天王寺砦

天王寺砦
天王寺砦

天王寺砦があったのが四天王寺夕陽丘駅のすぐ近くにある月江寺で、昔は門前に堀跡があったとされています。何も遺構は残っていません。月江寺は上町台地の上にあるので西側は崖になっています。ここで行われたのが「天王寺砦の戦い」。天王寺砦を守っていたのが明智光秀と佐久間信栄(佐久間信盛の息子)ですが本願寺勢に包囲されてしまいます。急報を受けた織田信長は若江城に入り、3000ほどの兵を集めて、本願寺勢1万5千に突撃します。

織田軍は敵陣を切り崩して、天王寺砦の守備隊と合流しますが、信長自身も陣頭で自ら戦い、敵の鉄砲を足に受けて軽傷を負います。織田軍は体制を立て直そうとしていた本願寺勢を再度、攻撃して撃破。最終的に織田軍の勝利で終わります。

木津砦

木津砦
木津砦

織田軍が天正4年(1576年)5月3日に木津砦に攻撃をかけます。第一陣が三好康長・根来衆・和泉衆、第二陣が塙直政・大和衆・山城衆でした。ところが石山本願寺の楼の岸砦から約1万が援軍にかけつけ、最終的に織田軍は崩壊し、織田方の天王寺砦が包囲される事態になります。

木津砦があった場所が今宮駅近くの出城と言う場所。今も地名が残っていてニトリの横に出城公園があります。このあたりに砦がありましたが遺構は何も残っていません。微高地になっているので、周りは沼かなにかになっていたのでしょう。石山本願寺や楼の岸砦は上町台地上にありましたが、木津砦は台地を降りた西側にあります。真田丸みたいな出城だったんでしょう。少し歩くとOMO7大阪(星野リゾート)があります。

楼の岸砦

天満橋にある「エルおおさか」に大阪府の総合就業支援拠点「OSAKAしごとフィールド」があり、昨日は「働く女性・働きたい女性のための相談会」が開催されていました。副業型創業の相談も多いということで大阪府よろず支援拠点から出張して相談しておりました。

楼の岸砦
楼の岸砦

「エルおおさか」は上町台地の端にあり、目の前の大川には八軒家浜船着場がありました。江戸時代、京都の寺田との間に船運が結ばれていました。戦国時代にエルおおさかの横の高台になった所にあったのが楼の岸砦です。そう石山本願寺の砦です。

天正4年(1576年)5月3日に織田信長軍が木津砦(今宮駅ちかくにありました)を攻撃したところ、楼の岸砦から本願寺勢・約1万が討って出てきて、雑賀衆が数千丁の鉄砲で銃撃を加えます。大和守護だった塙直政などが討死します。この後の大和守護を巡って松永久秀と筒井順慶が争うことになります。塙直政を打ち破った一揆勢はそのまま明智光秀らが守っていた天王寺砦に襲い掛かり、落城寸前のところに織田信長が駆けつけて救いますが信長は敵の鉄砲を足に受けて軽傷をおうことになります。

楼の岸砦でも激戦となり蜂須賀小六が活躍いています。砦跡はなにもなく坐摩神社行宮近くにあったと伝わっています。ちょうど工事中でした。

高木大山付城

高木大山付城
高木大山付城

三木ホースランドという乗馬教室などができる大きな公園があるのですが、ここの入口近くにあるのが高木大山付城です。ここも織田信忠が築いた6箇所の付城の1つで、誰が守っていたかは分かっていません。道路のすぐそばにあり、土塁などは長年の風化で低くなっていますが、形は分かります。主郭の虎口が食い違いになっていたり、けっこう技巧的な縄張りになっています。

シクノ谷峯構付城

シクノ谷峯構付城
シクノ谷峯構付城

シクノ谷峯構付城跡も小林八幡神社付城や明石道峯構付城と同様に天正7年(1579)4月に織田信忠が築いた6箇所の付城の1つのようです。誰が守っていたかはわかっていません。3つの郭から構成され郭を囲む土塁などが残っていました。案内板もあって分かりやすいし虎口も残っていました。

三木城攻めでは3回に分けて付城が造られましたがシクノ谷峯構付城跡は第二期に築かれた陣城群の一つになります。

明石道峯構付城

明石道峯構付城
明石道峯構付城

明石道が直下を通過する尾根の先端にあるのが、明石道峯構付城です。パターゴルフ場があって、ゴルフ場の横の山道を登っていくと3つの郭で構成された城に入れます。織田信忠が築いた6箇所の付城の1つと考えられますが、誰が守っていたのかは不明です。東に広大な副郭があるので、ここに兵が駐屯したのでしょう。

主郭は土塁が全部をとりかこんでいて、虎口は東西にあり、西側の虎口には櫓台もありました。ここも「三木城跡及び付城跡・土塁」として国指定史跡となっていて、説明版などが充実しています。

小林八幡神社付城

城攻めでは拠点となる付城(陣城)を造るのがパターンですが、信長、秀吉は大々的な付城を造っていました。よく残っているのが三木です。天正6年(1578)~天正8年(1580)三木城主・別所長治と秀吉が戦った三木合戦です。三木城を取り囲むように約40ヵ所築かれたようですが、半分の20ヵ所が現存しています。こんなに残っているのは珍しいですね。

小林八幡神社付城
小林八幡神社付城

ということで新開地から神戸電鉄に乗り込んで志染駅へ。ここからちょっと行ったところにあるのが小林八幡神社付城です。主郭になっていたところが社殿になっていて、土塁はさすがに低くなったいますが、きちんと残っています。少し高くなっているところがあり、ここが櫓台だったようです。4つの郭で構成されていました。正7年(1579)4月に織田信忠の軍勢が築いた6箇所の付城の1つと考えられますが、誰が守っていたかは伝わっていません。

鈴山城

五位堂駅から馬見丘陵公園へ向かう時にニュータウンの中を通る遊歩道が便利なんですが、この遊歩道に入ってすぐの所にあるのが鈴山城です。アクセスしやすいので3、4回は来ていますね。遊歩道を作る時に発掘調査され南北朝時代に造られたようで、城主などは伝わっていません。すぐ近くには瓦城があります。

鈴山城
鈴山城

遊歩道には案内も何もないので、調べてから行かないと入口はまず分かりません(笑)。遊歩道から城跡に入ると高さが4~5mほどある堀が迎えてくれます。ずっと堀が続いていいますが土橋から郭内に入ることができ、井戸などを見ることができます。北西隅には古墳を利用した櫓台状の高まりもあります。

合同会社MITS 第7期目へ

本日はひな祭り!ひな祭りと言えば合同会社エムアイティエスの創立記念日です。

実際は、何も気にせず、たまたま法務局に書類を持ちこんだ日が、3月3日のひな祭りだったというだけです。書類を受理した日が法人設立日になるんですね。2017年3月3日に設立しましたが、無事に第7期目を迎えました。

取出山砦

鳥羽城の向かいにある日和山にあったのが取手山砦。久しぶりに登ったら、きれいに整備されていました。津波対策で市街地からすぐに避難できるように整備されたようです。鳥羽は国人だった橘氏が代々、住んでいて伊勢国司である北畠氏に属していました。鳥羽殿と呼ばれていたようで、出入りする船から関銭を徴収していました。織田信長が伊勢へ侵攻すると、北畠陣営だった橘氏は織田に味方した九鬼嘉隆に攻められて降伏します。

取出山砦
取出山砦

取手山砦、以前の郭はうっそうとした藪でしたが、きれいに整備されていました。堀切には橋が渡されていました。