日本酒試飲会

日本酒試飲会

大阪府中小企業診断協会からいろいろなイベント案内が届くのですが大概は無視。そこに日本酒試飲会という魅力的なお知らせが!

迷わず参加申込!申込した後によく見ると青年会のイベントです。さすがに青年じゃないなとキャンセルしようかなと、さらによく読むと診断協会の会員なら誰でも参加OKと書いてあったのでそのまま参加。青年会主催なので若い参加者ばかりかいなと思ったらいつもの酒好きのシニア層が集まっていました。人のことはいえませんが(笑)

ずっと試飲会と思って参加したら日本酒の講義からスタート。講師は浅野日本酒店の浅野社長です。中小企業診断士で梅田、京都、三宮、浜松町、横浜の5店舗を運営しています。オイオイ、飲み会じゃないのと思ったら、後半は試飲会で風の森や3年物の古酒などけっこういただきました。満足!満足!

清風堂書店

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LEC梅田へ行く時、東梅田駅で降りて、まず目指すのは清風堂書店です。新刊書店ですが、棚が面白く大阪本を集めたコーナーや独特の選書をして、けっこう変わった本にお目にかかれます。

最近は「世界マヌケ反乱の手引書 増補版」と「大阪の街道を歩く」を買いました。創業1967年と60年ちかい老舗本屋で京都の寺町通にあった三月書房のような雰囲気ですね。この清風堂書店ですが2月28日で閉店するそうです。

理由は梅田セントラルビルの建て替えによる立ち退きで出版部門などは残るそうですが、あの本屋がなくなるのは残念。東梅田にあった旭屋書店ビルもなくなったし、対面にできたブックファーストもなく、あるのは地下街にある旭屋書店だけですが、あそこの品揃えはふつうの本屋だしね、ウーン。

東海道をゆく(逢坂関)

逢坂関

大津から山科に向かう坂が逢坂です。坂の名前の由来は日本書紀で、仲哀天皇の皇子だった忍熊皇子(おしくまのみこ)が武内宿禰と出合ったので逢坂なんだそうです。ほんまかいなあ、なんか会津の話とよく似ていますね。

仲哀天皇の奥さんだった神功皇后が筑紫で応神天皇を出産し、瀬戸内海から紀伊に向かいます。これを阻んだのが応神天皇の異母兄になる麛坂皇子と忍熊皇子で、結局は皇后軍の武内宿禰に敗れました。敗れたのが逢坂です。なんか神武天皇の東征のような話ですね。

この逢坂につくられたのが逢坂の関です。東海道、東山道(中山道)、北陸道が一つになって関を越えていました。古代は不破関(関ヶ原)、鈴鹿関、愛発関が三関でしたが、平安遷都にともなう防衛線再構築で逢坂関が設けられます。残念ながら遺構は残っていません。

東海道をゆく(逢坂山隧道)

逢坂山隧道

東海道本線を通すために大津から山科までトンネルが1880年(明治13年)につくられました。逢坂山隧道で外国人技師に頼らず日本人だけで完成させた山岳トンネルです。煉瓦作りで側壁はイギリス積みになっています。東海道(国道1号線)沿いにありますが、徒歩でないと行けないので観光客は誰もいませんね(笑)。

大津から京都までまっすぐに東海道を通すためには東山と逢坂山の2つのトンネルが必要で、当時の鉄道土木技術では一つしか無理でした。そこで逢坂山隧道をつくり、山科の追分から南西に山科盆地を下って東山を回り込み、伏見稲荷あたりから現在の奈良線に入って京都駅に至る迂回ルートとなりました。

悲願だった東山隧道もでき逢坂山隧道は1921(大正10)年の路線変更により廃線になるまでの約40年間、使われました。

東海道をゆく(蝉丸神社)

蝉丸神社

百人一首で有名な蝉丸。有名なのが「これやこの 行くも帰るも 別れては 知るも知らぬも 逢坂の関」という句です。盲目で盲琵琶の名手というところから平家物語を語る琵琶法師の祖ともいわれています。

山科の四宮に住んだと言われており逢坂の関近くになります。亡くなってから関明神に合祀され、これが蝉丸神社になっています。逢坂の関に分社があり、他に上社と下社があります。まず下社に行ってきましたが、境内を京阪電車がぶったぎっていました。東海道沿いに灯篭や神社名の石碑があるんですが、境内に入ると、いきなり踏切になっています。ここは鎌倉の江ノ電かいなというような風情ですね。

下社の祭神は豊玉姫命ですので山幸彦、海幸彦ですねえ。

東海道をゆく(大津宿)

