西国街道をゆく(郡山宿)

郡山宿

郡山城まで歩いた道を戻って西国街道に合流。少し歩くと郡山宿がありました。京都から西宮までに山崎、芥川、郡山、瀬川・半町、昆陽、西宮の6つの宿場があり、郡山宿はちょうど中間にあります。江戸時代は旅籠が29軒あったそうです。郡山宿には本陣が残っていて門のそばに椿の木があり、花を咲かせたことから、「椿の本陣」とも呼ばれていました。

浅野内匠頭が、元禄10~14年(1697~1701)まで毎年宿泊した記録が残っています。本陣経営は大変で、固定料金ではなく、大名から支払われる謝礼が収入になるため、貧乏な藩は、けちることになります。また椿の本陣を参勤交代で利用した回数は、1年あたり平均22.7日で、月2日にも満たない低い稼働率でした。江戸時代後半には本陣をやめるところも出てきます。。

もっとも参勤交代をアテンドする藩士も大変で、長雨などで足止めになり旅程が狂うと本陣予約などをやり直さなければなりません。連絡はスマホなどないので、もちろん藩士の足です。また江戸に入る前に行列を立派に見せるために口入屋に依頼してアルバイトを集めました。

摂津郡山城

摂津郡山城

西国街道を歩いていると摂津山崎城があることを見つけ、西国街道から大きくはずれて、せっせと丘を登ってきました。丘の上に浪速少年院がありますが、ここらへんにあったのが郡山城です。いつ造られた城かわかりませんが城主だった高利平太夫(郡兵太夫)は高槻城城主和田惟政の家臣でした。和田惟政は荒木村重や中川清秀らの軍勢と白井河原合戦で戦い敗れ、この時に郡平太夫は討死したといわれています。

信長や秀吉も郡山城を使ったようです。少年院の工事で大きな石が発見され城の遺構とみられています。碑だけが建っていました。また古い地名として物見塚、門口、城の内などが残っています。

西国街道をゆく(白井河原合戦跡)

白井河原合戦跡

西国街道と亀岡街道が交わる中河原の近くを茨木川が流れています。この一帯で行われたのが白井河原合戦です。街道でないと軍などの物流が動きませんので、必然的に街道沿いで合戦が行われます。白井河原合戦が行われたのは元亀2年(1571年)で、織田信長が比叡山焼き討ちをした年です。

信長の周りが敵だらけで一番しんどかった時です。摂津では池田氏家臣だった荒木村重が三好三人衆方に寝返り、中川清秀を誘って当主である池田勝正を追放しました。義昭が将軍になる前に甲賀にかくまっていた和田惟政が摂津守護になっていましたが、この和田と荒木・中川連合が対立します。三好三人衆と結ぶ荒木村重・中川清秀らの軍が、義昭方の茨木重朝・和田惟政軍を破った戦いが白井河原合戦です。これで摂津三守護(池田勝正、伊丹親興、和田惟政)は勢力を失うことになります。

西国街道をゆく(中河原)

中河原

西国街道を西に向かうと中河原といく交差点に出ます。亀岡街道と西国街道が交差する交通の要衝でした。今はなんてことのない交差点ですが、当時は賑わっていたんでしょうね。

中河原には中川清秀由緒地という碑があり、戦国大名である中川清秀が生まれた近辺のようです。摂津には和田氏、茨木氏、伊丹氏、池田氏がいましたが衰退や没落してしまい、荒木村重、高山右近とともに中川清秀が台頭します。中川清秀は茨木城の城主になりますが、有岡城の戦いでは荒木村重側にたち茨木城を攻められ降参します。そのあとは丹羽長秀や池田恒興の配下として転戦します。

本能寺の変後では秀吉側につき山崎の合戦で高山右近とともに先鋒をつとめました。賤ヶ岳の合戦で大岩山砦を守備していたところ佐久間盛政が余呉湖を迂回し中入りして攻撃してきたため応戦しましたが討ち死にしました。砦跡に墓が建っています。

西国街道をゆく(太田城)

