西国街道をゆく(瀬川・半町)

瀬川・半町宿

阪急電車箕面線の桜井駅前を通っているのが西国街道です。少し西に行くと瀬川・半町(はんじょう)宿になります。山崎宿からだと芥川(高槻)、郡山(茨木)の次の宿場が瀬川・半町宿です。といっても痕跡はなにも残っていません。大勢の軍が移動するには街道を使うしかありませんので、ここらへんで戦いが行われます。

瀬川合戦
護良親王による倒幕の令旨に従って播磨の赤松則村(円心)軍が六波羅探題軍と対峙します。猪名川付近の戦いで赤松側が敗退しますが、兵を率いて瀬川宿に陣をかまえていた六波羅探題軍に夜襲をかけ、打ち破りました。

豊島河原合戦
倒幕後、南北朝の時代となり足利尊氏と新田義貞・北畠顕家が戦ったのが瀬川宿から少し西に行った箕面川のあたりです。豊島河原合戦で足利尊氏は敗れ九州に落ちていきます。

西国街道をゆく(牧落)

牧落

西国街道を西に行くと阪急・箕面線の牧落(まきおち)駅近くに出ます。牧落駅は箕面商工会議所へ行く最寄り駅なんですが、まあまあ距離があり昔、夜のセミナーで行った時に真っ暗な住宅街を通っていかなければならず、ほんまに着くんかいなと思った記憶があります。

近くに西国街道があり、牧落の集落がありました。箕面大阪道と西国街道が交わるところに高札場があり道標がありました。昔は交通の要衝でしたが、今は単なる四つ辻です。お婆さんが「今日も暑いですなあ」と言いながら通り過ぎていきました。古代は牧草地だったようで摂津国・豊島(てしま)牧でした。各地から貢上された牛馬を一時的保管するための牧だったようです。

西国街道をゆく(萱野三平)

萱野三平宅

箕面萱野駅は萱野にあります。そうです!萱野といえば萱野三平です!

まもなく忠臣蔵シーズンですが萱野三平は浅野長矩に中小姓として仕え、浅野長矩が松之大廊下で吉良義央に刃傷におよんだ時に早駕籠で江戸から事件の第一報を赤穂へ伝えました。萱野三平は討入メンバーに加わりましたが父親から別の家へ士官せよろ言われ、父への孝行との間で板ばさみとなり自刃します。28歳でした。仮名手本忠臣蔵のお軽/勘平のモデルになっています。

西国街道を西に向かうと萱野三平の屋敷跡があります。屋敷跡と長屋門があり自刃した部屋も公開されています。

西国街道をゆく(箕面萱野駅)

箕面萱野駅

楠水龍王から西に西国街道を歩くと箕面萱野駅の高架下に着きます。地下鉄御堂筋線が江坂から北大阪急行になり、以前は千里中央駅が終点でしたが2024年3月に箕面萱野駅まで延伸されました。真新しい駅で北改札口からは、みのおキューズモールと直結しています。なかなかでかい施設ですがキューズモール自体は2003年に開業しているそうです。無印良品やMont bellなど、おシャレなお店が並んでいて、縁なき衆生であります。

以前は千里中央駅が始発だったので、のんびり本町駅まで座っていけましたが延伸されたため、もうムリですねえ。

枚岡神社 秋郷祭り2024

太鼓台

枚岡神社、秋郷祭りは毎年、14日・15日の日程固定でしたが大阪で働いている人も多くなり、土日でないと担ぎ手を確保できないことから宮入は土日開催になりました。ただし本祭りは14日に行われます。地元の会社は基本、休みです。学校は一応、やってますけど「先生、太鼓台かつぐんで休みね」と先生も黙認しています。

10月に入ると太鼓台の練習で町中に太鼓の音が流れるのも風物詩ですね。

一の鳥居から坂を登り、近鉄奈良線の踏切前でいったんストップ。近鉄電車の合間を通って枚岡駅の横の踏切越えをしていきます。踏切を超えたところから最後の急坂がまっています。

