西国街道をゆく(中河原)

中河原

西国街道を西に向かうと中河原といく交差点に出ます。亀岡街道と西国街道が交差する交通の要衝でした。今はなんてことのない交差点ですが、当時は賑わっていたんでしょうね。

中河原には中川清秀由緒地という碑があり、戦国大名である中川清秀が生まれた近辺のようです。摂津には和田氏、茨木氏、伊丹氏、池田氏がいましたが衰退や没落してしまい、荒木村重、高山右近とともに中川清秀が台頭します。中川清秀は茨木城の城主になりますが、有岡城の戦いでは荒木村重側にたち茨木城を攻められ降参します。そのあとは丹羽長秀や池田恒興の配下として転戦します。

本能寺の変後では秀吉側につき山崎の合戦で高山右近とともに先鋒をつとめました。賤ヶ岳の合戦で大岩山砦を守備していたところ佐久間盛政が余呉湖を迂回し中入りして攻撃してきたため応戦しましたが討ち死にしました。砦跡に墓が建っています。

西国街道をゆく(太田城)

太田城

西国街道を歩いていると太田茶臼山古墳の案内版に太田城の文字を発見。さっそくGoogleマップで検索すると和歌山の水攻めで有名な太田城が出てきました(笑)。次は地名をいれて検索し、ようやく場所が判明。西国街道を少しはずれて、太田城を見てきました。城跡はなく石碑だけですが、微高地になっています。城の前町といった地名が残っていました。

場所は追手門学院大学・茨木総持寺キャンパスのすぐ近くで城下町になっていたところはイオンタウン茨木太田になっていました。太田城はすごく古く平安時代末期、1180年前後に太田頼基が築いたといわれています。多田源氏(摂津源氏)ですが、厳密には源満仲(多田源氏の祖)の次男・頼親に始まる系統です。

「平家物語」によると源義経が頼朝と対立し西国に向けて都落ちする一党に対し、「我が門の前を通しながら、矢一つ射かけであるべきか」と太田頼基が少数の手勢を率いて摂津河原津で義経一党と合戦(河原津の合戦)しますが、多勢に無勢で敗れたそうです。

西国街道をゆく(太田茶臼山古墳)

太田茶臼山古墳

今城塚古墳から西国街道を西に進んでいくと宮内庁が継体天皇陵と比定している太田茶臼山古墳に着きます。ここも街道のすぐ横でランドマークになっていたんですね。出土した埴輪から継体天皇の時代より前で、被葬者はわかっていませんが応神天皇の孫である意富富杼王(おおほどのおおきみ 継体天皇の曽祖父)という説があります。ここは天皇陵として宮内庁が管理しているので中に入れません。

古市に誉田御廟山古墳(応神天皇陵)があり、太田茶臼山古墳より大きいのですが、形がまったく一緒で同じ設計図から作られています。意富富杼は越前や近江の息長氏、坂田氏などの祖となります。息長氏は近江国坂田郡が本拠地で、有名なのが神功皇后(おきながたらしひめのみこと)。継体天皇はこの息長氏系で、応神天皇の5世の孫です。今でも5代前といわれると分からない家が多いでしょう。ですので皇統の交代があったという説もありますが、少なくとも継体天皇の時代から現在まで皇統が続いています。

任那割譲問題など外交上の諸問題が起きていた時期で、越前、近江といった物流を抑え、力があった継体天皇をピンチヒッターで担ぎ出したんでしょう。

西国街道をゆく(今城塚古墳)

今城塚古墳

嶋上郡家を過ぎて西国街道を歩いていく今城塚古墳のすぐ横に出ます。古墳に行くには摂津富田駅からかなり歩く必要がありますが、当時はメイン街道の横にあり、よく見えるランドマークだったのでしょう。今城塚古墳は継体天皇陵というのが定説で、宮内庁が別の古墳を継体天皇陵にしているので古墳に登るのも自由です。つまり会いに行ける天皇陵です。

古墳には崩れた土塁や堀のようなところがあり、1568年(永禄11年)に織田信長が三好家を攻める際に城砦として改変したと考えられ、今城という名前になっています。発掘調査によると秀吉が建設中の伏見城が倒壊した伏見大地震による地滑りだったようです。ただ火縄銃の弾丸も見つかっており城砦として使われたのも確かなようです。

西国街道をゆく(嶋上郡家)

郡家

西国街道をゆく(嶋上郡家)

西国街道を歩いていくと郡家新町という住所があります。こんな古い町名がよく残っていますねえ。郡家とは律令制度時代に郡の官人(郡司)が政務を執った役所のことで郡衙ともいいます。伝馬制のために街道をゆく使者が利用する馬も用意されていました。律令時代、全国を60あまりの国に分け、さらに国を郡に、郡を里に区分していました。里は住民50戸程度で郡は2~20里ですので、今でいう町になります。このあたりは摂津国嶋上郡でした。

嶋上あたりの西国街道は幅はずいぶん狭くなりましたが、古代の山陽道とほぼ同じ位置を通っていました。当時の街道は溝をそなえた幅約10~12mの幅があり、ひたすらまっすぐで、まっすぐ通すために古墳が破壊されていました。嶋上郡家からは儀式の場である庁院や税を納める正倉などが見つかっています。庁院の西側には郡寺(芥川廃寺)もありました。