近鉄・京阪奈線がストップ

近鉄京阪奈線

生駒周辺でかなりの雨が降り、生駒ー白庭台間のトンネルに土砂が流れ込んだようで、昨日の20時頃から長田ー学研奈良登美ヶ丘間が不通になってしまいました。京阪奈線は地下鉄・中央線とつながっているんですが中央線の終点である長田駅止まりになっています。

昨日はウチの息子が巻き込まれて近鉄奈良線に迂回して帰ってきました。今朝も不通になっていて、ウチの奥さんも近鉄・奈良線経由で出勤していきました。生駒駅に車両基地があるので生駒折り返し運転にしたらよいのに、そうはいかない事情があるんでしょうね。昔は生駒が終着駅でした。

石切神社の最寄り駅が新石切駅なのでお百度参りの参加者が少し減りそうです。

ミニ日本列島

昆陽池

伊丹にある昆陽池(こやいけ)公園にあるのがミニ日本列島。実際に現地に行くと、こんもりとした森で何がなにやら分かりません。上空からだとよく分かります。

伊丹空港から離陸した時に、ちょうど昆陽池上空を飛びましたのでバッチリ撮ってきました。昆陽池はもともと行基が造ったとされる溜池で、1972年に野鳥を呼べる公園として整備した時にミニ日本列島を作りました。日本列島の長さは250メートルほどで、実際の1万分の1ほどの大きさとなります。生育しすぎて北海道も四国も九州も本州にくっついた形になっています。

尾瀬

♪夏が来れば思い出す...水芭蕉の花が咲いている

尾瀬

夏の尾瀬に行っても水芭蕉は咲いていません。水芭蕉のシーズンは5月終わりから6月初めで、作詞家は尾瀬に行ったことがなく想像で作った歌でした。つまりフェイクニュースですねえ(笑)。もっともシーズンに行くと、すごい観光客で、ごった返しているそうです。梅雨前ぐらいだと、水芭蕉が少し残っていて他の高山植物がいろいろと咲いています。

尾瀬というと湿原と木道イメージですが、ここまでたどり着くのに90分は歩かないといけません。宣伝パンフレットなどを信じていくと、えらい目にあいます。木道を歩いていると歩荷(ぼっか)さんとすれ違ったりします。

高野東城(甲賀)

高野東城(甲賀)

高野東城(甲賀)

甲賀町高野の寺井集落の北方丘陵先端部にある城で近くに高野城があり支城のようですが、高野東城も大きく並立していたのかもしれません。高野城には案内板がありましたが、こちらは何もありません。

溜池横を進んでいくと、右手に壁のような斜面がみえはじめます。頂上は削平地になっていそうで郭跡のようです。登る道がどこにもないので斜面を直登。ようやく登りきると平坦地があり、郭跡になっていました。さらに奥に進んでいくとコの字に土塁が巡った主郭があり土塁は一番高いところで4mほどでした。

この主郭の奥に祠があり、祠のところから参道が出ていました。こっちを登れば苦労して直登しなくてもすみましたが、登る前には分かりませんね。

夏越の祓

夏越の祓

早いもので2024年も上半期が終わりですね。

「チコちゃんに叱られる!」で以前に「大人になるとあっという間に 1年が過ぎるのはなぜ?」という問いがありましたが、 チコちゃんの答えは、「人生に トキメキがなくなったから」でした。もっと山城を巡ってトキメかないと(笑)!