大津宿

江戸・日本橋と京の三条大橋を結ぶのが東海道です。江戸から京へ向かう時、最後の宿場(53番目)が大津宿でした。琵琶湖沿いに西に向かっていた東海道が南に90度曲がって坂を登ったところに2軒の本陣があり、本陣から見る琵琶湖が絶景だったようです。

江戸時代、大津と山科を結ぶ間に車石が敷かれ牛車の往来を助けていました。大津宿の碑の近くにもおかれていました。

日曜日に「坂の上の雲」が再放送されロシア皇帝ニコライ2世が登場しますが、皇太子時代に日本を訪れ斬りつけられ負傷した現場もすぐ近くにあります。いわゆる大津事件です。犯人である津田三蔵の墓は伊賀にあります。伊賀の寺町を歩いている時に見つけ、おおーこんなところにあるんだと驚きました。

確定申告

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支払調書も集まったので確定申告を開始。

E-Taxは毎年、バージョンアップされて使いやすくはなっていますが、やり方が毎年変わるので戸惑いますね。書類を片手に入力し昼過ぎから夕方までかかってようやく送信が終了!終わった!終わった!無事に2024年度の確定申告が終わりました。

まてよ消費税の申告もいるんだあ!
昨年度はインボイスがはじまった10月からの3ケ月分でよかったのですが、今年度は丸々一年分ですので2割特例といいながら、けっこうな金額に(泣)。

まあ払わんとあかんなあと、ペイジーでエイヤーと支払。これで全部、終わり!

近江安村城

近江安村城

伊勢遺跡をGoogleマップで見ると近くに近江安村城があることが分かり行ってみました。

と言っても城跡は何も残っておらず日吉神社あたりが水路に囲まれているので、堀跡の名残でしょう。平城で阿村集落にあり、阿村城とも呼ばれていました。江州佐々木南北諸士帳という近江守護だった佐々木氏時代の城名と城主一覧があり安村城には城主として安むら善兵衛の名前が記載されています。

近くには野尻城、下鈎城、上鈎城(鈎の陣で有名で土塁などが残っています)、勝部城などがありました。佐々木氏の本拠地だった観音寺山城が近くなので信長が足利義昭を奉じて上洛する時に佐々木氏(六角氏)が敗れたので、進路沿いにある近江安村城も攻められたか逃げたでしょう。

卑弥呼を擁立した伊勢遺跡

伊勢遺跡

「倭国乱れ、相攻伐して年をへたり。すなわち共に一女子を立てて王と為し、名づけて卑弥呼といふ」有名な魏志倭人伝ですが、各国から王が集まり一女子を立てる話合いをした場所が伊勢遺跡ではないかと言われています。伊勢遺跡は突然、現れ、用が終わると消えます。その後に邪馬台国畿内説の有力候補である纏向遺跡ができます。

伊勢遺跡は滋賀県の栗東駅と守山駅の間の伊勢町にあります。昔、行った時は野原に立札ぐらいしかなかったのですが、ちょうど「伊勢遺跡と卑弥呼の共立」(吉川弘文館)を読んでいて遺跡公園として整備されているとあり、久しぶりに行ってきました。

見違えるように整備されていましたが、他に観光客がいません(笑)。遺構展示施設でマンツーマンで解説してもらい一人だけでビデオ上映してもらいました。

■弥生時代の国際会議場
伊勢遺跡は真ん中に方形の塀で囲まれた大型建物が並び、傍らに楼観があります。不思議なのは円周状に大型建物が並び、等間隔で真ん中の建物を取り囲んでいます。さながら真ん中が国際会議場で各国の大使館が取り巻いているようなイメージです。当時は通信が大変でしたので全権を委任された大使か王そのものが参画していたのでしょう。

久留倍官衙

久留倍官衙

久留倍官衙は「くるべかんが」とよみます。四日市市大矢知町の高台にあり、桑名での会議まで時間があったので、ついでに寄ってきました。近江と伊勢を結ぶ八風街道が近くを通っています。

官衙とは役所のことです。北勢バイパスの建設工事で遺跡が見つかり、バイパスはコースを変えて遺跡をまたぐ形に変更されて保存されました。久留倍官衙の最初は奈良時代で正殿や東門(八脚門)などの政庁が、東向きに建てられていました。一部が復元されていますが高台ですので四日市の街が展望できます。ただ政庁ではなく朝明駅ではないかとする説もあります。

久留倍官衙は長期にわたり使われたようで、壬申の乱では桑名へ向かう大海人皇子がこのあたりから伊勢神宮を遥拝して戦勝を祈ったともいわれています。また壬申の乱の道筋をなぞった聖武天皇の謎の行幸では頓宮が新しく造られたようです。遺跡は公園になっています。