太田城

西国街道を歩いていると太田茶臼山古墳の案内版に太田城の文字を発見。さっそくGoogleマップで検索すると和歌山の水攻めで有名な太田城が出てきました(笑)。次は地名をいれて検索し、ようやく場所が判明。西国街道を少しはずれて、太田城を見てきました。城跡はなく石碑だけですが、微高地になっています。城の前町といった地名が残っていました。

場所は追手門学院大学・茨木総持寺キャンパスのすぐ近くで城下町になっていたところはイオンタウン茨木太田になっていました。太田城はすごく古く平安時代末期、1180年前後に太田頼基が築いたといわれています。多田源氏(摂津源氏)ですが、厳密には源満仲(多田源氏の祖)の次男・頼親に始まる系統です。

「平家物語」によると源義経が頼朝と対立し西国に向けて都落ちする一党に対し、「我が門の前を通しながら、矢一つ射かけであるべきか」と太田頼基が少数の手勢を率いて摂津河原津で義経一党と合戦(河原津の合戦)しますが、多勢に無勢で敗れたそうです。

西国街道をゆく(太田茶臼山古墳)

太田茶臼山古墳

今城塚古墳から西国街道を西に進んでいくと宮内庁が継体天皇陵と比定している太田茶臼山古墳に着きます。ここも街道のすぐ横でランドマークになっていたんですね。出土した埴輪から継体天皇の時代より前で、被葬者はわかっていませんが応神天皇の孫である意富富杼王(おおほどのおおきみ 継体天皇の曽祖父)という説があります。ここは天皇陵として宮内庁が管理しているので中に入れません。

古市に誉田御廟山古墳(応神天皇陵)があり、太田茶臼山古墳より大きいのですが、形がまったく一緒で同じ設計図から作られています。意富富杼は越前や近江の息長氏、坂田氏などの祖となります。息長氏は近江国坂田郡が本拠地で、有名なのが神功皇后(おきながたらしひめのみこと)。継体天皇はこの息長氏系で、応神天皇の5世の孫です。今でも5代前といわれると分からない家が多いでしょう。ですので皇統の交代があったという説もありますが、少なくとも継体天皇の時代から現在まで皇統が続いています。

任那割譲問題など外交上の諸問題が起きていた時期で、越前、近江といった物流を抑え、力があった継体天皇をピンチヒッターで担ぎ出したんでしょう。

西国街道をゆく(今城塚古墳)

今城塚古墳

嶋上郡家を過ぎて西国街道を歩いていく今城塚古墳のすぐ横に出ます。古墳に行くには摂津富田駅からかなり歩く必要がありますが、当時はメイン街道の横にあり、よく見えるランドマークだったのでしょう。今城塚古墳は継体天皇陵というのが定説で、宮内庁が別の古墳を継体天皇陵にしているので古墳に登るのも自由です。つまり会いに行ける天皇陵です。

古墳には崩れた土塁や堀のようなところがあり、1568年(永禄11年)に織田信長が三好家を攻める際に城砦として改変したと考えられ、今城という名前になっています。発掘調査によると秀吉が建設中の伏見城が倒壊した伏見大地震による地滑りだったようです。ただ火縄銃の弾丸も見つかっており城砦として使われたのも確かなようです。

西国街道をゆく(嶋上郡家)

郡家

西国街道をゆく(嶋上郡家)

西国街道を歩いていくと郡家新町という住所があります。こんな古い町名がよく残っていますねえ。郡家とは律令制度時代に郡の官人(郡司)が政務を執った役所のことで郡衙ともいいます。伝馬制のために街道をゆく使者が利用する馬も用意されていました。律令時代、全国を60あまりの国に分け、さらに国を郡に、郡を里に区分していました。里は住民50戸程度で郡は2~20里ですので、今でいう町になります。このあたりは摂津国嶋上郡でした。

嶋上あたりの西国街道は幅はずいぶん狭くなりましたが、古代の山陽道とほぼ同じ位置を通っていました。当時の街道は溝をそなえた幅約10~12mの幅があり、ひたすらまっすぐで、まっすぐ通すために古墳が破壊されていました。嶋上郡家からは儀式の場である庁院や税を納める正倉などが見つかっています。庁院の西側には郡寺(芥川廃寺)もありました。