枚岡神社へ行って夏越の祓のために人形などを納めてきました。境内には茅の輪くぐりの準備が行われていました。

高野城(甲賀)

高野城(甲賀)

高野城(甲賀)

昔から城跡があると伝わっており、小規模な土塁を持つだけの単純な城館遺跡とみられいました。北側に続く丘陵上で第二名神の建設が行われることになり、発掘調査が実施されました。すると平坦面が4つと、10カ所の堀状の凹地が確認されます。この結果から、東西250m、南北230m以上にわたり広い城域があったようです。

1570(元亀元)年前後には、織田信長が甲賀に侵攻しており対応するために、いろいろと工夫をしたようです。案内板があるところから山の中に分け入ると、すぐに城域です。一番最初の郭から登っていくと主郭にはいれ、周囲を土塁が巡っています。一部、分厚くなっているところがあり櫓台があったのでしょう。

篠山城(甲賀)

篠山城(甲賀)

篠山城は甲賀町鳥居野にあります。虎口から入ると長方形型の土塁に囲まれ2つの郭跡がまっています。少し藪がありますが、郭の形もよく分かり、もう一つの虎口も残っていました。

篠山城を築いたのは篠山氏です。本家が甲賀五十三家である大原氏で、大原景春が篠山に改姓し初代となりました。秀吉の時代、紀州の根来・雑賀の一揆を鎮圧するため甲賀衆が動員されて太田城・水攻めの堤を築かせましたた。ところが秀吉は不備であったと難癖をつけて甲賀衆の所領を没収します。大原氏はもともと三河武士だったようで篠山景春は徳川家康との関係を築いていました。

秀吉が死ぬと、笹山景春は近隣の代官に取り立てられ、豊臣勢力に備えて篠山城を築城したようです。関ヶ原の戦いの前哨戦となった伏見城籠城戦で徳川側として戦い討ち死にします。家康は功に報いるため、子孫を江戸城警護役や旗本(鳥居野の領主)として遇しました。

「改正三河後風土記」によると会津の上杉景勝を討つため伏見を出て石部で宿泊をしていたところ、水口岡山城主・長束正家が家康を岡山城へ招きます。篠山景春は、豊臣方の陰謀だと家康に告げ、夜中に鈴鹿峠まで家康を送ったと記録されていますが、長束正家は三成とも連携できていないはずですので、どうですかねえ。

竹林城(甲賀)

竹林城

甲賀駅から北に向かうと慶徳寺があり一帯に築かれたのが竹林城です。北側を大原川が流れていて堀替わりになっています。寺の入口付近に、すごく低くなっていますが土塁跡が少し残っています。ただ基部に石積みされ改変はされています。北側にも土塁があるということで寺の裏側にまわると、こちらは少し高めの土塁がそのまま残っていました。

甲賀、伊賀に多い四角形の城郭型で室町時代に造られたでしょうが、詳しいことは分かっていません。周りは住宅地になりましたが何とか残りました。

大原城

大原城

大原城

甲賀駅の近くにある城跡で子孫が今も住んでいます。とは言いながら屋敷などは現代風で屋敷を取り囲む土塁や堀跡がそのまま残っています。

もともとは大原数馬が城主で大原氏は甲賀53家の一つになります。大原氏は今も健在で城跡を居宅しており中世から数百年も城を守り続けています。大原家では忍術書「万川集海」を伝えており、大原数馬らが江戸幕府に献上しました。いわゆる忍術技術書で、伊賀・甲賀で一子相伝とされた忍書からの抜粋を体系的に集大成したものです。

水蜘蛛はでてきますが手裏剣は登場しません。

補陀楽寺城跡(甲賀)

補陀楽寺城跡

補陀楽寺城跡

JR草津線に乗っていると甲賀駅に停車する手前に寺が見えて敷地内に土塁のようなものが見えます。前から気になっていたのでのぞいてきました。補陀楽寺はもともとは近隣にあったのが火災で現在地に移ってきたため、その前に城があったようですが、城に関しては皆目わかっていません。

東西南北を土塁で囲まれていましたが今は北側と東側の2ケ所に残っています。発掘調査の結果では甲賀に逃れた六角氏と織田信長が戦っている頃の遺物が出ていますが、はっきりしたことは分かりません。近くには杣街道(古代の東海道)が通り、JRの線路の反対側には市場陣山城があります。