寺部城

寺部城

豊田にホテルをとっていたので岡崎から豊田に出たついでに夕暮れの寺部城跡へ。

永禄元年(1558)2月、若き家康が初陣を飾った城です。寺部城の城主は今川側でしたが離反して織田信長につきます。今川義元は元服したばかりの家康に寺部城攻撃を命じ家康は三河勢が支えます。家康は周到な戦いをしたようで、譜代の家臣団は「苦しいなかでお育ちになり、軍略は如何かと朝夕、案じていたが、めでたい」と涙を流して喜んだとあります。ただ大久保彦左衛門が書いた三河物語に出てくる話なんで話半分でしょう。ただ今川義元は初陣を評価し恩賞と腰刀を贈っています。

矢作川沿いに築かれた寺部城は土塁などが残り、藪の中には堀切などがありました。家康が天下をとると寺部城に槍の名手だった渡辺守綱が城主として入ります。大河ドラマ「どうする家康」ではジャイアンの声で有名な木村昴が演じていました。以後、渡辺氏が明治時代まで治めます。

岡崎城 持仏堂郭

持仏堂郭

上之郷城、深溝城と廻ったので、ついでに岡崎城へ寄ってきました。さすがに観光客が多いですね。

もともは三河守護代の西郷氏が砦を作り、やがて進出してきた松平一族が岡崎城として拡張整備します。家康はこの城で生まれますが青年期は今川の駿府で過ごしました。家康が関東に移されると田中吉政がさらに整備し、城下町を取り込んだ総構えとします。

小牧・長久手の合戦で連携していた織田信雄が秀吉と単独講和してしまったため、家康は秀吉と対峙することになってしまいました。この時に秀吉の侵攻に備えて三河の城を改修しましたが、岡崎城も改修されました。ところが天正地震(1586年)が発生し、大きな被害をうけた秀吉は戦争どころではなく家康と興和します。

■天守裏側の丸馬出し
天守から廊下橋でつながっている郭があり、ここに持仏堂があったので持仏堂郭と呼ばれる郭がありました。これが武田流の丸馬出しになっていて家康は武田からいろいろと学んで取り入れていました。天守に近づけば、馬出しから即座に反撃する攻撃的な拠点です。それはいいのですが、持仏堂郭なんか撮影している観光客は誰もいませんでした。

深溝城

深溝城

蒲郡駅から2駅行くと三ヶ根駅があり、普通しか止まりません。なんでこんな普通しか止まらない駅で降りたかというと、ここが家忠日記の中心地で深溝城がありました。ということで碑跡を見てきました。

■深溝城の築城
鎌倉時代末から南北朝時代にかけて深溝を支配していたのが三河大庭氏です。御家人だった大庭氏と関係があるかははっきりしません。この三河大庭氏が築城したのが深溝城で近くを東海道の脇街道である平坂街道が通っていました。中世になると松平氏が進出し大庭氏と戦になり、勝利し深溝松平家が誕生します。

■家忠日記
角川文庫から「家康家臣の戦と日常」(盛本昌弘)という本が出ていて、松平家忠が17年間にわたって残した日記があります。城の普請に駆り出されたり、連歌作りで交流したりして、京都へ行った時に里村招巴と対面しています。上之郷の鵜殿氏はこの頃は家康家臣となっており家忠の母は鵜殿氏になります。親戚なので家康が立ち寄ったりもしています。武田勝頼を倒した信長は三河を通って帰陣することになります。家忠はそのための普請などを行っていますが信長の行列を見たようで信長が黒人の弥介を連れているのを目撃しています。松平家忠は関ケ原の合戦の前哨戦となった伏見城の戦いで討ち死にします。

■板倉勝重
江戸時代になると板倉勝重の次男の知行地となりますが、もともと深溝松平家の所領の一つ小美村で生まれたのが板倉勝重。板倉家は深溝松平家の家臣でした。板倉勝重は出家していましたが家督を継いだ弟が戦死したため、家康の直臣となり京都所司代などを歴任します。