上之郷城

上之郷城

西三河で研修の仕事だったので、ついでに上之郷城へ。あくまでも仕事です。上之郷城はよく整備され、城跡からは三河湾が見渡せました。

上之郷城は鵜殿氏の城で鵜殿という名前から分かる通り、本貫は三重と和歌山の県境にある鵜殿です。やがて蒲郡一帯をおさめるようになり、鵜殿長照が上之郷城・城主でしたが今川義元の妹の子で義元の甥にあたり親戚でした。桶狭間の戦いの時は大高城を守っていましたが信長が鷲津砦、丸根砦を築き、大高城を封鎖したため、兵糧をいれたのが家康です。今川義元が討たれた後、家康は独立しますが、鵜殿長照は今川川に留まります。

■甲賀忍者が上之郷城をおとす
永禄5年(1562年)、家康は上ノ郷城を攻めますが、なかなか落ちません。そこで甲賀衆が城内に火を放ち、その混乱の中から攻め入り、鵜殿長照は討死にし、長照の子が捕らえられます。大河ドラマ「どうする家康」にも服部半蔵らが活躍するシーンが描かれていました。

城主・鵜殿長照を討ち取ったのは甲賀衆・伴与七郎という記録が残っています。

家康は駿府にいた正室の瀬名姫と嫡男の竹千代、長女の亀姫らとの人質交渉を行い、今川氏真にとって、親族であった鵜殿兄弟を見捨てられず交渉は成立し双方の人質が交換されます。

生駒ケーブル

生駒ケーブル

日下の直越道に行く前に、まずは生駒山をえっちらおっちら登ります。まずは縦走路に入れる生駒山麓公園を目指します。公園にはアスレチックなどいろいろありますが、生駒ケーブルの古い車両がありました。

生駒ケーブルは大正7年に開業し宝山寺への参詣に活躍します。生駒ケーブルは生駒山上遊園地まで続いています。生駒山上遊園地から大阪平野と奈良が見渡せますので戦中は飛行塔が防空監視所として使われました。そのため生駒ケーブルは金属類回収で廃線になる鉄道が多い中、存続しました。

現在も動いているケーブルとして生駒ケーブルが最も古くなりました。なかなか味わいがある車両でした。

五瀬命負傷碑

五瀬命負傷碑

日下の直越道の尾根道沿いに五瀬命負傷碑があります。最初、気づかずに通り過ぎてしまいました。五瀬命は神武天皇のお兄さんで交戦中に長髄彦の放った矢に当たってしまいました。五瀬命は「我々は日の神の御子だから、日に向かって戦うのは良くない。廻り込んで日を背にして戦おう」と助言します。って、大坂から大和へ攻め込む前に分かってたでしょうに、よう分かりません。

神武天皇は草香津(くさつ)まで退き、盾をたてて雄叫びしました。草香津は盾津と呼ばれるようになります。草香津から船出して紀州へ向かいます。ところが五瀬命は傷が悪化し紀伊国の男之水門で亡くなりました。和歌山市の竈山神社に墓があります。神武天皇は紀州をまわって熊野から八咫烏を道案内に大和へ攻め込みます。

日下の直越(ただごえ)道

神武天皇・孔舎衛坂顕彰碑

「直越の この道にてし 押し照るや 難波の海と 名づけけらしも」と万葉集にも出てくる古道です。神武天皇が生駒山から大和へ入る時に使った道と言われ、どの道だったかは諸説あります。

一番可能性が高い神武天皇・孔舎衛坂顕彰碑がある尾根道を目指すことにします。生駒山の峰の一つ饒速日山伝承地(ニギハヤヒが天降ったとされる峰)を過ぎ生駒縦走路を「こぶし谷」へ向かいますが、途中に山道を発見。ウーン、日下の直越ポイ道だと分け入ります。

■日下の直越道(尾根道)

山道を進みますが、下草が多く道が見えないところが所々にありますが、途中に日下直越道(尾根道)の道標(板切れ)があり合っているこを確認。夏はまず無理な道です。

日下の直越道には谷筋道もありますが、尾根から攻撃されるので、やはり尾根道でしょう。日下の直越道をひたすら降りていくと神武天皇・孔舎衛坂顕彰碑を発見。日下から少し登ったところにありました。

日下の直越道はハイキングコースとは全然、違う道なので誰も歩いていませんでした。

長髄彦(ながすねひこ)本陣跡

長髄彦(ながすねひこ)本陣跡

神武天皇は吉備高島宮から船で大阪湾に入り、大阪平野は梅でしたので生駒山の麓の港である日下に到着。ここから生駒山を超えて大和に入ろうとしましたが、大和を治めていた長髄彦が立ちふさがり戦いとなります。

長髄彦の本陣が生駒市白庭台の住宅地にあります。近鉄けいはんな線の白庭台駅からちょっと行った矢田丘陵の北の先にあり生駒山を超えてきた敵を高台から迎え撃てます。もっとも生駒山に前線をおいていました。長髄彦は登美能那賀須泥毘古と記載され頭に登美(とみ)がついています。現在も登美ヶ丘や富雄駅の名前が残っているので、このあたりに本拠地があったようです。