船場総研26周年 近江八幡ツアー

ヴォーリズ

船場総研という高齢化がすすんでいる団体があり、話題といえば病気の話になっています(笑)。これでも中小企業診断士の集まりですので、格調高くガイドに案内してもらい近江八幡に残るヴォーリズ建築をめぐってきました。ヴォーリズといえば大丸心斎橋店本館や関西学院大学、神戸女学院の建築などで有名ですが初期の建物などが近江八幡にたくさん残っています。特に煙突に特徴があり、横に穴があいています。

太平洋戦線が終わった時、天皇の戦犯扱いが問題になった時にマッカーサーと日本との間の交渉にヴォーリズが活躍していた話、「あさが来た」の広岡浅子との交流、「たねや」がなぜクラブハリエを始めるようになったのかなど、いろいろな秘話も聞けました。

西国街道をゆく(楠水龍王)

楠水龍王

西国街道で坂を登っていくと春日神社御旅所があります。須賀神社がありましたが、御旅所なので春日神社の祭礼で神輿を迎える場所です。御旅所のすぐ前に楠水龍王があります。

桜井の駅で楠木正行と別れた楠木正成は九州から攻め上ってくる足利尊氏に対抗するために湊川(兵庫)へ向かいます。西国街道で西に向かう途中、小庵で冷たい井戸水を楠木正成が賞味したことから、この井戸は楠公の井戸と呼ばれるようになり、旅人たちが必ず立ち寄り、愛飲したと伝えられています。

西国街道をゆく(郡山宿)

郡山宿

郡山城まで歩いた道を戻って西国街道に合流。少し歩くと郡山宿がありました。京都から西宮までに山崎、芥川、郡山、瀬川・半町、昆陽、西宮の6つの宿場があり、郡山宿はちょうど中間にあります。江戸時代は旅籠が29軒あったそうです。郡山宿には本陣が残っていて門のそばに椿の木があり、花を咲かせたことから、「椿の本陣」とも呼ばれていました。

浅野内匠頭が、元禄10~14年(1697~1701)まで毎年宿泊した記録が残っています。本陣経営は大変で、固定料金ではなく、大名から支払われる謝礼が収入になるため、貧乏な藩は、けちることになります。また椿の本陣を参勤交代で利用した回数は、1年あたり平均22.7日で、月2日にも満たない低い稼働率でした。江戸時代後半には本陣をやめるところも出てきます。。

もっとも参勤交代をアテンドする藩士も大変で、長雨などで足止めになり旅程が狂うと本陣予約などをやり直さなければなりません。連絡はスマホなどないので、もちろん藩士の足です。また江戸に入る前に行列を立派に見せるために口入屋に依頼してアルバイトを集めました。

摂津郡山城

摂津郡山城

西国街道を歩いていると摂津山崎城があることを見つけ、西国街道から大きくはずれて、せっせと丘を登ってきました。丘の上に浪速少年院がありますが、ここらへんにあったのが郡山城です。いつ造られた城かわかりませんが城主だった高利平太夫(郡兵太夫)は高槻城城主和田惟政の家臣でした。和田惟政は荒木村重や中川清秀らの軍勢と白井河原合戦で戦い敗れ、この時に郡平太夫は討死したといわれています。

信長や秀吉も郡山城を使ったようです。少年院の工事で大きな石が発見され城の遺構とみられています。碑だけが建っていました。また古い地名として物見塚、門口、城の内などが残っています。

西国街道をゆく(白井河原合戦跡)

白井河原合戦跡

西国街道と亀岡街道が交わる中河原の近くを茨木川が流れています。この一帯で行われたのが白井河原合戦です。街道でないと軍などの物流が動きませんので、必然的に街道沿いで合戦が行われます。白井河原合戦が行われたのは元亀2年(1571年)で、織田信長が比叡山焼き討ちをした年です。

信長の周りが敵だらけで一番しんどかった時です。摂津では池田氏家臣だった荒木村重が三好三人衆方に寝返り、中川清秀を誘って当主である池田勝正を追放しました。義昭が将軍になる前に甲賀にかくまっていた和田惟政が摂津守護になっていましたが、この和田と荒木・中川連合が対立します。三好三人衆と結ぶ荒木村重・中川清秀らの軍が、義昭方の茨木重朝・和田惟政軍を破った戦いが白井河原合戦です。これで摂津三守護(池田勝正、伊丹親興、和田惟政)は勢力を失うことになります。