くには2つの川が交差し四つの橋がかけられた四ツ橋がありました。

ボジョレーヌーボー解禁

ボジョレーヌーボーの解禁です。ということで解禁日に届いたボジョレーヌーボーをいただきました。

ボジョレーヌーボー
ボジョレーヌーボー

ボジョレーヌーボーといえば40年ぐらい前、SRA関西支社でシステムエンジニアをしていた頃、解禁日に先輩から下宿にボジョレーヌーボーの樽が届きます。「おお!ラッキー」と思ったらメールが来て、1週間後にワインパーティを開催するから送った樽を持ってこいと書いてあります。

なんで自分のところに送らないのかと樽についていた説明書を読むと、樽には濡れ雑巾などをかけて乾燥しないようにしないと注意書きがあります。面倒な作業を押し付けられたのですした(笑)。ちょうど前のプロジェクトが終わって残業もあまりなかった頃なので、会社から下宿に戻って、せっせと雑巾などをかけておりました。樽といっても運べる大きさですが、まあまあな重量ですので、約束の日はバックパッキング用のリュックに括りつけて運びます。

樽のメンテナンスが完璧なんで、とってもおいしかったですね。

新宮神社 表門

甲賀にあるのが新宮神社。神社の門は1485年のものだそうです。ちょうど室町時代で、都の徳政一揆、山城国一揆、加賀の一向一揆などが起きた騒然とした時代です。この後、北条早雲や斎藤道三が活躍する戦国時代になります。

新宮神社 表門
新宮神社 表門

門は茅葺の八脚門で国の重要文化財になっています。甲賀地域には甲賀郡中惣と呼ばれる大きな連合組織がありました。また各地域では惣寄合がもたれ、合議制によって様々な決め事や問題解決にあたります。この新宮神社も話し合いがもたれた舞台の一つで当時の記録にも名前が出てきます。嵐の大野智が主演を務めた映画「忍びの国」でも神社での談合シーンが出てきましたが、あちらは伊賀なんで敢國神社ですが、あんな雰囲気だったのでしょう。

倉治城

Googleマップはどんどん優秀になっていて山城の本などに出てこないマイナーな城まででてきます。甲賀へ行った時にGoogleマップで見つけたのが倉治城というお城。

倉治城
倉治城

実際に行ってみたら高台になっていて確かに城を造るには敵地です。跡地は農地や住宅が建っていましたが、低い土塁が残っていました。東側は高台ですが西側がなだらかに丘が続いているので、こちらには堀切かなにかを設けてのでしょう。倉治と呼ばれる集落で、ここは甲賀53家の一つである倉治氏が支配していました。

第9代将軍・足利義尚が近江守護・六角高頼を攻めた鈎の陣では倉治氏は六角氏側で武功をあげたようです。鈎の陣は甲賀忍者がはじめて登場したと言われる戦いでした。

古河大阪ビルディング

今日は久しぶりに都会でお仕事(笑)。

古河大阪ビルディング
古河大阪ビルディング

堺筋本町界隈はオフィス街ですが高層建築というとタワマンばっかり。さすがに中ノ島界隈はオフィスの高層建築がけっこうあり都会の雰囲気です。大阪もようやく涼しくなってきたこともあり、紅葉がすすんでいます。

中之島フェスティバルタワー・ウエストに上がってきました。橋の向こうにサントリービルが見えるのですが古河大阪ビルディングは更地になっていました。SRAでシステム開発していた頃、分室があり徹夜などもよくやっていたのですが、なくなってしまいましたね。

ファイティング・コンサルタンツ研究会 灘へ

中小企業診断士の研究会のはずが最近は歴史巡りと酒飲み集団になりさがっているファイテンング・コンサルタンツ研究会です。

さかばやし
さかばやし

昨日は最初からお酒ということで灘へ。灘五郷のうち魚崎郷、御影郷を巡ってきました。菊正宗酒造記念館~白鶴酒造資料館~神戸酒心館~さかばやし、という定番コースです。白鶴では観光バスも止まっていてインバウンドが少し復活していました。

ファイテンング・コンサルタンツ研究会は20年の歴史がありますが、名付け親も珍しく参加していました。最後は御影駅へ出て、駅前にある焼き鳥屋の前で17時のオープンをひたすら待って、宴会開始。ワイワイやっておりました。