田原城

田原城

ようやく涼しくなってきたのでリハビリがてら田原城へ。場所は四条畷にあります。

四条畷といいながら生駒山の西ではなく東側なので、実質的に生駒の北になります。田原城は三好長慶の飯盛山城の東を守る支城でした。比高30mほどの小山に複数の郭が作られ、堀切と切岸で守られた遺構がよく残っています。山城には珍しく、よく整備され案内版まであります。西出丸までめぐってきました。

三好長慶時代はキリスト教が盛んで城主の田原氏もキリシタンとなり、洗礼名は「レイマン」だったという記録がルイス・フロイスの書簡に残っています。2002年(平成14年)に近くの千光寺跡から十字架とイエズス会を示す「H」マークの下に天正九年(1581年)と記載されたレイマンの墓碑が出土しています。

西国街道をゆく

西国街道

西国街道は東寺から大坂を経ないで西国(下関)へ至る街道ですが、西宮までのルートは別名「山崎通」とも呼ばれていました。

当時は1日あたり40kmほど歩いたので東寺を出て長岡京(向日町)から山崎宿を通り、芥川宿、郡山宿を抜けて瀬川宿(箕面線の桜井駅ちかく)で宿泊すると約40kmです。2日目は昆陽宿(伊丹)・西宮宿(西宮市)から灘五郷を通って神戸にいたり生田神社あたりで40kmほどになります。山崎通りを2日で通り抜けていて、昔の人は健脚ですね。

西国街道は大坂の北の方を通り、大坂をバイパスする街道になっています。大坂ー西宮間には浜街道があり、西宮で合流します。当時の倍にあたる4日ほどかけて歩きましたが、ほとんど途切れることなく東寺から三宮まで街道が続いていました。

ボジョレーヌーボー

ボジョレーヌーボー

ボジョレー・ヌーボー、バブル景気の頃は大騒ぎしていましたが、2004年から長期減少傾向が続いていて輸入量が減っています。日本のワイン消費量は広がっているので、ボージョレ・ヌーボーの「1人負け」とも言える状況ですね。とは言いながら縁起物みたいなものなので飲んでいます。けっこうフルーティーな味でした。

バブル景気の頃、ワインパーティをやるぞと会社の先輩が言いだし、そこまではよかったのですが、下宿にボジョレー・ヌーボーの樽を送ってきてパーティの日に持ってこいと今ならパワハラ行為ですなあ(笑)。樽には説明書がついていて湿度をたもつよう濡れた雑巾で一日一回拭けとか書いてあります。おかげで残業して帰ってからせっせと拭いておりました。パーティの日、フレームのバックパックに樽を紐づけて運びました。

西国街道をゆく(東寺)

東寺

寺が西国街道のゴールです。新幹線で五重塔が見えると京都に来たなという感じになりますが、あの五重塔があるのが東寺です。五重塔の高さですが80mほどで北山通りの標高と同じになります。京都で「上がる下がる」といいますが、高低差から理にかなっています。東寺は平安時代に官寺として西寺とセットで建てられ、羅城門を入ると朱雀大路の両側に五重塔がゲートのようにそびえていました。

やがて空海が真言密教の根本道場として東寺を活用します。この時の印象が強く、東寺といえば空海となっていて、毎月21日(弘法大師の月命日)には弘法市が境内で行われています。同時期に最澄が顕教を広めますが、修行者が一つ一つ教えを積み重ねる必要がありますが、これに対して密教は仏の力を借りて、呪文(真言)のような言葉で短期間で悟りに達するため、修行がいやな貴族に歓迎されます。

■どら焼きは東寺が発祥

東寺といえば「どら焼き」は東寺の僧侶が寺でも作れて腹持ちがよいお菓子を命じられ誕生しました。銅鑼で皮を焼いたことから「どら焼」と命名されます。関西では三笠山に似ているところから三笠と呼ばれています。

    西国街道をゆく(羅城門)

    羅城門

    西寺のすぐ近くにあるのが羅城門跡。黒澤明監督の映画「羅生門」は芥川龍之介の「藪の中」をモチーフにしていますが、芥川龍之介には他に「羅生門」があり、門の上で死人の髪を盗んでいる老婆が登場する荒れ果てた状態でした。

    羅城門跡は小さな公園に石碑が建っているだけです。JR京都駅前に羅城門の模型があり、こちらで往時をしのべます。羅城門からは幅85mの朱雀大路を通して朱雀門まで見通せたようです。朱雀大路は軍の凱旋や外国からの賓客を迎えるイベントが行われる儀礼空間でしたので公卿を除いては朱雀大路に面して門を作ることができず、ずっと築地塀が続きました。

    ■羅城があった?
    九条大路の発掘調査によると羅城門から西寺を超えたあたりまで高さは不明ですが羅城が存在していたようです。ただし羅城が都の全周を取り巻いているわけではなく平安京に入る人へのアピールだったようです。実際に羅城が築かれるのは秀吉のお土居ですね。

    羅城門は980年の暴風雨で損傷してからは修理されることはなく、「光る君へ」に登場する藤原実資の「小右記」によると道長が法成寺建立に際して礎石を持ち帰った記録があり、源氏物語の頃は礎石しかなかったようです。道長のように礎石を持ち去ったものがいるので、現在まで羅城門の遺構が見つかっていません。